世界に学び、若い人達に夢を与える国にしていきたい

  1. 鄙のまれびとQ&A
鄙のまれびと 15

 吉本興業在職3年間で大物漫才師の横山やすしをビンタし、無名だった宮川大助・花子を売り出し上方漫才大賞大賞や花王名人大賞名人賞を取らせ、若井小づえ・みどりも後年、花王名人大賞名人賞、上方漫才大賞大賞、上方お笑い大賞大賞を受賞するなど「伝説のマネージャー」と言われた女性がいる。大谷由里子氏だ。2年間の専業主婦の後、「吉本印天然素材プロジェクト」の立ち上げに参加し、ナインティナイン等を売り出した。志縁塾設立後は「リーダーズカレッジ」や「全国講師オーディション」を主催し、人づくりに汗している。

■ ゲスト 
  志縁塾主宰 大谷由里子氏

■ インタビュアー 
  旅するライター 山ノ堀正道

警察は反社会団体を取り締まり
メディアはもっと重要な報道を

 ――講師塾の不肖の弟子ですみません。現在、執筆中心で講演は3回で止まっています。

 大谷 これからですよ。いろんな人に会っていろんな人の生き方を語るのも面白いじゃないですか?

 ――大谷さんは元吉本興業ですが、先般、「お笑い芸人による闇営業問題」でコメンテーターとして連日メディアに登場されました。この「芸人の闇営業問題」と「吉本興業の対応」について今一度コメントいただけますか?

 大谷 テレビに4日で10本出演しました。私が社員の頃は「闇営業」でなく「直営業」と言っていました。「直」は昔から結構ありました。売れていない芸人さんを縛ってもしょうがないので自分で仕事を取ってきていたのです。直営業が悪いのではなく、相手が反社会団体かどうかが問題です。反社会団体を言うのであれば、会場を貸したホテルや住んでいるマンション、乗っている車を売った会社なりも問うべきではないでしょうか?

 ――反社会的団体とどうやって付き合わないようにするかコンプライアンス(法令遵守)の問題はありますね?

 大谷 それは大事なことです。でも私らも誰が反社会的団体なのどうかわかりません。うちのセミナーへお金を払って反社会的な人が申し込んでも調べようがありません。この前、元経産省の石川和男さん(NPO法人社会保障経済研究所代表)は「相手が反社会的団体とわかっていたら警察が動くはずだ」、新聞社の記者も「(暴力団に関与している)フロント企業が広告を依頼してきたらわからない」と言っていました。反社会団体も複雑になってきています。

 ――ネタになりやすかったのですね?

 大谷 メディアは「吉本」というネタで騒いだのだと思います。

 ――ただ吉本興業の岡本昭彦社長の会見はお粗末でした?

 大谷 社長は芸人に比べてしゃべりの素人です。ほかの一部上場企業の社長も、最近では教育委員会や校長も、不祥事の際、いい会見をしたかというとそうではないと思います。メディアは吉本に振り回されるのでなく、「参院選挙」や「京アニ(京都アニメーション)放火殺人事件」などもっと取り上げるべき問題があったはずです。

 ――TBS「あさちゃん」の夏目三久キャスターも「(番組が吉本興業の問題に時間を割きすぎて参院選の投票率が過去2番目に低かった)これ由々しき事態と思うんですよね。日本の未来を担う子供達が政治に関心を失っているというのは、私達の報道の仕方に問題があるとも思っていますし、私もこの後、スタッフとしっかり話していきたいと思っています」と述べました。今、日本のメディアは隣の韓国の曺国(チョ・グク)法相のスキャンダルを面白おかしく取り上げていますが、それよりも1,000兆円の財政赤字をほっておいていいのか、環境問題をこのまま放置していていいのかとか自国の山積する課題についてもっと真剣に報じたり論じるべきと思うのですが。

 大谷 そうそう。日本として何をしていかないといけないのかを語るのが大事だと思います。ぶっちゃけ老後の「年金2,000万円問題」も、それでやっていけるわけがないです。アメリカが「日本は2,000万円と言っているけど、この国はいくら必要だろう?」といって試算したところ1億7,000万円と出たそうです。どう考えても私達の年代が2,000万円の預金で老後が安心だと思っている人はいません。それなのに麻生太郎金融相は報告書を受け取りませんでした。

 ――その辺の問題は政府もアンタッチャブルで先送りしていますよね?

