「悪戦苦闘能力」を身につけよう!
挨拶とコミュニケーションを説く

  1. 鄙のまれびとQ&A

「熊本の宝」と言われる大畑誠也氏は情熱の人だ。47歳で廃校の危機に立つ熊本県立天草東高校の校長に就任すると、「大きな声で挨拶、返事、校歌」「1日1回図書館」「親に感謝し、親を大切にする」「朝飯食うぞキャンペーン」に取り組み3年間で受験生を倍増させた。県立菊池高校では21世紀に求められる「悪戦苦闘能力」(挨拶・体力・感性・集中・思考)の育成を提唱し日本一の学校づくりを進めた。その他の学校でも国公立大現役合格者数の急上昇、資格取得や部活動で顕著な成績を収めた。卒業式後の生徒と親を交えた「最後の授業」は圧巻。高校生に人生で何が必要かをわかりやすく解説し、挨拶とコミュニケーションの大切さを説いてきた。

■ゲスト 
 アンビー合志保育園園長・元九州ルーテル学院大学客員教授・元熊本県立高等学校長 大畑誠也氏

■インタビュアー 
 旅するライター 山ノ堀正道

余震が続いた
熊本地震

 ――司馬遼太郎は「人物は辺境や先端から出る」と述べました。私はローカル紙に「鄙のまれびと」という記事を書いています。できるだけ都から離れたところに人物がいるという設定で人探しをしています。

 大畑 おっしゃる通り。アーノルド・ジョセフ・トインビーというイギリスの歴史学者も「文明は辺境で生まれる。自然的環境や人間的環境からの挑戦に人々の応戦が成功した時に興る」と述べています。ローカル紙もものすごく重要視されています。いろんな全国紙がありますが、熊本では圧倒的に熊日新聞(熊本日日新聞)です。発行部数も30万部超でものすごいですよ。地域の隅々まで取材して、いろんな話題を提供しているので、「これが載っていたね」と言いながらみんな読むのです。

 ――今でこそ福岡が九州の中心になっていますが、昔は熊本でしたね。

 大畑 そうです。明治の高等学校令で九州初、熊本に旧制の第五高等学校が1887年に創立されました。私が出た熊本大学の前身で、今も赤煉瓦の正門があります。夏目漱石やラフカディオ・ハーン(小泉八雲)など錚々たるメンバーが教授として来熊しています。

 ――国の出先機関で残っているのは農水省ぐらいですか?

 大畑 NHKも熊本放送局が九州全体を統括していたのですが、1992年に拠点局が福岡放送局へ移りました。

 ――百貨店がある通町筋は道が広く、ビルも立派というか、柱がでかいですね。

 大畑 そうです。通町筋がメイン通りで、その正面に熊本城がバーと見えるような感じで高くそびえています。熊本市の一番の問題は交通です。熊本城を築城した加藤清正が一番恐れたのが天下を狙っていた薩摩です。九州一の強力で、外様ながら天皇家や将軍家とも関係を持っていました。だから清正は薩摩のために南の防御を固めています。熊本城も武者返しという絶対に登られないような石垣や迷路のような石段道、城下町の道路を設けていたので西南戦争でも難攻不落でした。その築城の名残で交通事情が悪い。熊本駅や桜町バスセンターからここ黒髪へ来られる時も紆余曲折で複雑です。しかも熊本城があるから道路を一直線にすることができません。高速道路を走らせるのも歴史的な建造物ががたくさんあってできない。鹿児島本線の当時の鉄道もシュッシュッポッポの蒸気機関車で煙を街の中で撒き散らすからダメということで玉名駅から熊本駅、八代駅、水俣駅までずっと3号線から外れています。

 ――2016年の熊本地震の影響はどうでしたか?

 大畑 熊本城を起点に城北と城南と言います。城北のこの辺は揺れもありましたが、室内がゴチャゴチャになる程度でした。南部の益城町から西原村辺りは布田川断層がずれて新築の家でも倒れたりして被害甚大でした。しかも熊本地震は震度7が4月14日の前震と16日の本震の2回発生したのが大きかった。しかも熊本地震の場合はその後余震がずっと続いたので怖くて避難民が多くて家に帰られない。18万人が車上生活を強いられました。現在は大体収まったけど、震度3くらいの余震が続いています。布田川断層帯の南の日奈久断層帯がかなりエネルギーを溜めていると言われています。

教育実習生を
経験し教師へ

 ――大畑先生のお名前を最初に拝見したのは約15年前です。九州の業界誌に「熊本には情熱的な校長先生がいる。講演も非常に上手いと評判だ」と載っていました。月日が経ち、大里綜合管理社長の野老真理子さんと、ねっと99夢フォーラムをボランティアで立ち上げて、その第25回で大畑先生に連絡させていただきました。それから間もなくして私の妻が亡くなり当時中学校1年生の子育てをするために、部下を手放し、編集の仕事から離れて、たった一人で講師派遣の業務を担当することになり、再び連絡させていただきました。

 大畑 山ノ堀さんとの出会いで北海道から沖縄までいろんなところへ行かせてもらい、僕も全国的になりました。本当にお世話になりました。そしていろんなことを学ばせていただきました。

 ――まず先生が教職に就くことになった辺りから振り返っていただけませんか?

