公立中で不登校ゼロ
人助けは商売の延長

  1. 鄙のまれびとQ&A

 東京・北区立飛鳥中学校には不登校や保健室待機の生徒のため独自に「ひまわり教室」がある。運営するのは北区教育委員会スーパーバイザーの原和夫氏をヘッドに、養護教諭やスクールカウンセラー、学生ボランティア達だ。不登校の生徒の家庭を1軒1軒訪問し、要望を聴き応えた上で受け入れた。十数名いた不登校の生徒も全員、ひまわり教室へ経て普通学級へ戻るという快挙を生んだ。やんちゃからも元不登校生からも絶大な人気の原氏に子供達との向き合い方の極意等を聞いた。

■ゲスト 
 殿上湯第4代店主・保護司・北区教育委員会スーパーバイザー 原和夫氏

■インタビュアー 
 旅するライター 山ノ堀正道

人助けは
商売の延長

 ――私は10年前に妻が癌で亡くなり、当時中学1年生の息子を育てるために千葉から東京北区へ転居してきました。

 原 よく存じ上げています。大変でしたね。息子さんは野球をしていたようですが、お父さんと顔がよく似ている。

 ――息子が中学3年のときPTA広報委員長を引き受けて、ひまわり教室の原和夫さん、鈴木明雄校長、PTAの田邊真左彦会長、おやじの会の相川智成会長の座談会を実施させていただきました。そのとき原さんは凄い方だなと思いました。数年前に息子が「原さんがNHKテレビ『首都圏スペシャル』に出るよ」と教えてくれ、「逆境を生き抜け~急増“チャイルド・プア”闘う現場~」を拝見しました。「6人に1人と急増する子どもの貧困を救おうとする原さんとその現状」が特集されていて感銘を覚えました。まずは原さんが銭湯経営と共にどうして人助けの活動をされるようになったかについて伺いたいと思います。

 正直言って恥ずかしくて穴があったら入りたいぐらいです。たまたま人と接する商売で、地域のいろんなお客さんと関わる中で、例えば川で溺れている子供がいたら手を差し伸べて引っ張り上げて「次は気をつけなよ」と言ってタオルの1本も貸してやる。それだけですよ。ただ溺れそうな子供と出会う機会が多かったということです。僕自身も多くの方に助けてもらった経験がたくさんあります。

 ――乳児の時にもらい乳をされたり、3歳の時に火事で知らない人が連れ出してくれたという話は伺っております。

 原 そういうようにお互い様という経験をしていると、結果として助けたかもしれないけど助けようと思って助けたことは一度もありません。偶然、その場に居合わせたという程度です。

 ――PTA会長を経験されたとか?

 原 たまたま誰も手を挙げる人がいない小学校や中学校のPTAを担当させていただいて顔を覚えられますね。「学校へ行きたいけど行けない」とか地域でいろいろな問題があって相談に来られたりするわけです。テレビや新聞で報道されていることが日本中で起こっています。僕は例外なんてないと思います。そういうときに関係ないやで切り捨てられればいいけど、そうはいかない。個人的な考えですが、子供達は「国の宝」だと思っています。親だけで育てるものではなくて、その土地の代々受け継がれたノウハウで気がついた人から子供と関わって声を掛けていく。「おはよう」「行ってらっしゃい」「お帰り」というように何気ないことです。その積み重ねがなければ子供は育ちません。親だけが全部背負うなんてことはおよそ有史以来、我が国にはなかったわけです。必ず地域の大人が関わってきました。親だけで育てるから切ない事件が次から次に起きてくる気がします。自分の子だろうが人の子だろうが僕にはあまり関係ありません。もちろん我が子に対しては特別な感情を抱きますよ。だけどよそ様の子供がいて自分の子がいるのであって、遊び相手がいなければ子供も成長しません。それもあってよそ様の子供も大切にしたい、それだけです。

 ――PTA会長は何番目のお子さんの時にされましたか?