 大谷 そこをタッチすべきです。それこそ60歳からの生き方に「こんな仕事がある」とか提案していったらどうでしょう? 例えば防犯カメラを見て探すセキュリティーチェックの仕事とか60代に働いて欲しい会社は山ほどあるのです。

老舗の吉本興業へ入社し
気合いと根性で仕事を覚える

――大谷さんが吉本興業へ入社された理由は?

 大谷 男女雇用機会均等法の施行前で女子大生の求人が土砂降りの状態でした。名の知れている会社へ行こうと思って受けて全部落ちて、父親が開業医なので「就職しないでお父ちゃんの医院で働いたらいいじゃない?」と言われて絶対嫌で何が何でもどこかへ潜り込もうと思っていました。たまたま友達のところで『マスコミ年鑑』を見せてもらい、後ろの方に吉本興業があって面白そうだと思って葉書を送りました。すると「面接へ来ませんか?」という返事が来て、母も「明石家さんまさんに会えるかもしれへんで」といったノリだったのです。

 ――さんまさんは既に売れていたのですね?

 大谷 私が吉本へ入社したのは1985年4月です。当時、さんまさんは花王名人大賞新人賞、日本放送演芸大賞のホープ賞、奨励賞を立て続けに受賞していてスターでした。さんまさんの実家は奈良市なので近所です。

 ――吉本興業のことは一昨年10月から昨年3月まで、NHK連続テレビ小説「わろてんか」で放映されましたね?

 大谷 近鉄電車で配るフリーペーパーから「『わろてんか』に合わせて吉本興業の創業者について連載して欲しい」と頼まれて、改めて1912年に吉本せい・吉兵衛夫婦が創業し、せいさんの実弟の林正之助さんが盛り上げた吉本の100年の歴史を調べてみました。当時はテレビも風呂もないのでみんな銭湯に行って帰りの娯楽として寄席を考えたそうです。最盛期には寄席小屋が100近くありました。それが吉本のエンターテインメントの原点です。

 ――寄席小屋では新喜劇を行なっていたのですか?

 大谷 当時は落語や漫才だけだったと思います。戦後1948年に法人化して、せいさんが会長、正之助さんが社長に就任しました。不動産をいっぱい持っていたので芸能事務所としては初の上場を果たしました(2009年上場廃止)。正之助さんは初代桂春団治、横山エンタツ・花菱アチャコ等の芸人を多く育て、なんば花月やうめだ花月等の劇場をオープンさせる中で、1959年に「吉本ヴァラエティ」が発足し、1964年から「吉本新喜劇」になりました。その間、「これからはテレビの時代」ということで「てなもんや三度笠」や「花の駐在さん」が朝日放送のテレビ番組として放映されました。新喜劇はテレビと共に誕生したのだと思います。

 ――吉本の東京進出は?

 大谷 私が高校生だった1979年~1982年のMANZAIブームでB&Bの島田洋七さんや島田紳助・竜助さん達が活躍していました。その最中に東京連絡所(現・東京本社)が赤坂へ創設され、所長の木村政雄(後の常務)夫婦と大崎洋(現・吉本興業ホールディングス会長)夫婦が3LDKのマンションで一緒に働き暮らしていたのでかなりいろいろ大変だったみたいです。そういう闇雲に仕事をしていた時代でした。

 ――入社の倍率は?

 大谷 100人ぐらいが受験しましたが、冷やかしもかなりいたようです。私の年に内定者は3人でした。社員が100人程度、芸人が400~500人程度でしたが、今は社員が1,000人、芸人が6,000人と言われています。

 ――当時は女子社員の草分けのような存在でしたか?

