現代版組踊で中高生に志高い生き方を教える

  1. 鄙のまれびとQ&A
鄙のまれびと 2

 20年前に現代版組踊「肝高の阿麻和利」プロジェクトが立ち上がった。公演は成功、子供たちが変わる姿を見て大人たちが変わり町も変わった。「勝連方式」「肝高メソッド」と言われている。今日まで316回のロングラン、18万人強の観客を集めている(2019年6月末現在)。この取り組みを演出したのが南島詩人の平田大一氏だ。いま現代版組踊は各地で16に広がっている。

■ゲスト 
 現代版組踊推進協議会会長 平田大一 氏

■インタビュアー 
 旅するライター 山ノ堀正道

「南島詩人」を名乗り四谷コタンで
詩の朗読などひとり舞台を行なう

 ――初めて中高生による現代版組踊「肝高の阿麻和利」を拝見しました。中高生がとてもいきいきと踊っていて感動しました。これに演出として当初から関わっておられる平田さんのヒストリーから伺います。「南島詩人」を生んだ小浜島とはどんな環境ですか?

 平田 小浜島は「日本のバリ島」と呼ぶにふさわしい。竹文化、横笛等、生活の中に芸能が根ざしています。沖縄の中でも、歌の島、踊りの島と言っていいかもしれません。

 ――高校まで小浜島で暮らしたのですか?

 平田 離島の子は「15の春」です。石垣島の八重山高校へ進学しました。同級生には「涙そうそう」や「島人ぬ宝」等の代表曲があるBEGINがいます。

 ――BEGINはNHK連続テレビ小説「ちゅらさん」に出演しました。番組の舞台も小浜島でしたね。

うふだき荘

 平田 よくご存じですね。「ちゅらさん」の舞台「こはぐら荘」は実家(民宿「うふだき荘」)の隣です。シュガーロードの一角にサトウキビ畑があり、中学まで民宿とさとうきび畑を手伝っていました。

 ――演劇に触れたきっかけは?

 平田 僕は詩を書き溜めていて、小浜島の民宿の常連で、僕のアルバイト先の出版社の人たちが「大一さん、閏年の2月29日に馴染みの小さなライブハウスが空いている。何かやってみないか?」と言ってくれ、詩の朗読「南島詩人」のひとり舞台を四谷の「ライブハウスコタン」で行ないました。

 ――演劇よりも詩が先だったのですか?

 平田 詩の朗読はこじんまりとしていて暗く内向的なイメージですが、僕は小浜島の祭りで笛や太鼓、三線、踊りを教わっています。自称「南島詩人」は詩の表現形態を模索し、詩を語り、詩を演じ、詩を奏で、詩を舞い、空手の要素も入れて4時間のひとり舞台です。僕の19歳のデビューは意味があったと思います。

 ――観客は集まりましたか?

 平田 20名のキャパのライブハウスに60名入って立錐の余地もないほどでした。あのときのオーナーから「沖縄くん、君の存在感は不思議な磁力があるな」と言われました。このライブハウスで、僕は「沖縄くん」と呼ばれていたのです。そのとき舞台を見に来た人の中に琉球放送の東京支局長もいて、僕が卒業後、小浜島で島おこしをしていたときに「ラジオ番組を持たないか?」と言われ「小浜島から三拝云(島言葉で「ありがとう」の意)」のパーソナリティーとして詩の朗読を担当しました。

 ――ウチナーンチュとヤマトンチュの割合は?

西大岳からの眺望

 平田 ヤマトンチュのほうが遥かに多かったです。アルバイト先の出版社の人達が「沖縄の小浜島の面白い青年の舞台があるから見に来ないか?」と声をかけてくれました。それから当時は「沖縄」と名前がつけば受け入れられるような沖縄ブームの最中で、東京関係の観客が多かったのかもしれません。人に恵まれ、チャンスに恵まれました。

 ――小浜島の人たちは明るいのですか?

 平田 そうですね。うちの祖母、母は天然シマンチュというか太陽のようで、何かあれば踊り出すという感じでした。父も民宿の経営者でしたから酔っ払えば三線を弾いて好きな歌をうたい、僕も常に宴会部長でした。

「小浜島キビ刈り援農塾」を結成
「心の皮を剥こう」と呼びかける

 ――東京で舞台活動を行ない成功していたのに、卒業してすぐに小浜島へ帰って「キビ刈り援農塾」を主宰された理由は?