 原 一番下です。もう子育てが終わったと思ったら授かり、その時には年寄りが体が不自由になって、家内から「私が家のことをするから学校のことは全部やってください」と言われ、僕はPTAのことがどんなものか知らない中で引き受けることになりました。

 ――ご近所から学区にエリアが広くなったのですね。

 原 僕が最初に中学校のPTA会長を務めた時、生徒のあるおばあちゃんから深刻な相談ごとを持ちかけられました。おばあちゃんが体が動かないから、保健所、生活保護の担当者、警察署、児童相談所等の行政機関へ足を運んで掛け合ったりしていると否応なしにノウハウを覚えました。ありとあらゆるいろいろな行政機関に行かないと解決しない難しい案件でした。その時、具体的にセーフティーネットに繋げるという知識を持たないと人を救えないということを嫌というほど学びました。それをきっかけに何百人という人達と関わっていきました。メディアは「みんな仲良く」とか「地域の協力や連携が大事」と綺麗ごとばかり言います。言葉だけでは実際に動かないということを、具体的に関わって初めて知りました。自分で動いていくうちに習得していく。税金の使い途ひとつにしてもなんでこうしているのか、実際自分が動いてみておかしい、えっ嘘だろうということがいくらでもありました。お任せや文句ばかりではダメだと僕は思います。

 ――PTAと共に目の前の課題をこなしていかれたのですね。

 原 PTAの活動は一環です。日本は肩書き社会なので利用できるものは利用させてもらう。肩書きがあれば会ってくれない人も会ってくれたりします。そうしないと目の前の子供を救えません。のんきに構えていたら手遅れになる場合があります。最近よく児童相談所がメディアに叩かれますが、その一時保護所が子供達が安心して入れるような場所でないというのは、予算の裏付けがないし経験のある職員が少ないからです。児童相談所をバッシングする前にきちんと調べろよという話です。僕達もなんでも人のせいにしたり、役所に依存しようとするのをどこかで脱却しないといけない。自分達にできることは自らやる。そうでないと文句も言えません。一人の子供を助けられる場合もあるし助けられないこともある。でも指をくわえて待っているわけにはいかないのです。

課題を聴いて
居場所をつくる

 ――飛鳥中学校で「ひまわり教室」を立ち上げたきっかけをお願いします。

 原 前述の鈴木校長が赴任する前年に養護教諭の川名理香先生から「教室に戻れない生徒が多すぎて保健室のキャパを超えています。原さんに言うのはお門違いですが、一緒に考えたり行動してくれる人がいないとパンクしますから」と相談されました。当時の担任は当事者意識が低くて生徒を保健室へ丸投げしていたのです。その年の前年ぐらいから非行傾向の連中が跳んだりはねたりしっちゃかめっちゃかだったので、「やんちゃな生徒の面倒は見るけど、不登校の生徒は無理だよ」と言ったのを覚えています。だけどとても尊敬する養護の先生でしたから「では不登校の生徒も面倒見ましょう」と言って専門書を読んで勉強しながら試行錯誤を繰り返していたら川名先生が他校へ異動されました。

 ――三男も中学時代に「川名先生は教師側でなく生徒側に立って、僕達の気持ちを理解してくれる」と言い慕っていました。川名先生が転出されてからは?

 原 鈴木校長が着任して「とにかく協力します。どんな方法でもいいですから、後任の養護の先生と一緒に不登校の生徒の受け皿を準備してください。私達は言われる通りにバックアップします。もし他からクレームが付いたら私が全部責任を負いますから」と言われて始めました。同時に教育委員会からスーパーバイザーに委嘱されました。その年、ひまわり教室に十数人が入れ替わり立ち替わり来て、大半を普通の学級へ戻しました。次の年にはほぼゼロでした。

 ――小学校でいじめを受けて自宅で引きこもっていた生徒を中学校へ登校させるのは並大抵のことではないと思います。各家庭を訪問し、ひまわり教室へ誘ったトークは?

 原 私だけでなく養護の先生、スクールカウンセラー、学生ボランティアのお姉さん達が毎日のように家庭を訪問して一人ひとりに「どういう状況なら中学校へ来られるの?」と具体的に尋ねて要望を出させました。

 ――生徒達からはどんな話がありましたか?