 大畑 僕は熊本大学法文学部法科なので、まず教員になることは思ってもいませんでした。ところが、僕達の頃は、東京と同じように熊本大学でも大学紛争がありました。僕がいた法文学部と工学部が非常に活動的で、バリケードを築いて講義が行なえない状況でした。結局6カ月封鎖です。その間ボーっとしとるわけにいかんから、連日クラス討論がありました。僕はストライキ解除派として「ストライキなんていかん! 今、僕達は勉強しなくてはいけない」と言うと「なんで生きるのか? なんで闘争が必要なのかをいろいろ話すことが勉強だ」という反論がありました。それに「僕達は法学部に入った以上、法律の勉強や実務的な勉強がしたい」と言い返したけど全然耳を傾けない。6カ月経って大学側もタイムリミットと考えたのでしょう、このままでは全員が落第になって大学の運営が難しくなると、警察の機動隊がバリケードを排除して授業が始まりました。
 その前に法科の先輩が来られて「法科を卒業したら、どこの大学でも法学士は取れる。それよりも世の中に出て力になる免許や資格を取っておきなさい。運転免許も卒業して会社に入ってから取ろうとしても難しい。もう一つは教員免許だ。教壇には教員の免許を持たないと絶対に立たれん。だから取っときなさい」と。大学に「法科だから教育学部と違って時間もないです」と言ったら「6カ月で1年間の単位を取らせるよう集中講義をする。教育学部の講義も開放するから受講してよろしい」となりました。

 ――それは大変な集中講義ですね?

 大畑 法曹界に行きたい人は司法試験を目指して頑張る。あるいは公務員(県庁)を受けるのであれば公務員試験の準備をする。僕の場合は教員の免許ということで、中学校と高等学校の社会科を取るために教育学部へ行ったり集中講義を受けました。最後に残ったのが教育実習です。2週間、教育実習生(教生)として学校へ行って講義をしなければならないわけです。熊本大学から近い学校がいいということで済々黌高校にしました。

 ――熊本で一番有名な高校ですか?

 大畑 偏差値のトップは熊本高校、文武両道なのが済々黌高校です。で、済々黌にお願いしたら受け容れてくれたので、僕はここで政治経済という教科を受け持ちました。2単位なので週2回、3年生全クラスです。その時の指導教官が良くて「僕は年を取っているからあなたみたいな若い人が頑張らなくてはいかん。君に任せるから自由にやりなさい」と言われました。僕は「わかりました」ということで徹底して一所懸命取り組んだら、あっという間の2週間でした。

 ――どんな授業をされたのですか?

 大畑 政治・経済の基本や僕自身の身近な問題の大学紛争の話を交えて生きた授業を行ない、「だから政治や経済は身近な問題であり興味を持たなければいかん」と語りました。それが生徒達には面白かったのか、2週間の教生が終わって帰ってしまうのが勿体ないと思ったのでしょう。生徒達が「教生の先生と話す集会を開きたい」と計画したのです。校長先生は「駄目! 教生は本当の先生じゃなか。集会は絶対に認めない」とおっしゃった。生徒達が「ぜひ認めて欲しい。お願いします」と言い出して聞かないものだから、校長先生も「それなら開いてもよかばってん、教頭先生の立ち会いでやりなさい」と。それが終わって帰るとき生徒達が僕に「先生、本物の先生になってください」と言って、それぞれの窓から手を振ってくれたのです。世の中の仕事で、こんなに受け入れられるというか、反応が返って来る仕事はなか。よし教師を本気で目指そう」と思いました。そこから僕はを教員採用試験の勉強をし、合格して採用されました。あの大学紛争がなかったら僕は教員にはなっていません。都市銀行員か県庁の行政マンでした。

農業高校へ赴任し
体験の重みを知る

 ――最初の赴任先は農業高校でしたね。

 大畑 そう。本渡市(現・天草市)にあった天草農業高校(現・天草拓新高校)です。農業高校の生徒達は、野菜や果物を作ったり、鶏や豚や牛を飼育したり、農業実習を泥まみれになってやるわけです。彼らは僕の授業を一所懸命聞いとっても試験をしてみるとできない。覚えていない。これおかしいな~と思っていたら生徒達が私に教えてくれたとです。「先生、農業は理屈じゃありません。どんなに理屈を知っとっても、作物は育たん。鶏とか豚とか牛は飼えません。一所懸命に足腰使って初めて植物や家畜が何を要求しているか気持ちがわかる。それで肥料をやったり餌をやったり可愛がって初めて成長するのです。野菜は太陽や雨が影響する。もう理屈通りには絶対にいかんとです」と。そこで僕が「世の中はそんなものたいね。理屈だけでは通らん。お前達が一番大切なものを持っているかもしれん」と声を掛けたら「体験だって」と言われました。僕は体験学習の大切さも学ばせてもらい良かったです。

 ――体験の中にこそ、ですね。

 大畑 実習を通した体験の中にこそ本物がある。僕が受け持つ教科は政治経済だから大体3年生で、すぐに卒業していきます。僕はここの4年間で、3年生の担任を3年間務めました。そうすると長男が多いから親の家業を継ぐのです。卒業後もよく学校へ来て、「先生、僕が作ったトマトやきゅうりを食べて」とか「社会人になるといろんな役割があるから青年団や消防団などへ入りました。協力や助け合いが必要です。農業は技術を習得するのに時間が掛かるばってん、それを習得した人間は強いです」と笑顔で話しかけてくれました。普通高校の卒業生は殆ど母校を訪ねて来ないし知識偏重ですが、こちらの方が人生を渡るときに上ではないかと思えました。

 ――その後は産業高校だとか?

 大畑 菊池郡大津町の大津産業高校(現・翔陽高校)です。こちらも実学的なものを学ぶ生徒達ですが、天草農業高校よりも工業科と農業科、家政科の総合的な新たな取り組みを行なっていました。その頃、僕が担当したのは社会科の授業と同和教育です。同和対策事業特別措置法が施行されてまず義務教育である小中学校が取り組み、続いて高校に導入されました。差別には実体的なものと心理的なものがある。実体的な差別は道路を良くするとか建物を建てるとか実体的な差別をなくすことでいいのですが、一番大変なのが就職や結婚とかの心理的な差別です。そこは教育しかないということで重点的に取り組まれました。僕はここで人権の問題を4年担当しました。

 ――県の教育委員会へ奉職されたのは?