 平田 東京で生まれて東京で育って東京で死んでいくのもありかもしれません。でも自分はどうして島で生まれたのかという大きな問いを持ちながら上京したので、自分自身の使命をずっと考えてきたわけです。行き場のない沸々としたものをどこに向けていいかわからなかった。振り返って思い出したのが、子どもの頃、あんなに嫌だったサトウキビ刈りの現場が無性に、目の前にサンドバッグがあれば殴り続けたいというみたいに、僕の場合には朝までサトウキビを刈り続けたいという衝動に駆られました。
 ふと振り返ると、僕の周りには対人恐怖症や赤面症、睡眠障害など心の病を持った人が多くいて、話をしてみると心と体のバランスが取れていないことがわかりました。だったらサトウキビ畑でみんな心と体も疲れきればぐっすり眠れるのではないかと思って「タダで泊めるからキビを倒してみないか?」と尋ねたら「OK!」ということで始まったのが「小浜島キビ刈り援農塾」でした。

 ――1~3月に実施されたのですか?

 平田 一番糖度が上がる1~3月の製糖期を利用する。その期間は観光のオフシーズンで民宿もガラガラなので一石二鳥です。父は「農業をナメている。キビを作るのは誰でもできる、キビを倒す収穫作業が大変だ。島の若者でさえやりたくない仕事のキビ畑に旅費を出して来る人間がいるはずがない」と言いました。ところが、「初日で手の皮を剥き、3日で肩の皮を剥き、1週間で心の皮を剥こう」と呼びかけたら意外に心の皮を剥きたい人が多く集まりました。

 ――1週間して剥けましたか?

 平田 父は「短期間の観光農業体験は勘弁だ。本気で農作業に取り組む人間なら受け入れる」と言いました。というのも、大体1、2日やって筋肉痛を訴え帰ると戻ってこない。3日まではヒーヒー言っても、4日目からリズムがつくれるので使いものになる。1週間以上だったらランナーズハイのようにキビ刈りハイになれるので「1週間以上」を条件にしました。睡眠不足の人間は体が疲れるからおいしいビールを飲んでお風呂へ入ってガッと寝る。寝付きがいいと目覚めがいい。生まれ変わったように仕事がはかどる。自分は世の中で一番不幸だと思っていたのに自分よりも不幸な人が隣にいる。隣にいる不幸な女性に『頑張ろうな』と呼びかける自分がいる。励ましているうちに励まされているような状況です。この人たちが第二のふるさとしてキビ刈りでない時期でも来てくれました。

 ――おばあちゃんの合唱団も結成されました。

 平田 子どもたちへの紙芝居をボランティアでやっていたら、「おばあちゃんたちにも月に1回三線を弾いて歌をうたわせる機会を作ってほしい」と言われ、「おばあちゃん合唱団」を始めました。今では天国に一番近いアイドル「KBG84」として世界デビューを果たしています。その前年にはおばあちゃんファッションショーも行なっています。

「中学生に想いを伝えて舞台を作りたい」
教育長に賛同し送迎バスの運転手を務める

 ――小浜島を出るきっかけは?

 平田 ずっとひとり舞台をやっていて、子どもたちの舞台の演出を石垣島でも行ないました。その舞台を見ていたあるプロデューサーが「沖縄で新しい取り組みの演出家が必要だ。平田という演出家でやってみよう」ということになったのです。

 ――「肝高の阿麻和利」の演出を引き受けたきっかけは?

 平田 脚本家の嶋津与志先生が「僕が脚本を書く代わりに演出は平田くんでやってほしい」と紹介していただきました。僕に代表的な作品がない時代ですからかなりのチャレンジだったと思います。旧勝連町(現・うるま市)の上江洲安吉教育長(当時)からは「地域の中学生を出演させる」「地域の芸能を取り入れる」「阿麻和利を英雄にする」の三点の注文がありました。

 ――世界文化遺産の絡みがあったのですか?