 原 「登校時間を遅くして欲しい」「給食を全部食べられないので少なくして欲しい」「勉強についていかれないので追いつきたい」というような要望を一つひとつ聴いて、もちろん私の独断で決めるのではなくて「これは実現可能かどうか?」とみんなと一緒に決めていきました。例えば睡眠が不安定な生徒に朝8時10分に登校しろというのは無理な話です。鈴木校長からも「登校時間にこだわらなくて構いません。顔を見せるだけで大丈夫です。できるだけハードルを下げてください」という心強いご意見をいただきました。僕も同感だったし、不登校の生徒達の我が儘ではなくて切実な想いや願いを集約して学校側に提案したら鈴木校長も現場の教師の多くが生徒達の要望にすべて応えようとした。親御さんは家に閉じこもっていることが不安で1日1時間でも学校へ行って同世代と会って欲しいと思っていたわけです。中には小学生の時にいじめられて外に出ることが凄く臆病になっている生徒もいました。やんちゃの生徒に僕は結構強かったから「お前ら絶対に威圧するなよ。わかっているだろうな」と言ったら協力してくれました。

 ――「声掛けしてくれ」とは言われなかった?

 原 声を掛けたら逆におびえます。そのうち親しくなって交流が生まれましたが、段階があります。不登校だった生徒は言葉でコミュニケーションをとるのが苦手だから突然教室へ来なくなったりします。それを丁寧に丁寧に現場で相談し合ったり再度訪問したり試行錯誤の連続でした。これが良かったと思った瞬間、次に落とし穴が待っていたりします。不登校関連の書籍も読み漁りましたが、実践の現場はこんなものじゃないと思うことが多々ありました。大学の先生の理論通りにはなかなかいかない。
 勉強がわからなくなっているのがとても大きな要因で学校へ行くのがつらいとかが一番多かった。親に対しても複雑な思いを抱いている生徒が多く普通の教室へなかなか入っていけませんでした。それを無理やりこじ開けようとするとかさぶたを剥がすような作業になるので本人が話すまでは基本黙っています。それから医学の世界でも何万人に人の病気を抱えている生徒もいます。ある女の子は小学生の時から「体がだるい」と訴えていて、教員も親もみんな怠け病だと思っていました。親御さんに「一度、大学病院にでも連れて行って検査してもらったらどうですか?」と言って連れて行ったら「インスリン分泌異常」と言われたそうです。血液中のブドウ糖の値が異常に低くなり元気ややる気が出てこないのだそうです。だから先入観なく子供を見てやるべきだと思いました。いじめの問題も一刀両断で解決するような報道がされるけど、加害者と言われる子供も心に深い傷を負っていたりするので、事はそう単純ではないです。被害者と言われる者の中にも人間的に嫌なやつもいます。だから地域の子供達を見ていて難しいものだなと思いました。
 親は自分の子しか見ていないでしょ。でも絶対に忘れて欲しくないのは、僕は自分に何度も言い聞かせるのだけど、自分の子だけでなくいろんな子がいて自分の子もいるんだという位置づけにしておかないと周りが見えなくなってしまいます。友達のことを大切にするとか自分以外の存在がなかったら自らのこともわかりません。そんなことをきちっと言う大人がいなくなったというのにはビックリしました。

 ――ひまわり教室のボランティアスタッフとして東大や立教、東洋大の非常に優秀な学生や院生を招聘されたと聞いていますが、どのようなルートで引っ張ってくるのですか?

 原 商売をしているといろんなお客さんが来ます。ここは東大も近いし世間話をしていると「子供に関心がある学生がいるよ」と言われたり、うちに下宿している学生から「子供の教育に興味がある学生を紹介しましょうか?」と打診されたりして会います。会うとスクールカウンセラーの一番先端の勉強をしている人だったりして僕自身も勉強しないと追いつかないわけです。自分の目で確かめて僕自身が勉強になるような人を探しました。

 ――原さんやボランティアスタッフは適用障害の生徒達にどう向き合っていますか?

 原 素直に「来たぞー!」「よかったなー!」と言って迎えてやります。「お前さんはこの学校のチームの一員なんだよ。でも今は普通の教室へ入れないだろうからいていい場所、安全な場所をつくってやるからな」と言うだけですよ。それにふさわしい準備をしてメンツも揃えてやる。現にボランティアスタッフは素晴らしい教え方をするお姉さんやお兄さんばかりです。そうするとわからなかった勉強がわかるようになって「数学がこんなに楽しかったとは?」「勉強が面白い」となって普通クラスへ戻るわけです。

 ――鈴木校長の時代に不登校ゼロで全員が普通学級へ戻ったとか?