 大谷 男社会でした。入社早々、「お前がボケッと座ってても、吉本は1円の得にもならへん」「いつまでも視聴者のつもりでおったらアカンで」「仕事は遊びじゃないんや」といって叱られながら気合いと根性で仕事を覚えていきました。

「マネーを運ぶマネージャー
能なし真似ごと真似ージャー」

 ――新人でいきなり大物漫才師の横山やすしさんの担当になったのですね?

 大谷 私達が入社した時は東京・大阪合わせてマネージャー30人ぐらいで漫才チームと落語家チームに別れて400人ぐらいの芸人さんの面倒を見ていました。当時、もちろん携帯電話がないので公衆電話で10円入れて東京事務所に電話して、「伊丹空港で何時の飛行機に乗せました。羽田空港へ何時に着きます。迎えに行ってください」みたいな感じでした。

 ――30人で400人ということは1人で10人ぐらいの面倒を見ていたのですか?

 大谷 横山やすし・西川きよしさんを担当しながら太平サブローシローさん、西川のりお・上方よしおさん、今いくよ・くるよさんもやってという状況でした。仕事は上から雪崩のように降ってくる感じです。とにかくデスクがしっかりしていて、誰にかかってきた電話かどんな用件かきっちり把握しフォローしてくれました。

 ――横山さんのような約束を守ってくれない芸人さんは大変でしたね?

 大谷 だから私、横山さんの正妻、すべての愛人、行きそうな店の電話番号を全部暗記していました。

 ――その横山さんが「わしと仕事がしたかったら、すべて松岡(大谷さんの旧姓)に言え」と言ってくださった?

 大谷 それまでやす・きよの仕事の決定権は初代マネージャーで東京事務所長の木村さんにありました。テレビ朝日へのタクシーの中で横山さんが「わしがなんで(東京)木村が好きか教えてやろうか?」と言ってきました。「番組の本番前に木村あてに電話がかかってきて、勘でわしのことやと思うて尋ねたら『僕への仕事の電話です』と答えよった。本番終了時に『さっきはすみませんでした。実は横山さんのお母さんが亡くなられたという電話でした。私の勝手な判断で隠させていただきました』と言いよった。死んでしまったものはしゃあない。本番前にわざわざ言う必要ないわな。あいつはすごいシビアな判断で自分の仕事とわしを守りよった。わしはあの時、あいつはできる、と思ったんや」と教えてくれました。さらに「わしら芸人は猿や。マネージャーちゅうのは猿回しや。うまいこと猿をおだてて、使って、金稼いだらええねん。マネーを運んでくるからマネージャーやろ。能のないマネージャーは芸人の後ろでマネージャーの真似ごとをしているだけやから『真似ージャー』や」と言われなるほどと思いました。

 ――泥酔している横山さんを新人の大谷さんがビンタされたこともありましたね?

 大谷 その前に横山さんは西川さんにも愛人からも殴られていました。何遍もあったことなのです。その日はよみうりテレビ(日本テレビ系列)「爆笑クイズQ&A」という番組前にベロンベロンに酔っ払ってきて、太田プロダクションの片岡鶴太郎さんにめちゃからみました。当時の太田プロはビートたけしさん(現・T.Nゴン)、山田邦子さん(現・フリー)、そのまんま東(現・東国原英夫)さんがいたわけです。よみうりテレビから「吉本さんは笑いで済むかもしれないけど、うちの太田プロとの関係をどうしてくれるのですか?」と言われました。それで酔いを覚まそうと思って「いい加減にしてください」と言って平手で殴ったのです。そのときたまたま鶴太郎さんに報知新聞の密着取材があって、「やすし、マネージャーに殴られる」と翌朝の新聞に載ったということです。

 ――それで大谷さんが有名になったわけですね?

 大谷 フジテレビの横澤彪さん(後に吉本興業専務)なんか大喜びです。「やすしさんに殴られたマネージャーはいっぱいいるけど、殴ったマネージャーは君ぐらいだ」と言われました。当時、フジテレビ「オレたちひょうきん族」でもマネージャーが前に出るのが流行っていたし、TBS「中村敦夫の地球発22時」もマネージャーに密着した番組があったりして芸人やタレントとの垣根が低い状況でした。

 ――西川さんが参院選に立候補されたときは大変でしたね?