勝連城跡

 平田 上江洲教育長は勝連城の世界遺産登録前に琉球正史『中山世艦』の「王府への反逆者」阿麻和利の汚名を雪ぎたいと思っていました。旧勝連町は僕を呼ぶ1年前に沖縄最古の歌謡集『おもろさうし』研究の第一人者で法政大学名誉教授、外間守善先生の講演会を実施しました。外間教授は「『おもろさうし』に『気高い阿麻和利様よ、千年も末永く勝連を治め給え』の記述があります。立派な王(按司)でした」と講演されました。その話を聴いた上江洲教育長は「京に対する鎌倉のように、首里と勝連・阿麻和利を関連づけよう」というヒントをえられたのだと思います。

 ――歴史は勝者が作りますからね。上江洲教育長は歴史に造詣が深かったのですか?

 平田 もともと小・中学校の教諭や教頭、校長を経て教育長になった方です。歴史はもちろん歌や三線など芸能に秀でて地域愛があり、お城に誇りをお持ちの方でした。

 ――中高生への演出はうまくいきましたか?

 平田 最初は旧勝連町の中学生が対象でした。平成11(1999)年12月24日の最初のオリエンテーションの2週間ほど前に全中学校を回っていて、「この舞台やってみないか?」と言って反応がありい気をよくしていたのです。ところが70席用意していて蓋を開けてみたら参加者が7人しかいない。隣にいた社会教育主事の先生が「みんな田舎者だからおとなしくて自分を出せないのです」と言ったので「僕自身が小浜島で生まれて、周囲16キロ、人口500名、軒数224軒という小さな島です。同級生は4名だけです。田舎者だからおとなしくなければいけないというのだったら僕は当てはまりません」と反論しました。当時は1,500万円の予算をかけて舞台のセットや衣装を作るということがあってやる気満々で教育委員会に臨んでいるのに7名しかいなくて焦りました。

 ――7人しか集まらなかった原因は?

 平田 よく聞くと、学校は「19時以降の稽古は学外なので教育委員会の責任でやってください」、親は「うちの子どもは学校行って部活動や生徒会、塾にも行って忙しい。これ以上、忙しくさせるな。送迎も教育委員会が行なうのであればかまわない」という声が教育委員会に寄せられたそうです。つまり子どもたちは少しやる気があったとしても、親がその気にならなければ送り迎えもできないということです。教育委員会の職員も僕に「この舞台は大人でやるべきじゃないですか?」と尋ねるわけです。

 ――平田さんはそれにどうどう返答されましたか?

 平田 この事業は当初、上江洲教育長だけの思いでした。「小学生のときは可愛い可愛いと言えば育てていける。高校生になれば親ともそれなりに話ができる。問題は中学生の頃で一番難しい年代だ。中学生に私の思いを伝えて舞台を作りたい」の言葉に僕は賛同し、「社会福祉協議会のバスを僕が運転して送迎します。大型二種免許を持っていますから」と言いました。
 最初のオリエンテーションでは「中央に集まれ」と言っても「お前、行け」とか言い合って前に出てこない。「お腹が空いた」と言うのでごはんを食べさせて、ゲームをしていたら「稽古をしないの?」と尋ねてくる。「何の役をやりたい?」と尋ねたら全員「阿麻和利をやりたい」というので、それ以外の役を僕が全部やりました。「次も来るか?」と尋ねたら「来る」と言うので、「友達ひとり連れてきてくれ」とお願いしました。教育委員会も中学生が100人になった段階でバスを4台出してくれました。

子供たちが変わる姿を見て
大人たちや町も変わった

 ――初回の公演はどうでしたか?