 原 戻った時もあります。クラスへ戻すことが最終目的ではありません。その子が元気になって少しでも社会性が身につけばいいのです。

 ――新しいタイプの引きこもりも様々では?

 原 いろんなケースが次から次へと出てきます。女の子はリストカットや睡眠薬、摂食障害とかあってこじれた場合が大変ですね。そういう子供の居場所がありませんでした。登校できない適用障害の生徒を受け入れるという案内も聞きますが、ピタッと100%上手くやっているところを知りません。ひまわり教室も運営していて自信満々なんてあり得ないですよ。

 ――不登校だった生徒とやんちゃな生徒の対応で「ここが違う」というのはありますか?

 原 根っこのところは同じだと思います。寂しさであったり、生きづらさ、居場所がないだとかですね。ただ、不登校の方が繊細というか、ちょっと強く言うと壊れてしまうような感じがします。もちろんやんちゃな生徒も繊細なところがないとは言えませんが、生きる逞しさがあるように感じます。

密度の濃い
修学旅行

 ――先日、このインタビューの絡みでAくんが店長を務めているお店に行ってきました。「原さんにお世話になったのでは?」と尋ねたら「僕もそうですが、母親が随分お世話になりました」と言っていました。彼のお母さんとはPTAの広報委員会で一緒でした。

 原 優しいいいお母さんで、たまにお父さんとも会いました。保護者の話し相手になっていたということがあります。それは学校の先生とは違った役割です。Aのお母さんは本当に苦労しました。あの当時、お母さんは人生のどん底を味わったのではないですか? いつも悔し涙を目にいっぱい溜めていました。あのお母さんにほだされてこっちも動いていたというのがあります。母親の苦労っていつの時代も大変だと思います。

 ――それが見違えるほどいい男になっていてお母さんも胸をなで降ろしたでしょう?

 原 そうでしょう。Aは本当に成長した。そうなる前にお母さんをひとりぼっちにさせてはいけないという気持ちがあって、時間の許す限り話を聴いてあげた。正解を言うのでなく聴いてあげて動いてあげる中でヒントがあるかもしれない。自分でも不思議なくらいに辛抱強かった。たぶんAを思い通りにさせようという気持ちがなかったからでしょう。思い通りでなくていい、命さえあればいいというぐらいの気持ちで向き合いました。Aだけでなくどの親御さんも胸に詰まるような感じでした。人を助けているという感じはなかったですね。この世知辛い世の中を一緒に駆け抜けていく仲間というか同志でした。むしろそういう意味で言えばやんちゃの生徒の親は警察が来たり世の中にバレバレとなったり、教師から何度も嫌なことを言われて本当に悔しかったりつらかったと思います。

 ――私も子供が4人いまして、3番目がやんちゃで親として相当手を焼きました。その頃はまだアドラー心理学の「課題の分離」を知らなかったので子供の悪事を我がこととして捉えてしまい、我が子との溝が深まり苦悩の日々でした。

 原 一人いるだけでも大変ですね。

 ――我が家はバブル崩壊直前に、東京の会社から通勤が2時間かかる千葉へ越しました。この地には私と同様に十数年後であれば地価が下落してもっと都心に近いところへ住めたけどローンがあるから致し方ないという後悔の念を抱く親達が多く、その気持ちを受け継いだ子供達が荒れて荒れて。中学校は子供達が入学する数年前に窓ガラスが全部割れて補修が追いつかないで一冬を越した年もあったという話です。ですから飛鳥中でPTAの学年集会があって「この学年にとんでもないワルがいる。そういう親に限ってこういう場に出て来ないから生徒が良くならない」という話がありました。その時私は「素晴らしい中学校へ息子を転校させることができて凄く喜んでいます。うちは子供が4人にて長女は良い子で学校の担任や学年主任から褒められるので何回でも行こうと思いましたが、次男は不良のレッテルを貼られていたので足が向きませんでした。親がこういう場に参加できないつらい気持ちも、どうか斟酌していただきたいです」と申し上げたことがあります。

