他の人と同様、死ぬのは怖いが 登りたい気持ちが勝っている

  1. 鄙のまれびとQ&A
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 映画「モンブランへの挽歌」を観て山に憧れた山野井泰史氏は、ヨーロッパアルプス、パタゴニア、ヒマラヤとフィールドを広げ、平成14年(2002年)秋にヒマラヤのギャチュン・カン北壁を酸素ボンベなしで登頂に成功するなどして「世界最強のクライマー」と呼ばれた。沢木耕太郎著『凍』に詳しい。帰路で雪崩に遭い両手右足の指10本切り落とす代償を払ったが、今も「年齢や体力に打ち克ち限界まで挑戦したい」と不屈の闘志をみなぎらせる。

■ゲスト 
 クライマー 山野井泰史 氏

■インタビュアー 
 旅するライター 山ノ堀正道

アルバイトをしながら
道具を揃え岩場を登る

 ――山野井さんは90年代から2000年代初頭にかけて「世界最強のクライマー」と呼ばれました。まず山野井さんがアルパイン・クライミング(山岳地域における岩壁登攀)に傾倒していったきっかけからお話しください。

 山野井 今思い返すと、何もないところを登る動作も好きですが、いつも何となく大きい山や岩場を目指したい、登りたいという気持ちは子供の頃からありました。何かにへばりつくことは持って生まれた天性だと思います。

 ――クライミングは叔父さんから勧められたのですか?

クライミング練習場

 山野井 元々は小学生の時、フランスを舞台にした映画「モンブランへの挽歌」を観て、これだ、やりたいのはと思いました。同時に登山家、クライマーになるというのではなく、単純に登りたいと。そのときは富士山や北岳(南アルプス北部、標高3,193メートル)といった具体的な山の名称は浮かんでいませんでした。自分で試行錯誤しながらへばりついているときに山歩きが好きな叔父が名山に連れて行ってくれるようになりました。その叔父は小田急沿線に住んでいたので丹沢の沢を歩いたりが多かったです。

 ――その頃は千葉市に住んでいたのですね。

 山野井 そうです。小遣いが少なかったので交通費の捻出が大変でした。だから中高生の時は新聞配達などずっとアルバイトをしながら道具を揃えていきました。いまだに一つひとつ登った山や景色を鮮明に覚えています。北岳の雨の中でおにぎりを食べたとか。ただ岩場でも山でも一歩一歩登っているときの興奮は昔からそんなにしませんでした。本を読んだりボーッとしていても落ち着かない。一歩一歩上がっていると、ここが居場所だな、平地よりも楽だなといった感じです。心肺筋を使って呼吸を荒くしたり、腕に乳酸を溜めたから気持ちいいというのではなくて。

 ――中学生時代に周りはスポーツや音楽に夢中になる人が多かったでは?

山野井家

 山野井 山の雑誌を見たりして自分が危険な行為をしているという認識はありました。多分、他の子供よりも中学生の時から死を身近に捉えていたかもしれません。友人も普通にいて一緒に出かけたかもしれませんが、みんなが楽しいと思っていることがあまり楽しくなかったですね。友達と話していても山のことしか考えていなかったと思います。最近、実家に戻って同級生にばったり会って、「当時は少し変わっていた」と言われました。僕は運動能力がそんなに高くなかったと思います。高山に対する適応能力や遺伝的なこともあるでしょうが、24時間脳みその半分以上、登山、山登りが面白いと考えていたので世界的にいい線いったのではないかと思います。

インターネットに頼りすぎると
動物としての能力が落ちていく

 ――高校卒業後はアメリカのヨセミテなどでフリークライミングに没頭されました。ヨセミテとはどんなところですか?

 山野井 世界中のロッククライマーの憧れの場所です。国立公園で巨大な壁に囲まれている大渓谷です。クライミングだけが好きといった人達が集まる場所です。みんな自国で一所懸命アルバイトをしてやってきて何か月か過ごす。ヒッピーとどこが違うのか、社会と適応できないけどクライミングが好きな人達がわんさか集まっていました。その後、プロのクライマーとして生きている人もいます。

 ――その中で頭角を現していくのですね。

 山野井 外国人と比べたらわかりませんが、日本人の中では難しい岩を目指し達成できた方です。ハーフドーム北西壁ワンデイクライムやエル・キャピタン・ラーキング・フィア単独第3登などの記録も残しました。それよりもアウトローで仕事のことなんか全く考えていないで生きている感じが楽しかったです。毎日の夕飯で「ここへ登った、明日はここ」みたいな話題で、人の変な噂をすることもなくて純粋にそこへいて楽しいという人達が周りに多数いました。

 ――フィッツ・ロイ遠征の際、スポンサーを確保できなくて以降、それを積極的に求めることをされませんでした。スポンサーに合わせるクライミングを目指さなかったのは?