 大畑 大津産業の校長先生が「大畑先生は行政が向く。行政とは県の教育委員会のことたい。先生を見とったら、学校教育や社会教育といった垣根がない。役所の人達が一生懸命に地域に向き合っているような、今からは教育の分野もそういう人権の問題ももちろん出てくる」と。僕は「まだ受験の指導をしていないから行政ではなくて、普通科高校へお願いします」と答えたのですが、蓋を開けたら行政でした。県教委の同和教育係かと思ったら高等学校教育課の人事担当でした。僕は大学で法律、社会人になって同和関係の勉強をしていたのがものすごく役立ちました。

 ――人事というのは面白いですか?

 大畑 面白いです。どちらかというと生徒達でなくて教員や管理職を育てる仕事です。4月から教員採用試験を担当し、それが一段落すると次に人事異動です。その間、校長、教頭、事務長の管理職研修などがあります。教育の分野も法的なもので裏付けされていることがわかってきます。文部省(現・文部科学省)との関係もあるので、東京へ出かけて行っていろんな話を聴いたり、中教審の答申も押さえたりしていると、教育の奥義を知りました。現場の教員だけであればとてもわからない世界です。僕は人事に12年おって、学習指導の指導主事にはなっていません。人事で主事から課長クラスまで昇進しました。

挨拶と返事、校歌で
地域から信頼を得る

 ――いよいよ校長ですね。

 大畑 天草郡有明町(現・天草市)の天草東高校へ赴任しました。天草には当時高校が11校もあって、この学校は非常に小規模で、分校から廃校になる心配がありました。有明町の町長さんが「天草東をなくさんでくれ」と県の教育委員会へ陳情に来られました。県の教育長も「どやんかしなくちゃいかん。生徒数を増やせ」ということになり、僕が呼び出されて「天草東高校の生徒数が減って分校、廃校になるということで町長さん達が心配していらっしゃる。あんたしかおらん。あんたが行って立て直してきなっせ」と言われました。しかも47歳です。天草東高校の全校生徒が1992年に217名、1993年に198名、1994年に176名と減少し、私が赴任した1995年が164名でした。それを1年で184名、3年目に215名にしました。V字曲線です。だから町長さん達が大変喜ばれました。「良かった。これで分校にならんで済んだ」と。

 ――どのようにV字回復されたのですか?

 大畑 この学校に生徒が来ない理由を考えた時に、地域社会から「あんな学校、た~だ行くだけ。高卒の学歴を取るだけで何にもならん」と言われて信頼がなかった。それを回復するためにいい学校にせんといかん。いい学校にするためには学力を伸ばしたり、部活動を盛り上げないとダメと思ったとです。しかし改革には時間が掛かる。それを放置したら高校が分校に降格して校長も要らなくなる。早速164名の生徒を相手に取り組みました。何よりも地域社会の信頼回復のために人間力を身につけさせることが一番大切である。人間力の具体的なものは、実践しかない。その第一は大きな声で挨拶、返事です。挨拶や返事は人間力の基本中の基本。そして全生徒が一体感、母校愛を持つには彼らに共通する校歌です。「少人数であろうと大人数であろうと集まったら大きな声で校歌を歌おう。校歌の徹底だ。自分達の校歌だから頑張って歌おう」と言いました。
 また、この生徒達は殆ど進学しないので大学に変わって、将来何をしなければいかんかというと新聞や本を読むことです。ところがこれが一番難しい。習慣にならないと読まないのです。顔を洗って歯を磨くのと同じこと。新聞や本はどこにあるかというと図書館です。だから「全校生徒1日1回図書館に行く」という目標を立て、習慣づけることにしました。図書館で出欠を取り記録しました。最初は行かん生徒もおりました。それでも「何で行かんとか? 行かんといかんじゃないか?」と言うと行きます。すぐ帰ってきます。それでいいのです。ところがそれを1週間続けるとすぐに帰ってきません。「お前、何しよったか?」と尋ねると「図書館へ行った。せっかく行ったので、新聞のプロ野球やサッカーの記事を見ていた」とか自分達が好きなところを読む。読んだ後に「巨人が勝った~! 誰が投手で誰がホームラン打った?」とか。そうすると男子生徒達はだんだんだんだん新聞に興味を持ってきました。女子生徒達はグラビアに興味を持っていたのが、「この小説はとても面白い」「昨日読んだところはこうだった」というのが話題になる。それが、だんだん毎日のことになって習慣づく。「本ば読みなさい! 新聞を読みなさい!」と一所懸命言っても読みません。習慣づいたら自ら読むようになる。そのためには最初、形式的でも本があるところ、新聞があるところに行かせる。では小学生に本や新聞を読ませるのにどうするかは子供達が一緒にいるときには茶の間で絵本でも何でも読んでやったり読ませる。本を子供の周りに置いておく。そうするとだんだんだんだん読むようになる。そういった形で身近に本を置いて自然に読む習慣をつけるのです。それが一番手っ取り早い。

 ――地域社会に受け入れられるために挨拶をどう徹底されましたか?