 大谷 横山さんがタクシー運転手に暴行して1年8ヵ月間、謹慎になったこともありました。あれだけ自分勝手放題したので、西川さんもいい加減嫌気をさして政治に野望を抱いたのだと思います。それなのに横山さんは相方が裏切ったと思い込んだわけです。もしやすきよの漫才がうまくいっていたら西川さんは選挙に出なかったかもしれません。

宮川大助・花子を担当し
上方漫才大賞を取らせる

 ――陽の当たらなかった宮川大助・花子さんをどう売り出したのですか?

 大谷 今いくよ・くるよさんのマンションで大助・花子さんと会って「僕らもマネージャーがほしいなぁ。まっちゃんみたいに元気で話しやすいマネージャーやったらいいなぁ」と言われて、翌日上司に相談したら「漫才面白いのに、全然売れてへんなぁ。まっちゃんが頑張って売ったれやぁ」とすんなり決まりました。  売り出しは簡単でした。横山さんというすごい大変な人がいると自然と番組製作の周りが仲良くなります。決定権のあるプロデューサーと知り合っているから「大助・花子を売り出したい」と頼むと「いいよ」といって応えてくれました。若い頃にちゃんと人脈を築いておくと、それが後で助けてくれます。その辺のことは『吉本興業女マネージャー奮闘記』(立冬社)に詳しく書いてあります。

 ――就職2年目の23歳でテレビ「花王名人劇場」のプロデューサーを任されたとのことですが、マネージャーからの抜擢ですか?

 大谷 当時は劇場もやり営業もやり自分でスポンサーを付けタレントのマネージャーもやり番組のプロデューサーもやり何でもこなしていました。あるとき「なんば花月」支配人の田中 プロデューサーが「お前がプロデューサーになってイベントを考えてみろ。大助・花子を使って好きにやったらいい」と言われて、大助・花子さんをメインに西川きよし・ヘレン夫妻、桂三枝(文枝)さん、いくよ・くるよさん、司会を浜村淳さんでいくことになりました。大助さんが「わしら30分ぶっ通しで客笑わせてみせるわ。長いこと売れへんかった意地見せたる」と言った通りに2人は30分間、観客全員を笑いの渦に巻き込みました。この3時間半ほどの舞台はテレビ番組として編集され、「花王名人劇場」で放送され、25%の視聴率を取りました。自宅で番組を見終わった後、先輩の谷○○さんから電話がかかってきて「あんな出来の悪かったお前が、ようここまで成長したもんや。よう頑張ったなあ」と言われ涙がボロボロこぼれてきました。その後、大助・花子さんが上方漫才大賞を取って、今度は3人で泣いて喜びました。

 ――若井小づえ・みどりさんの場合は?

 大谷 大崎さんに相談すると「こづえ・みどりって、ギョーカイや通の間でファンが多いやんか? 女性コンビで、あそこまで芸人に徹しているなんてたいしたものや。でも、『こづえ・みどりのファンです』って、気恥ずかしくて言いたくないよな? それを逆手にとって『隠れこづえ・みどりファンのためのイベント』を、思いっきりおしゃれな場所でやったら面白いやないかな?」といいアドバイスをくれました。それで若手中心のおしゃれな「2丁目劇場」でイベントを開催し、劇場は超満員となりました。このイベントに来た人は自動的にファンクラブである「秘密クラブ」へ入会する仕組みにしました。

