見えないから見えるものがある
「人の喜びを我が喜びとする」

  1. 鄙のまれびとQ&A

 右目が全く見えない、左目がかすかに見える状態の竹内昌彦氏は小学校1年生の時、壮絶ないじめを受けたが、「いじめの見える化」で応戦。2年生の終盤、網膜剥離により失明、全盲となり岡山県立盲学校へ転校。苦学し東京教育大学(現・筑波大学)盲学校教員養成課程へ入学・卒業後は母校の盲学校で奉職。講演をこれまで3,000回以上行ない、延べ40万人以上に「いじめ」や「命の大切さ」を訴えてきた。講演謝金等は「ヒカリカナタ基金」としてモンゴルやキルギスに盲学校設立、目の見えない子を手術で治す活動を推進している。

■ゲスト 
 ヒカリカナタ基金代表・社会福祉法人岡山県視覚障害者協会副会長・社会福祉法人岡山ライトハウス理事長・点字ブロックを守る会代表・元岡山県立盲学校教頭 竹内昌彦氏

■インタビュアー 
 旅するライター 山ノ堀正道

「いじめ」「命の大切さ」を
3,000回、延べ40万人に語る

 ――竹内昌彦先生のことは帰省時に山陽新聞の記事で知りました。戦後、中国・天津から引き揚げた船の中で急性肺炎に罹り右目が全く見えない、左目がかすかに見えていたのが、小学校2年生の時、網膜剥離で完全に光を失い、岡山県立盲学校へ転校されました。母校で教鞭を執った後、モンゴルへ盲学校を建てたりされました。それらのご活躍を見て、千葉の第80回ねっと99夢フォーラムで講師を務めていただきました。あのときは東金文化会館の300人の観客が感動の渦に包まれました。

 竹内 その節はよく岡山の田舎者を呼んでくださいました。初めて千葉へ泊めてもろうたサンライズ九十九里浜はとてもよかったです。

 ――あちらは先帝がお泊まりになったこともある国民宿舎です。

 竹内 ほほう。ホテルの裏手には高村光太郎の「智恵子抄」の碑もありました。今頃の人は「智恵子抄」を知らんのんですね。我々の年代はみんな読みましたが。

 ――講演は延べ何回されましたか?

 竹内 1991年から29年で3,000回、延べ40万人以上に聴いてもらいました。僕は講演で、「いじめっ子に弱い者いじめする力があるなら弱い子を守り助ける側に回ったらどれだけ気分がようて喜ばれるかわからんぞ」と言うのです。

 ――昨夏は朝日新聞出版から『その苦しみは続かない 盲目の先生、命の授業』を出版されました。この中で「いじめに苦しむ子供達に『どんなことがあっても、死なずに生きて欲しい』」というメッセージを送っておられますね。

 竹内 まず「死ぬな」と言いたい。

いじめを受けたら
みんなの問題にする

 ――竹内先生が小学校でいじめを受けた話からお願いします。

 竹内 僕が子供の頃は人権という言葉がなかったです。「めくらに『めくら』言うて何が悪りい」「女は黙っとれ」というのが常識でした。「うちの愚妻が」とか。日本語だからへりくだって言うとるのじゃろうけどよくない。大体、「朝鮮人のくせに」という「くせに」が悪りい。あの時代の被差別部落出身の方や在日韓国人も苦しみを味おうたはずです。日常的に「めくらで、なんにもできんのじゃから放っておけばええのじゃ」という時代でした。それが子供の自分からしたら面白くねえし、気分が悪りいし、腹が立つし、悲しかった。いじめる側からすればそう悪意でもなく、そういう社会だったということです。
 それが昭和40年代に人権問題が飛躍的に改善しました。善し悪しはあるにせよ、部落解放運動が無理やりでも人権をひっくり返した。あれ以後、「こういう言葉は悪い」とか、それぞれハンデを抱えた者をバカにするのはいけないということが常識になった。個々人の考え方はなかなか変わらんけど、少なくとも大義名分、表向きだけは「女のくせに黙っとれえ」と言うたら言うた方がおかしいということになった。これは大きな前進です。
 私が岡山盲学校の教員になった頃、女性の先生が諸手当を申請すると「住宅手当は男が申請するものじゃ」「子供の扶養手当もそうじゃ」と言われ学校の事務室ですら認めなんだ。「それが社会通念じゃ」と言うて。僕が「父親の扶養をしようと思いますが」と聞いたら「あんたは次男じゃろう。親の扶養は長男がするものじゃ」と言われ認めてくれなんだ。「それでも長男は東京へおって、私が親のそばへいるのです」と言うたら「特別な書類を書け」と。今では考えられないけど、「それが社会通念じゃ」ということでした。
 私がいじめられたのは世の中がそうだったと言えるわけです。だからいじめっ子に悪意がものすごくあったということではないと思います。