 大畑 大きな声で挨拶する。登校、下校時に会うおじさんやおばさんに「おはようございます」とか「こんにちは」「さようなら」と言うのです。そうしたら地域社会の人達が「あら~天草東高校は変わったなぁ~。朝からよう挨拶しますねぇ。気持ちよかなぁ~。今度、来られた若い校長先生がバリバリ指導されている。しかも看板や垂れ幕まで出して一所懸命徹底しておられる」と、学校に対する信頼が深まり口コミで広がってくる。

 ――小学校だと挨拶するのが当たり前ですが、中学・高校になるとしなくなります。

 大畑 高校になって何で大きな声で挨拶や返事をしないのか? 大人になったって自分の名前を呼ばれたら「はい!」と返事をしなくちゃいかん。高校生、大学生、大人になったら、挨拶と返事はしなくてよい、は間違いです。どこの高校、大学へ入学しても挨拶と返事は幼稚園・保育園・小学校の時に習ったように大きな声で「おはようございます」と挨拶し、「はい!」と返事しなければいけない。これは人間として一番基本的で大切なことです。人間社会で繋がるときはまず「おはようございます」「今日はいい天気ですね」からコミュニケーションが始まるのです。

 ――炊き出しもされたとか?

 大畑 今の高校生は挨拶や返事をし出しても、声が小さくて大きな声が出らんのです。天草東で生活実態調査をしたら大体「朝ご飯は小学校の時から食べていません」と言う生徒が5、60人いました。しかも食べた生徒も「パン一切れ食べて来ました。時間がなかったから」「おにぎりを一個食べて来ました」「コーヒーだけ飲んで来ました」と、朝食が貧弱です。そこで「朝飯食うぞキャンペーン」が始まるのです。山ノ堀さんも講演で聴かれたでしょう。まず「保護者の皆様へ、うちの学校では今、『朝飯食うぞキャンペーン』を行なっています。生徒達が朝飯を食べて来ないと勉強ができません。勉強をするということは脳を使うということです。脳はブドウ糖がないと働きません。朝飯をちゃんと食べさせてやってください。しかも朝飯で一番大切なことはただパンだけとか、おにぎりだけというのではなく、ちゃんとバランス良い食事しないとダメです。バランスいい食事は、ご飯と箸の立つ具だくさんの味噌汁が一番いい」と保護者宛のチラシを渡しました。それでも中々徹底できないので最後の手段として「学校で作って食べさせましょう」となったのです。その頃はまだ「食育」という言葉がありませんでした。その後、全国的に朝飯の大切さが叫ばれるようになりました。文部省も「早寝早起き朝ごはん」を言い出しました。

 ――学校の炊き出しのお米は?

 大畑 最初、PTA会費の予備費から出しました。その後は「このキャンペーンはボランティアでやっているのではない。君達のためだから自宅から米を1合持って来なさい」ということにしました。大体2週間くらい続けたら、親も気付いて「これは家庭の問題ばい」ということで、お母さん達がとにかく朝飯を食べさせるようになりました。朝飯を食べさせるようになって、どの家庭も朝ご飯を炊くようになりました。そうすると余ったご飯に前夜の残りのおかずを詰めて弁当を持ってくる。これで学校の昼食風景がごろり変わりました。今までは500円玉を持って来て、売店でパンと牛乳くらい食べて昼飯にしていたのが、お母さんやお父さんが作られた弁当になった。生徒達が昼食時間に、教室で静かに、美味しそうに弁当を食べる。この様子を見て、私は「食べることは、作った人の愛も一緒に食べていることなんだなあ」と思いました。だから生徒達がニコニコして食べるのです。しかも残さずに綺麗に食べてしまうのです。親の手作り弁当を食べることが、これほど効果があるのだとわかりました。「食べることは教育」なのです。

「悪戦苦闘能力」で
親から信頼を得る

 ――次は菊池高校ですね。

 大畑 菊池市の菊池高校は生徒が1,200人ばかりおりました。その時は「悪戦苦闘脳力を身につけよう」をスローガンにしました。1998年1月1日の「NHKスペシャル」で評論家の立花隆さんが「21世紀に一番必要な力は『悪戦苦闘能力』だ。21世紀は『難問の連続』が待ち受けている。今までの解決法では解決できない。問題解決には発想力、構想力、アイデアだけでなく、それを実現する力、行動力が必要になる。がむしゃらに突進するのではなく、戦略・戦術を持って柔軟に対処する力が21世紀には必要になる」と言われたのがヒントになりました。
 その「悪戦苦闘能力」について、具体的に何が実践の力として必要かを僕が考えたのは「挨拶・体力・感性・集中・思考」です。挨拶ができないと人間関係を築けない。スマホやコンピューターができても、人間関係は挨拶や言葉を交わして、対等に話した時にその人のことががわかってくる。挨拶はコミュニケーションのスタートライン。このコミュニケーションを交わすことで、「この人はいい人だなぁ」とわかり信頼感が生まれてくる。だから21世紀の一番のポイントは「この人は信頼できる」という人になること。挨拶やコミュニケーション能力がないと絶対ダメです。実際に目を見て話したら、すぐ目に現れて、本当だ、いや嘘、騙そうとしているというのがわかる。だから僕は挨拶を入れた。
 人間関係を築くスタートで一番大切な人間関係は親子関係と捉えた。普通の人間関係と違う。ということは夫婦が結婚して、できたのが親子関係、子供です。子供が生まれるのは親の意思より神の意思の領域。だから子供からすると一人のお父さんとお母さんというのはかけがえのない存在です。
 僕は生徒達に言いました。「君達は、自分一人で生きていると思っとったら大間違いぞ。日本では、今30万の赤児がこの世を見ずに流されている。彼らには人生がない。お前達はたまたまお母さんがお産をして、命をかけて産んでくれなさった。安産なんてなか。お産を抱えた女性は本当に怖いし痛い。そして産み出してくれた。お母さんがいなかったらお前は産まれていなかった。牛や馬、犬は産まれたら自分ですっと立っておっぱい飲んどる。しかし人間は産んでそのままにしとったら死んでしまう。それからずーっと20年も手がかかるばい。一人前になるまで。ということは親は産んでくれた大恩人。育ててくれた大恩人。人間というのは恩を受けたら必ず返さんといかん。恩を忘れた人間は碌な人間じゃない。お前たちもなんかしてもらったら『有難うございます』と声をかけたり、『これは僅かなものですが』と言ってお返ししなきゃいかん。親に何を返すかというと挨拶でいい。その時に親に対して、『お母さんおはようございます。お父さんおはようございます』と言うたら『うちの子はよく育ったな。社会へ出たら必ずうまくやっていく』と思ってくれなさる。だから安心させるためにまず挨拶をしろ。親がおらん人は、兄ちゃん姉ちゃんでも、じいちゃんばあちゃんでも、とにかく家族に対して挨拶しなさい」と言って担任の先生に挨拶の調査をしてもらいました。

 ――調査結果は?