起業して大ブレイクした
吉本印天然素材プロジェクト

 ――「吉本印天然素材プロジェクト」の立ち上げの際、ナインティナインやチュッパチャプス、雨上がり決死隊等の売り出しにも関わったとか……。

 大谷 吉本を結婚退職して、2年間専業主婦をした後、子供と2人だけの生活に飽きてしまいました。その間、吉本からパンフレットやポスター制作等の仕事をもらっていながら友達と一緒に軽い気持ちで会社を起業してまあまあお客さんにも恵まれていたのです。そんなある日、直属の上司だった泉正隆さん(現・吉本興業ホールディングス専務)から「新しいプロジェクトを立ち上げるから手伝ってくれないか?」と言われ、それがダンスもできるアイドル芸人ユニット「吉本印天然素材プロジェクト」でした。  うちの会社と吉本と電通のジョイントで、メンバーがすごかったです。後に「モーン二ング娘」や「AKB48」「ハロー!プロジェクト」の振付で有名になった夏まゆみさん、「東京ヴォードビルショー」「笑ってる場合ですか?」を手掛けた演出の谷口秀一さんなどです。スタート時から日本テレビ「吉本印天然素材」、TBS「ピカピカ天然素材」などレギュラー番組を持ったことから全国で展開したライブでも大好評でした。幸か不幸かナインティナインの岡村隆史さん、矢部浩之さんがガーンと大ブレイクしました。

 ――仕事はうまくいったけど社員が付いてこなかったのがこの時期ですか?

 大谷 そりゃそう。社員に「私は吉本でこうだった! 24時間働いた!」と自分を求めた。でも、社員はその経験がないわけです。そんな中で子供は小さいのに実家に預けたまま全国ツアーへ帯同しました。

 ――お嬢さんも「おばあちゃんに育てられた」と言っておられました。

 大谷 娘は「ママなんて何もやってくれなかった」と言います。やってもらったことを忘れて、やってくれなかったことばかり言いますから。

 ――我が家も同様です。子供は印象が強かったことを中心に覚えていますからね。

 大谷 それこそ会社は忙しくてぐちゃぐちゃで、これどこまでいくのだろう、どうなるのだろうと思っていた矢先に阪神・淡路大震災が起こり、自分の会社と自分の家族に向き合おうと思いました。吉本関係の仕事を全部返して一旦リセットして、最初に仕事をいただいていた会社と細々やっていこうと考えていたら、その会社の上場支援などが忙しくなってきて、イベント会社を吸収合併しました。M&Aも経験しています。彼らとは「大谷さんが仕事を取ってきてくれたら、俺らが形にしますから」という関係でした。
 その後、マネジメントを勉強しようと思ってコーチングを習って自分でコーチング講座を行なったら、あちこちから講師として呼ばれるようになりました。人材育成にはロジックがあるということがわかって、これは魔法の道具だと思いました。

 ――それで研修会社「志縁塾」を設立することになるのですね?

 大谷 知覧の商工会議所と仕事をすることになり、特攻隊員として国のために命を賭した若者達に思いを馳せて、「志」のある人間をつくりたいと思って志縁塾と命名しました。

 ――コーチングで社員の気持ちがわかったと言っていませんでしたか?

 大谷 それまで5人の役員を叱ったり責めることばかりしていたのですが、人を怒ってもしょうがないと思うようになって、話を聴く手法に変え、彼らがやりたいようにやらせたら意外と会社がうまくいきました。「社員教育や幹部教育を一緒にやらないか?」と言ったら「僕らは今の仕事がいいです」と言うので会社を譲って、私は別の道へ進みました。

サポーターが5,000人
全国講師オーディション

 ――志縁塾を支えてくれる応援団がいたのですね?

 大谷 元吉本の木村さんはじめ26人が100万円ずつ出資してくれました。そんなに元手がいる仕事ではなかったのですが、東京の京橋にセミナールームを構えました。

 ――相当イベントを打ちましたね?

講師オーディション

 大谷 講師塾には延べ1,800人超が受講しました。もちろんそれ以外にも多くのセミナーはじめイベントを開催しました。「全国講師オーディション」も10回目を迎えます。

 ――今、もう始まっていますが、どうしたら参加できるのですか?

 大谷 視聴は無料です。このイベントを応援したい、この講師を応援したいという人のためにサポーター制度があります。1,000円払ってサポーターになったら何人でも投票できます。当分、無料でやっていたらGメールをいくつもつくって何回も同じ人に投票したり悪用する人が出てきたので有料にしました。いまサポーターは5,000人います。

 ――会場費がまかなえますね?