 原 それはよくわかります。正義感面をして、つらい思いをして弱っている親をバッシングするのは良くない。学校の教員にも生徒や親の悪口を平気で言う人もいるから「ふざけんな。これ以上、生徒達や親の悪口を言ったら許さないぞ。この学校は生徒達のものであって、あなたのものではないんだぞ」というメッセージを送り続けたので、僕に対してはビビっていました。「原さん爆発しないでね。爆発したらこのひまわり教室は終わりだから。頼むから我慢してね」と川名先生によく言われました。それが鈴木校長になって課題のある教師も次々と異動時期になりました。一時下がった評判を上げるのは並大抵ではないですが、鈴木校長から「力を貸してください」と言われたので「なんでもやります」と応じました。
 鈴木校長がお見えになった年に東日本大震災があって、これから不登校の子も何とか学校へ繋ぎ止めて、ふてくされて希望を失いつつあるAの学年をなんとか盛り返してやろうと思いました。そのとき鈴木校長が「ひまわり教室で修学旅行へ行きたい生徒はいますか?」と聞いてきました。本人達に尋ねたら半数以上が「行きたい」と言いました。修学旅行へ行かせてやりたいと思うけど、現場の先生はAを始めやんちゃな連中のことで頭がいっぱいです。不登校の子供達はわりとおとなしいので普通に対応していれば大丈夫です。鈴木校長は「原さん、一緒に京都・奈良へ行ってくれますか? やんちゃな連中の面倒を見てください」と言うわけです。そう来るかと思ったけど、「なんでもやります」と言った手前、行きました。東京二十三区内の中学校の修学旅行に地域の人間が付いていくのなんて初めてでしょう。あの時、いろいろ事件が起きました。あれほどの密度の濃い2泊3日はなかったです。

 ――それは息子から全然聞いていません。初耳です。

 原 言わないでしょ。やんちゃ坊主たちが初日からテンパっちゃって。O先生とAが取っ組み合いの喧嘩をするわ、タバコを吸うわ、おいあと2日ももつのかという感じでした。そういうのは当事者の親だけには連絡しました。Aの親も大変ですよ。送り出したと思ったら途中で迎えに行く羽目になって。

 ――Aくんは「原さんに連れて帰ってもらった」と言っていました。

 原 奈良で警察官に補導されたので「今夜は僕が一緒に寝ますから」と言って引き取りました。寝て起きたら学年一の暴れ者とひまわり教室の生徒が一緒に寝ているのを見てなかなか珍しい光景でした。

  ――ひまわり教室の生徒は目が覚めたらビックリしたでしょう?

 原 大丈夫です。Aはその点、男気のあるやつですから同級生には迷惑を掛けない。その日の朝、Aと近鉄奈良駅から5時台の始発電車に乗って京都駅まで連行したようなものです。だって、彼と一緒に行ける先生なんて当時いませんでしたから。JR京都駅に着いた時にお母さんは顔が引きつっていました。可哀想で、可哀想で。でも、仕方がないのです。「騒ぎを起こしたら東京へ帰す」という約束でしたから。鈴木校長は結構人情家ですが他の教員が納得しないので、僕がクビ切り役でした。学年主任の先生なんか可哀想でしたよ。よくやっているのに子供達が付いて来なくて疲れ切っていました。子供達も1年前までの教員の対応が悪すぎて信頼を置けなかったというのが最大の理由です。
 僕も殆ど寝ていなくて気が短い方だから生徒達に「お前らいい加減にしろよ」と言って、頭を2、3発張り倒してやろうかと思いましたが、そんなことをしたら鈴木校長に迷惑を掛けるのでやめました。JR京都駅のサウナで仮眠をとろうと思ったら「原さんどこにいますか? 帰って来てください」と電話があったので引き返しました。今度はBが「Aが帰ったから俺も帰る」と言い出したので「途中で帰ったら電車賃がパーになるぞ」と言ってやりました。Cは宿でふざけていて足の指を骨折です。生徒達は大人を信頼したいし大人に認めてもらいたいのに上手くいかなかった。鈴木校長は着任したばかりでしたが、これは深いところまでまずくなっているというのを気付いていたと思います。それで僕は不登校の方へシフト替えしているのにまた元の世界へ呼び戻されたようなものです。あの1年は疲れたけど本当に勉強になりました。東京に戻る新幹線に乗ったのが午後2時頃でした。扉が閉まりました。座席を眺めたら学年主任はぐったりでした。油断も隙もない連中を前にそれぐらい疲れていました。その中で救いは女の子達です。みんなどこへ出しても恥ずかしくない。ひまわり教室の男子1名は僕と一緒、女子2名は養護の先生が面倒を見て、他の女子生徒も気を遣ってくれました。不登校の生徒は元は家の中に閉じこもっていてとても修学旅行へ行けるような状態ではなかったのによく頑張ったと思います。