 山野井 最初、ヨーロッパの時はお金を使わなかったです。カナダのバフィン島の岸壁を登るときも自分のお金で何とかなりました。次に南米のパタゴニアへ行こうと思ったとき当時の飛行機代は今よりも高額だった記憶があります。アルバイトをしてもお金が足りなくて『週刊朝日』編集部へ行ったら「雑誌に載せることはできても、お金は出せない」と言われました。

 ――スポンサーの意向に沿って登ろうとは思わなかったのですか?

 山野井 当時は日給1万円ぐらいのアルバイトもあってすぐにお金が貯まりました。月1、2万円のアパートで暮らして、食費も月2万円ぐらいだったと思います。スポンサー探し活動がすごくつらかったので、友人に頭を下げる方が楽だと思いました。当時からスポンサーのバッジを付けて相乗効果で有名になるという関係が面白いと考えていた人もいたでしょうが、僕にはそれは必要なかったですね。

 ――ご両親は登山に理解してくれましたか?

 山野井 1回も反対しませんでした。1回滑落したときに父親から「気をつけろ」と言われた程度です。母親も心配しながら「好きなことをやりなさい」と応援してくれました。

 ――山野井さんが単独ソロ、無酸素にこだわるのはなぜですか?

山野井夫妻

 山野井 山へ入ったら会話したくない。会話すると現実の社会に引き戻されるような感じで嫌ですね。登山のパートナーとも、できたら会話しないで登りたい。うちの奥さんと登って楽なのは「そろそろ行くか?」「そろそろ寝るか?」ぐらいで、一日のうちに一言か二言でいいからです。例えば老人でも健康なら酸素ボンベやロープを使えばエベレストだって容易に登れます。そういうのを僕は好まないという話です。

 ――山を登る際、天気予報も調べないのですか?

 山野井 今だったらインターネットで山の情報がいくらでも入るのですが、あれに頼りすぎると動物としての能力がどんどん落ちていきます。湿った風が吹いてきているからそろそろ雲が発生するとかは天気図を見てもわからないです。雪崩についても雑誌や本、インターネット上にいくらでも出てきますが、それよりも雪を踏んで音と感触を自分で確かめたい。

 ――五感をフルに活用するわけですね。

 山野井 その方が面白いし、安全ということがわかります。ただ雪山などは頻繁に登っていないと鈍りますね。

 ――奥さんが手足の指を失われてお見舞いに行ったのがきっかけになるわけですね。

 山野井 その前の夏にブロードピークという山へ一緒に登って、秋に彼女はマカルーという山で凍傷になって僕が見舞いに行きました。その頃に、今度は僕が富士山の強力の仕事で滑落して骨折し、彼女が先に退院して僕を見舞ってくれました。

 ――新居をここ奥多摩にされた理由は?

奥多摩湖

 山野井 土地勘としてはありました。鳩ノ巣渓谷、氷川屏風岩の岩場です。トレランという言葉がなかった時代から走って、いい場所だなと思いました。それとここは静かな環境ですね。平成4年(1992年)から住んで間もなく30年になります。

吹雪で悪天候のなか
ギュチェン・カン登頂

 ――平成14年(2002年)にギャチェン・カン登攀を成功されました。北東壁を断念しての北壁挑戦だったのですね。

 山野井 スロベニアのクライマーからいろんな資料や写真を見せてもらって、北東壁は厳しいと思い断念しました。その頃、うちの奥さんも頂に立てていないので登らせて上げたいという気持ちもあって二人で登ることにしました。

 ――奥様は高山病を煩ったとか?

 山野井 昔から妻は高度順化が遅く、ギャチェン・カンでも7,700メートルまで行ってあと200~300メートルの地点で断念しました。

 ――ギャチェン・カンで頂上に立った瞬間、何が見えましたか?

 山野井 ほぼ吹雪で悪天候なのに一瞬、青空が見えたりしたのを覚えています。そのとき出発したベースキャンプが眼下にかすかに見えて、帰るのが容易ではないなと思いました。ベースキャンプで待っていたネパール人のコックさんは山頂に立っている僕を見たと言っていました。

 ――奥さんがカメラを持っていた?

 山野井 そうですね。7,500メートルのテントから出発してずっと僕が先行して、どんどん離れて。急なところを登り出したときには距離にして100メートルぐらい離れていました。妻が「断念する」と言ったとき、そこの100メートルを降りてカメラを受け取るのは体力的に無理でした。だから山頂の写真はありません。

 ――スロベニアのパーティーが8人で登ったことはあっても単独登頂は初ですね?

 山野井 単独とは言わないです。7,500メートルまで一緒に行っているわけですから。僕の中で単独というのは最初から一人で行って一人で帰って来ることです。

 ――下山も大変だったのでは?