講演終了後の公演

 平田 翌年3月の二日間、出演者150人で勝連城に仮設のステージを作って行ないました。観客は初日が1,800名、2日目が2,400名集まり、反対していた親や学校の先生が前列に陣取っていた。2,000名の指笛や拍手は地鳴り、地響きで電流が走った。役者はみんな台詞を覚えていない。そんな中で嬉しかったのは、阿麻和利を演じた主役が台詞の棒読みながら空手のシーンが決まった。「かっこいい!」というかけ声が起こると、お父さんがバッと立って「あれはうちの息子だ!」と叫ぶのです。シーンごとにいちいちわいわいやりながら、当時でも3時間半要しました。
 グランドフィナーレで「肝高の詩」を総勢150人がバッと踊ります。駆り出された与勝中学校野球部10人と先生で20本の紙テープ、平敷屋エーサー子供保存会40名が紙吹雪をピューッと飛ばしました。観客にはこのシーンが一番脳裏に残るはずだという作戦です。最後は暗転でシーンとなってコールライトがパッと点いた瞬間に拍手がどわーっと起こった。大人の涙を見て子どもたちも泣いた。

 ――子供たちにとって感動のスタートになりましたね。

 平田 人作りの感動体験のタネを蒔く。自分のやるべきことを見つけられるかどうかは個々人のタイミングや個々人が持っているバックグランド、バックボーンがあるのです。つまり尊敬する恩師、先輩や仲間、上司に出会ったりしてパッと芽が出るかもしれない。それを信じて続けることできっと一騎当千のリーダーが必ず出てくると思います。

 ――150人の子どもたちの3分の1が不登校だったのですか?

 平田 環境は様々で片親だったり昼夜逆転の不登校、長期欠席の生徒もおりました。その子どもたちがここへ来れば夕飯を食べられて、ついでの練習も面白い。ここで仲良くなった友達ともっと会いたいといって学校へ戻りました。

 ――人間接着剤だったのですね。

 平田 まさに「奇跡の舞台」と言われている所以の一つでもあります。学校の先生方からすると手に負えないような問題の生徒が、ここでは「はい、はい」と素直に受け答えしながら大人を手伝っている。「学校で寝てばかりいる子が踊っている」と驚かれました。

 ――阿麻和利自体が捨て子だったのも、子供たちに響いたのではないですか?

 平田 もともと虚弱体質で、昔で言えば口減らしとして7歳のときに洞窟に捨てられたと言われています。小学生向けのミュージカル「カッチンカナー」では、「なぜ阿麻和利はこんなに民のことを思うことができるのか? 捨てられた身だからこそ人に優しくなれるのかもしれない。どんな家庭環境にいても肝高い生き方ができる。それを阿麻和利が範を示してくれた」というメッセージを伝えました。偉人伝にはエピソードがあって、八重山の英雄オヤケアカハチも海藻にくるまれた捨てられた子だったと言われています。

 ――2年目以降はどうなりましたか?

きむたかホール

 平田 親御さんたちからすると、自分の子どもがいきいきと成長する姿というのは一番の歓びだと気づくわけです。「肝高の阿麻和利」の取り組みを続けないといけない。でも、町や市の補助金は3年で終わるわけです。きむたかホールが完成して僕が館長になって、次の年からもう事業費はないということで、「4年目から自主公演をやりましょう。チケット収入を得て舞台を作るのです。自分たちの夢を自分たちで継続させるために自主財源を持たなくてはいけない。補助金は感謝こそすれあてにしてはいけないのです」と訴えました。

 ――県内に留まらず本土からの集客も目指したのですね。

 平田 本土の修学旅行生を受け入れる3年先の沖縄の公的会場を押さえることができないという課題がある一方で「肝高の阿麻和利」の稽古を見にくる視察団が増えました。さらにキャラバンと称して子供たちが小学校へワークショップに行っています。

 ――中高生が20年かけて阿麻和利の汚名を払拭しましたね。

 平田 上江洲教育長が「先入観がある大人たちが演じても必ず『でもね』という話になる。子どもたちのようなまっさらな素直な心で阿麻和利の本当の姿を描いていかないといけない」とおっしゃいました。あれから20年近い年月がたった。今や16箇所がこの「勝連方式」「肝高メソッド」と言われる取り組みで子供たちが変わる姿を見て大人たちが変わって遂に町も変わったという取り組みの大きなモデルがここにできた。子供たちが頑張る姿を周りの大人たちがサポートすることで舞台作りが20年間続いている。阿麻和利の舞台だけでも、いまトータルで316回の公演で18万人強のお客さんに観てもらえました。