 大谷 システム管理に先行投資していますし、イイノホールの会場費や賞金100万円でトントンです。これで儲けようとは思っていません。私達は講師塾でトレーニングしたのであれば講師甲子園ではないですが挑戦する場所が大事だと思いました。挑戦するから腕が磨かれるじゃないですか? それと世間の人達にいろんな考え方や生き方があるということを見て欲しいと思いました。

 ――オーディションへの参加資格は?

 大谷 くないです。誰でもOKです。今回、全国講師オーディション2015でグランプリを獲得した津田剛さんが大分で講師の卵を5人育成して送り込んできています。

 ――予選が盛り上がると、12月の本選が楽しみですね? 10年続けてどうでしたか?

 大谷 そう。目的ははっきりしています。学ぶことが好きな人間をつくりたいということです。この間、何よりも続けたことがよかった、10年続けないとわからないこと見えないことがあるなと思います。始めるのは簡単だけど続ける力は違うじゃないですか? 最初の頃は目立ちたいといった人がいたけど、10年やってきて本当に伝えたいと思う人が集まっているし、講師オーディションにファンのお客さんが付いてきました。出場者へ講演の依頼があったり、出版のオファーも来ています。

 ――「リーダーズカレッジ」はどんな思いで始められたのですか?

リーダーズカレッジ

 大谷 スタートしてもうすぐ20年になります。新入社員同士が知り合う機会って少ないので、吉本の先輩が「みんなで新喜劇をやらせたらどうか?」と助言してくれたのがきっかけです。劇というのはよくできています。やる気のない人間も思いを一つにして、同じ目標に向かって進んだり、場を盛り上げるのに役立つチームビルディングです。企業から派遣されて日曜日を潰して渋々やって来た人間と、面白そうということで自ら15万円払って進んで参加した人間とでは取り組みが大きく違います。その摺り合わせから始めます。だから劇団のようにみんながみんなモチベーションが高くないところから始めます。来年から学教教育も変わりますからね。学校も声を出したり自分のことを自分で語れる人間づくりをすると聞いています。そういう教育が大事だと思っていて、やっと時代が私に付いてきたと思っているのです(笑い)。

ザ・ニュースペーパーと 
政治経済を考える

 ――法政大学大学院へ進学された理由は?

 大谷 東日本大震災に仙台で遭遇して無事に戻ってきて、生かしてもらっている、次どうやって死ぬのかと考えたら、やり残して死ぬのがリスクではないかと思いました。何をやり残しているのかと考えたら、私は偉そうに講師をしているけどまだまだ世の中のことをわかっていないのではないか、もっと世の中のことを勉強しなければいけないのではないかと思った時、たまたまリーダーズカレッジの生徒が法政大学大学院に通っていて、坂本光司先生を紹介されました。1年間、坂本先生のゼミで『日本でいちばん大切にしたい会社』シリーズをずっと研究しました。それはそれでよかったのですが、大学院でいろいろな授業を履修する中で元ソニー・ミュージックエンタテインメントの増淵敏之先生の話がとても面白くて「コンテンツツーリズム」のゼミへ移動させてもらいました。

 ――過去の思考と未来の指向ぐらいの違いがありますね?

 大谷 そうそう。坂本ゼミは中小企業経営者や士業のアカデミックな方々が殆どでした。増淵ゼミはアニメ好き、ゲームクリエーターなどオタクと言われるメンバーも多く、これからどんなゲームが流行るか、これからどんな仕掛けをしていけばいいかとかとても面白かった。そのうちインバウンドブームになって、急に聖地巡礼やコンテンツツーリズムが脚光を浴びだしました。自分が行くところ行くところが注目されるのです。また2年前からSDGs(持続可能な開発目標)と言っていたら今年ブームになりました。

 ――大学院へ行って最も良かったことは何ですか?

 大谷 今までと違った人脈ができたし、自分の頭が若返りました。怪しい人間もいました。「風呂が苦手で入らない」とか。

 ――大谷さんはこれまで順風満帆という印象がありますが、落ち込んだりへこんだりしたことってなかったですか?