 大畑 菊池高校で朝の親への挨拶実施率は、最初の4月12日39.2%、5月11日62.6%。3月14日83.6%でした。3年間おりましたから3年後の1月23日93.8%です。データは1年生、2年生、3年生とクラスごとに出しています。これが誰にウケたかと言うと、家庭です。「先生が来られてからうちの息子は変わりました。うちの子も小学生くらいまでは親にちゃんと挨拶しよったが、中学になってからあまりしなくなった。高校になってから殆どしない。ところが、最近は朝から『お父さんおはようございます。お母さんおはようございます』と言い出したからびっくりした。『どうしたんだ?』と尋ねたら、『校長先生が、とにかく親に挨拶ができない者は社会に出たらダメだ。勉強よりも大切なのは挨拶だ。それは親から始まる。親に対する感謝の気持ちだ』と言いなさった」と。

 ――校長先生の話を生徒達は聴くのですか?

 大畑 データを毎月発表しました。その結果、挨拶のいいクラスは中間考査や期末考査の成績もいいのです。それを僕が何でこうなったかを全校集会で話をするのです。部活動も一緒です。野球部やサッカー部も挨拶がいいから強いのです。

 ――熊本商業高校では伝統校の復活がテーマでした。

 大畑 はい。熊本商業高校は伝統校として「過去の栄光を取り戻す」という命題がありました。そのため「将来、商業(サービス業)に就く者は理屈よりも実践」を掲げ、「実践力」を規定、「挨拶」「目標」「感性」の重点事項を推進しました。その結果、資格取得が全国商業高校の下位から第4位にアップしました。

「挨拶」の励行で
国公立大合格者増

 ――八代高校は偏差値の高い高校ですね。

 大畑 当時、県下3番目の進学校でした。ここでは「Cool Head but Warm Heart」をスローガンに、冷静な判断力と豊かな人間性を兼備した 「21世紀日本のリーダー養成」を宣言しました。挨拶は引き続き実践し、1年目の朝の親への挨拶実施率は、4月10日66.0%、10月1日89.2%、2月13日96.7%でした。八代高校の生徒の進路は大半が大学進学を希望していて、その中でも国公立大学の現役合格が目標です。私が行く前は106人だったのが、1年目が147人で41名増、2年目が152名でした。しかも私が行く前は9クラスだったのが8クラスに減ったので合格率はさらに高くなりました。しかもこの時は東大や阪大、東北大、九大にも合格しました。8クラスだと1クラス40名、学年320人。そのうちの約半分が国公立大学現役合格、それに早稲田、慶応とか有名私立大学を入れたら200人近くでした。

 ――八代高校も挨拶の成果ですか?

 大畑 はい、挨拶! とことんやりますから。挨拶をすれば、学校でも職場でもそうですが、雰囲気が全然違います。やる気充分になります。

 ――挨拶は相手を認めると同時に自分が認められることにもなりますね。

 大畑 そうそうそうそう。だから私が八代高校で言い出したことは「受験は団体戦である」ということ。一人が良くなってもダメ。みんなで頑張る。そしてみんなが良くなること。そのためには、挨拶しかないと。今言われたでしょう。挨拶は認めることだって。お互いに認め、認められる。お互いに励まし合って切磋琢磨して頑張る。それしかないと。

 ――次の第一高校は熊本城内にある高校ですね。

 大畑 熊本城内です。第一高等女学校からスタートした女子の名門校です。今は男子も入っていますが、私の時は女子だけでした。ここは女子を育てるということで、「賢い女性にならんといかん。そのために『白梅の精神(叡智・純潔・節操・自立・真理の探究)』を根づかせよう」と言って「挨拶」「目標」「感謝」を明示し、「賢い女性」の養成を掲げました。1年目の朝の親への挨拶実施率は、4月12日68.7%、10月6日83.5%。3学期88.3%。2年目の1月12日97.7%です。これがどんな影響を及ぼしていくかというと、進路達成率では国公立大学合格が僕が行く前に82人だったのが、1年目86名、2年目96名に増えました。挨拶とリンクしていることがわかります。だから「一所懸命まず挨拶を行ない、お互いを認め認められ、切磋琢磨しないといかん」と徹底的に言ったのです。

 ――最後の盲学校では資格取得の実績を挙げられました。

 大畑 私が盲学校へ赴任したのは、障がい児、生徒の学校が平成19年度から、全国で「特別支援学校」になったからです。僕が2007年に盲学校へ赴任する前に教育長からは「盲学校、ろう学校、養護学校は特殊教育諸学校と言っているが、障がいが複数の児童・生徒が増えているので特別支援学校に切り替わる。また、障がい児・生徒でも一般の小中高等学校に登校してよろしいとなる。といっても、一般の小中高等学校にそういう障がい児、生徒が入ったら現場の教師がお手上げとなる。地区ごとに障がい児、生徒の中心校を置き、そこが重要なセンター的な役割を担う。あなたは同和教育もやっとったし、弱い人達の気持ちもわかる。特別支援学校元年、模範となるような学校へ導いてもらいたい」と言われ、「すべての子供の生きる力を育成する」教育が本格的に始まりました。熊本市の盲学校では「挨拶」「挑戦」を掲げ指導した。「挨拶」の良さは、盲学校では当たり前のことです。挨拶はほぼ 100%、声を掛けることの重要性を再認識しました。挨拶はお互いを認めることですから。部活動のアンサンブル部が全国大会へ出場し金賞(大学の部)、鍼・灸・あん摩・指圧・マッサージの資格取得も高い合格率を挙げました。

 ――将来展望があったわけですね。

 大畑 最初に打診された時は経験がないので少し戸惑いましたが、勤務してみて最高に良かったです。健常者の学校では学べない貴重な、しかも教育の基本中の基本、人間の生き方、あり方など素晴らしい経験をさせていただきました。もう世の中も「障がい者とともに」という時代になってきたじゃないですか?