老いも若きも未来の宝
沖縄と世界を繋げていく

 ――沖縄県新設の文化観光スポーツ部の初代部長に42歳の若さで抜擢されましたね。

 平田 沖縄電力の会長だった仲井真弘多さんが沖縄県知事に就任されたとき「『文化で産業を、教育で地域で起こす』という取り組みを全県で起こしたい」といって私にも声をかけていただき、県の部長になりました。とはいえ職員からしたら宇宙人が来たような感じだったと想います。同い年は係長や主任クラスですから人間関係で苦労して体重が13キロ減りました。心身ともに削りながらではあったのですが、非常に勉強になりました。

 ――文化はお得意の分野でしょうが、観光は新しい領域ですね。

 平田 観光チームは予算の作り方がうまいです。文化チームはいざ事業を構想しようと言っても作れないので日頃からの政策研究が大事だなと思いました。もうひとつは舞台作りと組織作りが一緒だなと途中で気づきました。舞台に必要なのは、台本、キャスティング、予算、つまりいい台本があって、いいキャスティングがされて、予算がどれくらいかの規模によって、どのくらいの事業にするかになる。県でいうと、人事があって、ビジョンがあって、施策があって、それに対して予算が付く。それは舞台と同じだと思って、演出家の目線で行政を進めると繋がるようになりました。例えば人事をキャスティングと呼んだりする。キャスティングをするときにポイントがあるのです。実績ではなく期待感です。この子にこの役をやらせたら面白くなるのではという期待感でキャスティングするのです。そんな気持ちで人事をしたらどうですかと言いました。

 ――2年後に公益財団法人沖縄県文化振興会理事長に転任されたのは?

 平田 県の行政の仕事は仕組みや事業を作って、その球を投げることです。豪腕のピッチャーが投げた球をキャッチャーが受け止められないので、外郭団体や民間の事業者がキャッチャーとして受け皿になる、そこをテコ入れしなければいけないので、仲井真知事に「外郭団体の文化振興会へ行かせてください」とお願いしました。ここでピッチャー、キャッチャーを養成しました。一方で文化の団体で地域が行政に対して対立の構造を作りたがる性質がある。あるいは助成金、補助金に対する考え方がまだまだ弱いので、ユニークでインパクトがある取り組みをやっていくところに本来行政もちゃんと予算をつけなければいけない。その間を取り持つ人が必要ということでジョイント的な仕事をしました。

 ――公務員を離れてから現代版組踊推進協議会の会長に就任されましたね。

 平田 僕が不在の間、後輩たちが守ってくれて、新たに増えて、組踊が16団体になりました。課題や可能性をどうするかの協議会が必要だろうと提案して作りました。今年は劇聖・玉城朝薫が組踊を上演して300周年、現代版組踊誕生20周年です。僕は沖縄文化御祝儀元年を掲げています。本土復帰50周年になる2022年をひとつのスタートラインにして、この4年間で総仕上げをしていこうと思って推進協議会の会長を引き受けました。

 ――今後の夢や目標をお願いします。

 平田 2021年に第7回世界のウチナーンチュ大会があります。沖縄にルーツを持つ海外移民の方が沖縄県に里帰りするイベントで、これが成功するように応援していきたい。一方で海外に目を向け、今年はイギリス、ペルー、オーストラリア、昨年はアメリア、カナダへ出かけました。どの地域でもネクストジェネレーションと老いていく人たちのネクストチャレンジをどうしたらいいのかということについて真剣に議論しています。それについては老いも若きも未来の宝だという認識で、沖縄と世界を繋げていこうと思います。


プロフィール

平田大一(ひらた・だいいち)氏

1968年、沖縄県八重山の小浜島生まれ。18歳の頃から「南島詩人」を名乗り、詩人、演出家として独自の創作活動を開始。大学卒業後、シマの文化と農業を体験する「小浜島キビ刈り援農塾」を主宰、文化を基調とした地域活性化を一貫して展開。きむたかホール館長、那覇市芸術監督を歴任。2011年、沖縄県文化観光スポーツ部長に抜擢。2013年からは公益財団法人沖縄県文化振興会理事長に就任、沖縄文化の司令塔役を担う。2017年からはフリーランスの沖縄文化芸術振興アドバイザーとして活躍。2018年、現代版組踊推進協議会会長に就任。

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