 大谷 「人生は壁の向こうは壁。山の向こうは山、草原なんてあると思ったら大間違い」と言っています。結局、人間は最初の壁を越えていくうちに段々壁に慣れてくるようなところがないですか? いろいろ起こるかもしれないけど、最終的には家族が元気だったらいいかとか、日本が平和だったらいいかとか、世界が平和だったらいいかと思うと、小さいことが気にならなくなるでしょう。30、40歳代ではお金が気になりしゃかりきになって働いていました。当時、50,60歳代の社長が自分が持っているものを何でも教えてくれて「最後は日々感謝だよ」と言われて、この人、何言っているのだろうと思ったけれど、今はその気持ちが徐々にわかるようになりました。

 ――大谷さんと言えば「講師の講師」ですが、しゃべれる秘訣を教えてください。

 大谷 うちの講師塾へ来てください。しゃべりはトレーニングです。今、私のところへたくさんオファーがあるのは「次の世代のしゃべれるトップを育てて欲しい」です。社長や労組委員長は思いがあるからしゃべれますが、執行役員クラスや次の執行部ができないのでトレーニングして欲しいという依頼です。自分で自分の「思い」を気づいたら語れます。

 ――「3分のネタをいっぱい持てばいい」と言われていませんでしたか?

 大谷 人の集中力は3~5分と言われています。3~5分ごとに話をぶち切るのではなくて、表現方法やスピードを変える演出、場面転換が大事だと大学の授業で教わりました。たまたま吉本へ入って誰かが講演を頼まれて「どうやって90分、持たそうか?」と話していたらオール阪神・巨人のオール阪神さんが「いきなり90分しゃべろうと思うから無理なんだ。3分から5分の話を20~30個つくって繋ぐのや」とアドバイスしていたのを聞いていました。今から考えたら吉本で門前小僧をしていたのですね。

 ――最後に今後の展開を教えてください。

初笑い 世界を学ぼう! 世界を笑おう! 大谷由里子×ザ・ニュースペーパー

 大谷 もっと政治や経済に興味を持つ人間をつくりたい。それを外しているから日本がダメになっていると思います。2020年2月11日にイイノホールで「初笑い 世界を学ぼう! 世界を笑おう! 大谷由里子×ザ・ニュースペーパー」を開催します。ザ・ニュースペーパーは絶対にブレイクします。建国記念日にこだわっています。オリンピックイヤーだし、2021年以降の政治・経済を考えていこうと思います。  日本は電話からISDN(サービス総合デジタル網)、LAN(企業内統合通信網)でした。世界は一気にスマフォです。エネルギーも日本は義理やなんやでコストやリスクが大きい原発を切れませんが、世界は一足飛びに太陽光発電です。日本の優れた技術力はそのまま伸ばしながら、世界に学び、若い人に夢を与える国にしていきたいと思っています。
【初笑い】世界を学ぼう! 世界を笑おう! 「大谷由里子」 × 「ザ・ニュースペーパー」  詳しくはこちら

プロフィール

大谷由里子(おおたにゆりこ)さん

大谷由里子さん

1963年2月21日、奈良県生まれ。ノートルダム女子大学卒業後に吉本興業に入社、横山やすしのマネージャーとなる。宮川大助・花子や若井小づえ・みどりを売り出し、伝説のマネージャーと言われる。88年に結婚のため退職。90年にフリーのプロデューサーとして活動を再開。98年に吉本興業とジョイントで「よしもとリーダーズカレッジ」を立ち上げる。2003年に有限会社志縁塾を設立、人材教育を中心に会社・学校などに対し営業を始める。2016年、法政大学大学院政策創造研究科修了。特に講演活動などに力を入れ「全国講師オーディション」は今年第10回を数える。大阪府立大学大学院非常勤講師等現任。著書に『最新版 はじめて講師を頼まれたら読む本』(KADOKAWA)等がある。

『最新版 はじめて講師を頼まれたら読む本』(KADOKAWA)

はじめて講師を頼まれたら読む本(KADOKAWA)

鄙のまれびと ウィークリー紙「大谷由里子」さん PDF版をみる

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