 ――オリンピックと同時にパラリンピックにも注目が集まっています。今年の東京オリンピックの誘致で名スピーチを行った佐藤真海さんも障碍を持つアスリートですね。

 大畑 健常者も障がい者も対等です。しかも障がい者の方が障碍を克服した分、すごいという時代になってきましたよ。私の校長職が、最後に障がい児、生徒の教育で終わるとともに、喜びと誇りを感じました。これこそ「有終の美を飾る」ということでしょうね。

「最後の授業」で
親子が涙を流し合う

 ――大畑先生の「最後の授業」は素晴らしいですね。

 大畑 私が考える教育の究極の目的は「親に感謝、親を大切にする」と思います。高校生の多くは今まで自分一人の力で生きてきたように思っている。親が苦労して育ててくれたことを忘れている。これは天草東高時代から継続して行なってきたことですが、このことを教えるのに一番ふさわしい機会として、私は卒業式を選びました。式の後、3年生と保護者を全員視聴覚教室に集めて、私が最後の授業をするのです。そのためにはまず形から整えなくてはいかんということで、後ろに立っている保護者を生徒の椅子に座らせ、生徒をその横に正座させる。そして全員に目を瞑らせてから「最後の授業」が始まります。
 「今まで、お父さん、お母さんにいろんな苦労を掛けたり、心配させたりしてきたろう。それを思い出してみろ。交通事故に遭うて入院した者もおる、親子喧嘩をしたり、『こぎゃん飯は食えん』とお母さんの弁当に文句を言うた者もおる……。君達を高校へ行かせるために、親は一所懸命働いて、金をたくさん使いなさったのだぞ。今まで、そぎゃんことを考えたことがあったか。学校の先生に『お世話になった』と言う前に、まず親に感謝しろ。心の底から親に迷惑を掛けた、苦労を掛けたと思う者は、お父さんお母さんが隣におられるけん、そん手を握ってみろ」。そして、生徒が親の手を握るのを待つ。全員が手を握ったのを見届けて、「そん手が18年間! お前達を育ててきた手ぞ。わかるか!……親の手を、これまで握ったことがあったか?」とまで語気を強めて言い、「君達が生まれた頃は、柔らかか手をしとられた。今、ゴツゴツとした手をしとられる。君達を育てるために大変な苦労してこられたからたい。それを忘れるな。18年間振り返って、親にほんなこつすまんかった、心から感謝すると思う者は、今一度強う手を握れ!」……。「よし、目を開けろ」。嗚咽、涙、涙。「わかったか? 私がこれまで教えてきた『親に感謝、親を大切にする』教育はこれたい。親に感謝、親を大切にする授業、終わり」。そして、私は視聴覚教室を出て行く。後ろを振り返ると、親と生徒が抱き合って嗚咽しながら涙を流している。

 ――感動的なシーンですね。「最後の授業」を実施しようと思った理由は?

 大畑 卒業生が世の中に出ると失敗することがあるでしょう。でもそれを最小限に抑えるようにするにはどうしたらいいかと考えました。それで「若いと仕事による失敗は仕方がない。しかし一番気をつけなくちゃいかんのは、一人で仕事をするわけではないから『報・連・相(ホウレンソウ)』を必ずやれ。それをやっといたらどんな失敗をしても上司からは『まぁ、しゃあなか。お前、若かっだけ。これから頑張れ!』となる。それを黙っていたら上司も頭にきて、『あいつはダメ』となる。だから必ず、挨拶・返事をして、報告・連絡・相談をしなさい。2番目は酒。これは飲まれたらいかん。酒席で喧嘩沙汰とか揉め事とかしたら世間は冷たい。それで失敗すると、一方で素晴らしい実績があっても浮かばれない。それと男子に言っておきたいのは、女子にももちろんながら、色恋沙汰だ。特に男は女で失敗したらいかんと。それと浮気して嘘をついたらダメ。それで職場を去っていった人はたくさんいる。浮気は世間が許さない」という話もしました。

 ――勉強よりも大切な学びですね。どの高校でも「最後の授業」を実施されましたか?

 大畑 全校で実施しました。菊池高校や熊本商業、八代高校は卒業生が多かったので、「親に感謝」「親を大切に」は卒業式後に各クラスで担任にお願いしました。そこを教えないといかんです。例えば山ノ堀正道を証明するときに何が第一か? それは親です。産んでくれてこの生を与えてくれた、そのことに対する感謝が芽ばえると、子供が親を大切にするようになる。それが日本の伝統です。祖先を大切にして、墓参りへちゃんと行くようになったりします。

 ――親の評判は?