 ――お疲れさまでした。

 原 僕が修学旅行へいるのを教育現場を知っている人からするとあり得ない話です。それぐらいの鈴木校長の肚(はら)の括り方でした。現場でも「教員でない人間がなんで修学旅行へ付いていくんだ」という意見があったのに対して鈴木校長が「原さん以上に誰が生徒に言うことを聞かせられるのですか? 付いて来てもらうしかないでしょう」と言ったそうです。後日談ですが、「数名の生徒を修学旅行へ連れて行くのは無理」という現場の判断を、鈴木校長が「私が責任を持つから全員連れて行く」と決断した結果で、「いろいろ問題が起こるのは覚悟はしていた」とのことでした。

 ――それにしても中学校の先生は大変ですね。

 原 第二次反抗期のただ中ですから。それでも今、飛鳥中は凄く落ち着いたいい学校になりましたよ。

親と子供を
引き離す場合も

 ――原さんは生徒達一人ひとりに合った指導方法で対しておられるのですね。

 原 教員にも生徒達の実態を知らなさすぎる人がいます。一人ひとりのパーソナリティーを把握しないで一律に指導しているから上手くいかないのです。その生徒のパーソナリティーに合った指導の仕方とかあるはずです。根っこは悪くなくてそれぞれいいものを持っているのに「帰れ」「帰れ」「お前ら邪魔だ」という姿勢を出すからふて腐れますよ。

 ――ひとりの人間がよそ道にそれないためには周りに見守ったり理解してくれる人間がひとりいるだけでも随分違うという研究報告があるそうです。Aくんにとって、それが原さんでありお母さんだったのだと思います。

  Aだけでなく生徒達に声を掛け続けてやることですね。説教は要りません。本人も自分が悪いのは重々承知しているわけですから。

 ――その他の北区の小中学校でもトラブル解決等に当たっておられるとか?

  原 声が掛かっていろいろな、特に中学校へ行きました。まず登場人物にひと通り会って過程の背景を理解すると、ここがポイントだとわかって助言して一緒に動いたりします。中には「私が殺すか殺されるか?」といった話をされる親御さんもいます。だったら「親子で離れて生活したらいいのでは?」と言いました。どちらも加害者、被害者にならないためには場を変える。それを実践して親子が落ち着いたというケースがあります。だから何が何でも親子が無理して一緒にいる必要はないのです。

 ――苦痛ですからね。

 原 疲れてしまいます。ある時、「あえてお父さんお母さんが悪役になる覚悟があるなら我が子を警察に連れて行ったらどうですか? このままであればお父さんもお母さんも病気になってしまいます」と言いました。子供にも「本当に嫌だったら家出しな」と言いました。とりあえず離れるしかないでしょう。それからゆっくり考えればいいのです。家出は小学生から高校生まで随分我が家で引き受けました。

 ――テレビでカレーライスを振る舞っておられる様子が放映されました。

 原 お腹が空いていたら一緒に食べます。ちゃんと食べさせてもらっていない子供が意外に多くいます。食べれば人間、気持ちが落ち着くでしょう。空腹だとカリカリするわけです。それからが「何か良い方法ないかね?」と言って一緒に考えてやる。中には「児童相談所よりも施設に入りたい」と言ったり、答えがなければ「AとBどっちにする?」と言って考えさせる。具体的な道筋を提示してやるというのが大切です。「頑張ればいいんだよ」と言ってもどう何を頑張ればいいのかという話です。絶望的にテンパったり落ち込んだりしても碌な知恵が湧かないので場を収めて深呼吸して出直すために一時休戦という具体的な提案をしてやる。そういう時に責めたり説教を垂れるのは僕はしたくない。それは下の下の策です。

 ――保護司としてはどんな活動をしておられるのですか?