 山野井 そうですね。雪崩を何度も受け、僕は凍傷で両手右足の指10本を失い、ヨレヨレでした。さらに酸素や栄養不足で神経をやられ、脱水にもなりました。肉体はどんどんダメになっているけど精神的にはずーっと同じ状態でした。別に冷静にならなきゃとかパニックになってはいけないというのはなかったです。

 ――不思議ですね。登る前には極度の緊張をされるのに、登り始めたら冷静なのが。

 山野井 登り始めたら冷静で楽です。ある程度のアクシデントや悪天候で能力が落ちるのは事前に創造しているのでしょう。それまでにものすごい数の登山をしていますから。

  ――山に登るための戦略や戦術は不可欠ですね?

 山野井 戦術も他の人よりもパッと浮かぶというか、写真を1枚見れば戦術が何となくわかる方です。それがなかなか事故死がない理由の一つかもしれません。ベースキャンプに降りた時は手が真っ黒になっていたので、これは切るなと思いました。死ぬとは一度も思いませんでした。僕が山の中で死ぬとしたら突然心臓がパタッと止まる時かもしれません。下山の時、肉体がかなり弱って心臓が止まりかけて、奥さんに「ちょっと心臓を叩いてくれ」と言いました。

 ――そこまでしてまた登るのですか? ジョージ・ハーバード・リー・マロリーの「そこに山(エベレスト)があるから」という名言もありますが。

 山野井 死ぬのは普通の人と同じように怖いですが、それよりも登りたいという気持ちの方が勝っている。

 ――登頂が成功して朝日スポーツ賞や植村直己冒険賞を受賞されましたが。

 山野井 それは私も妻もあまり関心がありませんが、両親は喜んでくれたので親孝行になりました。

やりたいという気持ちは
落ちながらでも一生続く

 ――沢木耕太郎さんが最初に取材に見えたのはいつですか?

 山野井 ギャチュン・カンの凍傷で僕が4か月ぐらい入院しているとき、『山と渓谷』の編集者が病院に連れてきました。僕に本を書かせてその帯や解説に沢木さんの名前を入クシングの本を何冊か読んでいたのも知っていたのです。それでも沢木さんは書く予定はなかったと思います。半年ぐらいインタビューなしでお付き合いしました。

 ――そのうち心が動かされたのですかね?

 山野井 「ギャチュン・カンに残したピッケルやアイゼンなどのゴミ拾いに妻と二人で行く」と話したら「それ面白いですね」となって一緒に行った後に書いてみたいとなったのだと思います。最初に会って1年後ぐらいです。

 ――沢木さんからは相当な取材があったのではないですか? 『凍』は克明な描写です。

山野井氏登山

 山野井 沢木さんはここにもよく足を運びました。「登山のことが全くわからない」と言われたので、口で説明したり絵を描いたりしました。読んで難しい言葉も出てきますが、登山家からすると違和感が一つもありませんでした。

 ――平成17年(2005年)に『凍』が出版され反響はどうでしたか?

 山野井 登山に無関心だった人も興味を持ったようです。映画化の話もあって脚本やキャストも決まっていましたが、会話が多く実際と違うので断りました。名前が売れたら懸垂が今よりも10倍できるとかであればやりますよ(笑い)。自分に時間がないと思うから他のことに気を散らすのが勿体ないという思いです。僕なんか年齢的に下降線をたどっているけど登りたい山があいかわらずある。この前、イタリアの山へ登れなかったので9月にまた行くつもりです。

 ――今後の生き方は?

 山野井 山の有名無名も標高も関係ないです。例えば僕が今登りたいのはイタリアの岩場です。それを登ったところで登攀史に輝くものでもないし、友人の数人が「さすがだね」と言う程度です。これから肉体がどんどん衰えていくので、皆さんがあっと驚くようなこともできなくなります。すると僕も妻も忘れられていくけど、それはそれで構いません。しかしやりたいという気持ちは落ちながらでも一生続く。いつか2メートルの山も登れなくなるぐらいおじいさんになるかもしれません。それでも年齢や体力に打ち克ち限界まで挑戦できればいいと思っています。

プロフィール

山野井泰史(やまのい・やすし)氏

1965年生まれ。中学3年時に日本登攀クラブへ入会。84~87年にかけてヨセミテに通い、ハーフドーム北西壁ワンデイクライムやエル・キャピタン・ラーキング・フィア単独第3登などの記録を残す。その後はヨーロッパアルプス、パタゴニア、ヒマラヤとフィールドを広げる。2002年秋、ヒマラヤのギュチャン・カン北壁の登頂に成功するが、帰路に雪崩に遭い両手右足の指10本切り落とす代償を払う。2002年度の朝日スポーツ大賞、2003年の植村直巳冒険大賞を受賞。2005年、2年がかりのポタラ北壁を7日間かけて完登。2004年、初めての著書『垂直の記憶』(山と渓谷社)を発刊。2005年にギャチュン・カンからの生還は沢木耕太郎著『凍』(新潮社)としてドキュメンタリー本が出ている。

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