 大畑 お父さん、お母さんが「先生、ありゃ良かったなぁ」「卒業式後の『最後の授業』が良かったな」と言いなさる。なんでかというと「先生が『手握れ』と言ったので、手を握るように手を出したが、息子は手を出さんので握られなかった。ところが先生が大きな声で『その手が18年間育ててきた手ぞ。しっかり握れ!』と言ったので、あの息子がしっかり握り返してきた。その時グッときた。それで今までの苦労とかが晴れ晴れとなり、心がすっとなった。そして、今でもあの時、あの場面を思い出す度、ぐっと心にこみ上げてきます」と。

 ――生徒も晴れやかな気持ちで卒業できますね。

 大畑 ええ、そうそう! その時、私は思いましたね。教育の究極は「親と子を繋ぐ」ことではないかと。あの経験をしていたら卒業しても親の愛を感じる。今、妙な事件がいっぱい起こっとるのは親と子供が繋がっていないからだと思います。卒業式後の「最後の授業」は親子一緒に聴く。授業の集大成です。「親に感謝、親を大切にする」教育と「愛の授業」は、私が校長を務めた6校全てで3年生全員、クラスごとに男女別々にして1年間実施してきました。その「愛の授業」の演題は、幸せになるために「真の愛を見つけよ!」でした。

卓話が契機に
講演1,000回超

 ――大畑先生が定年後に九州ルーテル学院大学で客員教授を務められたのは?

 大畑 私が八代高校の校長していた時に、短期大学が学生を増やさなくちゃいかんということで4年制の九州ルーテル学院大学に衣替えをしたのです。しかし当初学生数がどんどん減っていきました。それで、大学改革のため東京から新しく着任した学長がどんどん改革をされていきました。それは高等学校を退職した先生を大学へ入れ、高校との連携を図ることでした。そういう時に創立記念祭の資金集めのため「社会人講座」が計画され、その講師に私が招かれました。その時に学長が私の講演を聴き、「この先生なら良かばい」と思われたのでしょう。学長から「定年退職後、うちの大学に来てくだい」と。そして定年退職後、学長に会うと「先生を客員教授にしたい。もちろん教授の部屋は準備する。しかし、うちの大学だけで先生を囲み込むのではなく、先生は日本が求めているので1週間に1回くらい顔を出してくれるだけでいい。あとは全国を飛び回って講演してください。ただし、必ず『九州ルーテル学院大学客員教授』を3回言ってください。そしたら先生のインパクトで大学の学生が増える。講師の依頼が来たら喜んで行きなさい」と言われて行き始めたらだんだんだんだん、オファーがかかるようになりました。

 ――講演の最初のきっかけは?

 大畑 菊池高校の校長の時、菊池市での長の会がありました。市長や警察署長、校長、園長、会社の社長等が大体1カ月に1回集まって昼食会を行ないます。その時、順番に卓話をすることになり、私の順番が来た時、「21世紀は『悪戦苦闘能力』が大切だ」という話をしたら「30分じゃ勿体なか。もっと話をしてくれないか?」となりました。次に「熊本が当番県でライオンズクラブ九州大会をします。先生、講師をお願いします」と言われ、日曜日にボランティアで引き受けたわけです。

 ――全国校長会でも話されましたね。

 大畑 有楽町の東京国際フォーラムで全国高等学校校長会50周年記念式典が盛大に開催されました。橋本龍太郎総理大臣の祝辞の後、九州・沖縄代表として熊本県が当番だったため実践発表のお鉢が回ってきました。その時の熊本県高等学校校長会会長から「大畑先生、実践発表をしてください。今は、生徒数が減少してどの学校も統廃合の問題に直面して、校長がみんな困っています。大畑先生が天草東高校で生徒数をV字回復させた話をしてください」と肩を押されたから発表することになりました。当時は少子化の影響が小中学校から高校へ移り、全国的に高校の統廃合が喫緊の課題でした。「校長が変われば学校が変わった。地域社会に信頼される“本もの”の高校づくりが大切。そのためには社会が必要とし、社会に即役立つ人間力を持った人材育成が重要である」という実践談を披露しました。これが好評で、後の帝国ホテルでのパーティーでは、全国の校長先生方との情報交換が大賑わいでした。

 ――講演は延べ何回ぐらいですか?

 大畑 10年で1,000回以上でしょうね。

田中真澄氏との
縁が初上梓に

 ――大畑先生は教生として教壇に立った済々黌高校へ行きたかったのでは?

 大畑 ええ。行きたかったですよ(笑い)。

 ――熊大や九大、広大(広島高師)の教育学部閥でもあるのですか?

 大畑 いやそういうことではない。僕はどっちかというと課題のある学校、手のかかる学校のほうが向いていると思われたのでしょう。受験校で一生懸命頑張って試験の成績を伸ばすよりもですね。

 ――八代で受験の成績を挙げられました。熊高や済々黌で東大現役合格20人とか?

 大畑 ははは。そりゃやってみたかったですね。しかし人事は県の教育委員会が行なうものです。学校には全て課題があります。その課題を全力を挙げて取り組むことが大切です。長が常に心しなければならないのは「リーダーは結果責任が全てである」ということです。長にはただいればいいというのではなく常に成果を出すことが求められているのです。

 ――『答は現場にあり』(パルス出版)を出版された経緯は?

 大畑 田中真澄先生をご存知ですか?