 原 その保護司としての足跡は殆ど表に出していません。これは随分ディープな世界です。薬物の依存症の問題とか言えない話が随分あります。

「ONE TEAMの一員」と
子供達に伝える

 ――銭湯の経営と人助けと両方の限界を感じたことはありませんでしたか?

  原 今はほぼ選手交代の時期ですから息子にある程度任せています。仕事も好きだし、人と関わるのも大変だと思ったことはありません。これは自分の役目、役割と思っているだけです。別に深く考えたことはありませんし、お客様あっての商売だし、気持ちがリラックスして来る方に日本人の大好きなお風呂を提供できるというのは幸せなことです。商売はその延長線上みたいなところがあります。それこそ浮世風呂じゃないですか? 浮世のいろんな垢を流すところだから来てくださる方には楽になって帰ってもらう。子供達との付き合いもその延長線上です。飛鳥中学校に入学したのであれば来て良かったと思うように先生だけでなく地域の我々も応援しましょうと。生徒に「お前も大切な一人なんだ」「ONE TEAMの一員だよ」というメッセージが伝わらなかったらダメです。どこの学校でも。

 ――先代や先々代はどんな方だったのですか?

 原 不思議な人でした。困った人がいたら助けたようです。祖父は富山出身で朝起きると見知らぬ人が隣で一緒に朝ご飯を食べているということがよくありました。「あの人誰?」と尋ねると「富山から出てきて財布をすられて困っているから連れてきた」と言うのです。こういう商売ですから困っている人がいれば放っておけないみたいなのがあったのだと思います。大正年間の関東大震災の時は文京区動坂で銭湯をしていて避難民の人達に水を提供したということです。

 ――ここ北区西ヶ原は「地下135メートルから汲み上げる天然水と備長炭のお湯」だとか?

 原 祖父が知らないで掘ったら大当たりしました。ここへ移転してきて60年です。

 ――住み込みメンバーも常時いらっしゃるのですね。

 原 いつも大体2~3名います。無給ですが、部屋と食事を提供しています。みんな真面目で外国人も住んでいます。

 ――息子さんに5代目を譲られたと聞きました。

 原 天皇家とは違いますから譲位したわけではなくて一緒にやっています。本格的に任せたのは5年前からです。

 ――お嫁さんは「殿上湯の嫁」というTwitterを書いているとか?

 原 頭の良さを表に出さない人ですね。淡々とやってくれています。

 ――お二人が入って新風を吹き込んでいる感じですか?

 原 それは確実です。僕なんか商売のアイデアなんて何もないですから。若い息子夫婦の方が意欲があります。季節によってゆず湯やみかん湯、青森ヒバ湯、珈琲牛乳フェスを行なってくれています。毎週金曜日の定休日を利用して米津真浩さんのピアノコンサートや太鼓芸能集団「鼓童」の演奏、銭湯映画館等のイベントと目白押しです。歳末の12月20日には音楽映画「ソウルパワー」を上映する予定です。

 ――ピアノコンサートではあの大きなグランドピアノを銭湯に……。

 原 満員になりました。凄かった。ピアノをどのように銭湯へ置くかも話題になりました。専門家の魔術のような組み立てと分解には驚きました。

 ――現在はJR東日本とのコラボで「銭湯めぐりスタンプラリー」を実施していますね。

 原 おかげさまでカップルとかで他区からも大勢来ていただいています。

 ――今後の夢をお願いします。

 原 夢なんてありませんよ。毎日を必死で生きている感じだから。お金も使いません。それでも好きな本を持って、纏まって旅行したいとも思います。本は歴史からエンタメから心理学まで乱読です。

プロフィール

原和夫(はら・かずお)氏

1946年11月29日、東京都生まれ。サラリーマンを経て、JR駒込駅・上中里駅、東京メトロ南北線西ヶ原駅から各徒歩約8分と交通至便な「殿上湯」の4代目店主として38歳で家業を継ぐ。1男2女の父親。北区立滝野川小学校で2年間、北区立飛鳥中学校で3年間、PTA会長を務める。保護司資格取得。北区教育委員会スーパーバイザーとして飛鳥中学校「ひまわり教室」を運営。「子供達は地域で育てる」が持論で不登校、いじめ、親の貧困など、子供たちの抱える問題の解決に走り回る。時には子供の母親の相談相手にもなる。

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