 ――存じ上げています。

 大畑 私が八代高校の時に「先生は田中真澄先生によう似とりなさる。夜の講演会の入場券を上げるから行きませんか?」と言われて、熊本市内の熊本県立劇場に行きました。その時に「うわぁ、この先生は情熱的だなぁ」と思いました。それとこの先生は私と違って、ホワイトボードにタッ、タッ、タッ、タタッターと書く人でした。それで、うわぁ、素晴らしいと思って、講演が終わってから、よしこの人に会おうと思って、控え室に行きました。そしたら、「ちょっと待ってください」と言われるからなんだろうと思ったら、この先生は汗っかきで講演終了後に下着から何から全部替えるのです。「いいですよ」と言われて中へ入って、「私は今、八代高校の校長をしています。今日、初めて先生の話を聴きました。わかりやすくて素晴らしかったです。しかし、先生が言われることを私は今まで実践してきました。だからとても嬉しかったです。挨拶はとても大切だと思います」と話しました。田中先生から「これまでの資料をぜひ私に送ってください」と言われたので、天草東、菊池、八代の各高校の実績を送りました。そしたら「私が本を書きます。いいですか?」と言って『学校を激変させる挨拶教育』(ぱるす出版)になりました。
 その後、岩手県の秋山信勝税理士から「田中先生の本を読んで感動しました。うちの会計事務所の新春セミナーで講師を務めてもらえませんか?」という話があって盛岡市で話をしました。その時に、ぱるす出版編集長の春日榮さんが一番前に来ておって、「先生、本を書いてください」と言われた。で、「僕は本を書いたことなか! 忙しくて書く暇もなか!」と言ったら「先生の講演は録音しました。これを起こして本にします。それだったらいいでしょう?」と言いなさった。夏休みをかけて起こして、「先生、熊本弁でわからないところがあります」と言って校正後の原稿を私に送ってきました。私は「自分が読んでもわからんとやけん、こりゃダメですよ」と言ったら「勿体ない。先生、一念発起して本を書いてください。とりあえず、原稿用紙を送ります。大畑先生、作家の苦しみをお楽しみください。編集長 春日」と書いてありました。その後、大量の原稿用紙が届きました。何度か「急いでくださいよ」とか催促されて。

 ――完成したわけですね。

 大畑 ええ。一念発起して執筆を始めると、次から次へと実践したことが出てきてバーっと書き上げました。本当は菊池高校の「悪戦苦闘能力」の話を書きたかったけれど、天草東高校で収まってしまった。だから「第二弾が欲しい」と言われたのですが、「もういい」と答えました。

人間関係を取り戻す
挨拶とコミュニケーション

 ――九州ルーテル学院大学を退職後、保育園の園長をされているとか?

 大畑 「アンビー合志保育園」です。アンビーというのは、Boys be ambitiousから命名されています。熊本県は合志市と菊陽町の人口増が顕著で全国から注目されています。待機児童が多く、合志市が誘致して企業連携型を含めた保育園ができました。この会社の社長さんから「先生がされる挨拶や朝食の話は保育園にも通じる。先生が園長として直接、保育士や働く母親達に何が大切なのかを語っていただければ大変有難い」と言われました。「保育園の園長なんてできません」と固辞したら「ちゃんと教頭的な人はいる。その人がいるので、先生はたまに来て指導していただくだけで大丈夫です」と説得されました。

 ――保護者の反応とかは?

 大畑 はい。非常にいい。園児もいい。もう園児は大好きだな。

 ――ちっちゃいというのは真っさらなカンパスに自由に絵を描く感じですね。

 大畑 そう、だからまさに大きな声で挨拶をする。「大きな声が出らんとダメよ。大きな声を出すためには、ちゃんとご飯を食べなきゃいかんよ~ご飯食べて来た~?」「食べてない」「ちゃんと、それをママに言いなさい。ご飯と味噌汁をちゃんと食べなくちゃいかんよ。味噌汁はね、ちゃんと栄養素が汁の中に溶けている。溶けているのをしっかり飲まなくちゃいかん」と言うとります。そして、「食べて来た!」と言うと「うわぁ~、素晴らしいねぇっ」と言います。返事も「園長先生お願いします!」と言われたら大きな声で「はい」です。私が一番の実践者ですから。ということは、園児は親の姿を見ている。親がすることをする。大人が大きな声で挨拶したり、名前を呼ばれて「はい」と返事したら必ず園児も「はい」と言うようになります。親がせずに園児に「挨拶せえ」とか、「人から呼ばれて返事しなさい」と言ったてダメ。

 ――最後に今後の夢や目標をお願いします。

 大畑 今後の夢は「もっともっと」ですね。山ノ堀さんが言うように地域からしか日本を変えることはできない。というのも昔は物凄く地域社会の人間関係が密接に繋がっとった。そして、地域の行事も多かった。ところが、その人間関係がズタズタに消えてしまっている。それを取り戻すのは人だ。そのために一番大切なことは挨拶をしてコミュニケーションを交わすこと。こうして人の絆を構築する。これを私はもっともっと日本に広げたい。

 ――スマホでなく人間と向き合うということですね。

 大畑 ええ。人間と向き合う。直に。だけん、山ノ堀さんがすごいなと思ったのは、私の家までわざわざ、しかも大畑という人間はどんなところに住んでいるかも知らないのにちゃんと来て、正面から向き合いインタビューして、いろいろ確認なさる。これがすごいのです。直に会って話してみないと人間はわからない。スマホではこれができないのです。

 ――インターネットに「大畑先生は熊本の宝」とありました。私の方こそそんな大畑先生からお話が聴けて果報者です。明日は観光で天草・島原・雲仙に行こうと思っています。

 大畑 それはいい! 私を育てた第二の故郷ですよ、天草は。いいところです。歴史のロマンがいっぱいあります。

プロフィール

大畑誠也(おおはた・せいや)氏

1947年、熊本県山鹿町(現・山鹿市)に生まれる。1972年、熊本大学法文学部法学科を卒業。同年、熊本県立天草農業高等学校(現・天草拓新高校)社会科教諭として赴任。県立大津産業高等学校(現・翔陽高校)、熊本県教育庁高等学校教育課、教育庁学校人事課人事係長、主幹、課長補佐、教育審議員を経て1995年、県立天草東高等学校長に就任。県立菊池高等学校長、県立熊本商業高等学校長、県立八代高等学校長、県立第一高等学校長、県立盲学校長を歴任。2008年、九州ルーテル学院大学客員教授に就任。2019年からアンビー合志保育園長を現任。著書に『答は現場にあり』(ぱるす出版)がある。

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