 ――目が見えないことで給食のミルクにゴミを入れられたり勉強道具を隠されたりしました。泣き寝入りをする道もありながら竹内少年は反撃に出ました。

 竹内 やっぱり負けず嫌いです。不公平は嫌だ。自分として納得できないことは黙っとらないで言う。そういった個性が他の常人よりも強かったのでしょう。1歳違いの兄は僕が少し違うだけでもすぐ文句を言うからよう我慢したと思います。僕はそんなタチなのです。そういう意味では学校でもどこの職場にいても自分に納得できんことはやっぱり言う。職員会議で発言しただけで「竹内は和を乱す」と言われる。それは「発言するな」と言うに等しいのです。だから僕、「和をもって貴しとなす」が嫌いです。それは権力者が下の者を黙らせるために作った言葉と思っています。町内会でもなにか発言すると「あの人は町内の和を乱す」という言い方になるでしょう。立ち向かうというよりも「黙っておられない」という個性が上回っただけなのです。

 ――生きている以上、意見は言う、声に出すのが自然です。

 竹内 儒教の教えが言わないで控えることを美徳とする文化を形成した。だけど、山ノ堀さんが言われるように、民主主義が誕生したヨーロッパでは自分の考えを主張するのが当たり前でしょう。僕は日本人というよりもヨーロッパ的なのです。

 ――竹内少年はいじめられた時の反撃方法に特色がありますね。

 竹内 僕は殴ったり蹴ったり、殴られたり蹴られたりの暴力が嫌だった。痛いだろうし、血が出るのも大変じゃし。取り返しのつかんことが起きたら困るしね。それは自然と身についていました。僕は童話をたくさん読んだりしたことが影響したと思うのです。童話ってアンデルセンにしてもグリムにしても、正義の味方が出てくるじゃないですか。あれがかっこよかったです。あれをたくさん読んだことが大きかったし、そういう生き方をしたかったし、今でもしたいと思うのです。だから暴力は嫌だし腹が立ったから悪い子を殴らずに消火器の液を撒き散らして教室中を汚した。石を投げた子の家の座敷に砂を撒いた。石には石を返しても良かったのですが、相手が傷ついたり、その辺が割れたりすると弁償しなきゃいかんわけでしょう。家が貧乏じゃったから子供心に控えたわけです。

 ――相手に仕返しするのではなくて、相手の親に対して「あなたの子供はこんなことをした」「石を投げた」と訴えて波紋を起こしたわけですね。

 竹内 うん。いじめっ子の家に仕返しをしたら親がわかって怒るだろうと。これは一つの計算でした。それから教室で消化器の栓を抜いたのは、いじめの相手が多かったので大騒ぎにしようと思ったわけです。

 ――結局、いじめは問題を顕在化させることが重要なわけですね。

 竹内 そうそうそうそう。問題を広める。だけどそのときはそれほど崇高な話ではなくて、みんなの問題にするというのは確かですね。クラスのみんなにも親にも知らせる。

若年層こそ
教師が重要

 ――小学校2年時の担任の先生が素晴らしいですね。

 竹内 ええ。島村清先生です。2年生の時、なんであんなに居心地が良かったのかなと思って『見えないから見えたもの』の本を書いていたら「あっ、そうか」と気がついた。それを今頃わかるわけです。とにかく立派な先生でした。

 ――島村先生からはどう声をかけられましたか?

 竹内 私の目が見えないことをクラスのみんなに知らせる。「竹内は目がよう見えんのじゃ。神様のバチが当たったのじゃなくて、小さい時に急性肺炎に罹って見えんようになったんじゃ。みんなだって、戦争中によその国で生まれて栄養も足らなんだら、そうなったかもしれんぞ」と。これは今の親だと「個人情報」を振りかざして文句を言うかもしれない。でも、あの先生は「僕はそれが正しい」ということを貫いたのです。それで、「竹内が目が見えなくて困っとったら目が見えるみんなで助ける。みんなも困った時、他の人が助けるのが当たり前なのじゃ。たちまち竹内は、どこに座ったらええ? 黒板に字を書くけど、竹内はどこが一番よう見える? みんなわかるよな?」「一番前の真ん中じゃない?」「そうじゃそうじゃ」「先生もそう思う」。それを最初に行ない、みんなに理解させました。それでいつも黒板に大きな字を書いて、「竹内見えるか? 竹内見えるか?」と。それみんなも見とるわけですから、「あぁ大きい字じゃけえ見える」「わしもよう見える」と。こういった教え方でした。運動場へ出ても、「竹内こっちじゃ」と言うて呼びに来てくれたり、給食の担当も「竹内は二人でパンを配れー」と。子供って頭がいいから、もう一人の子が僕がやりやすいように気を配ってくれました。

 ――ということは、小学校低学年の担任によって子供の人格が形成される。周りの大人の助言で大きく変わってくるということですね。

 竹内 それはもうあっという間の話です。大人がプレーするプロ野球でも、監督がチームを優勝にも最下位にもさせるわけです。高校野球でも監督によって全然違うじゃない。ましてや子供が小さいときの教師は親よりもよほど神様でした。教師の影響力は絶大ですよ。だから教師が僕のことを「見えんからしょうがねぇんじゃ」と言ったら子供も「ほっときゃええんじゃ、ほっときゃ」と言って一緒にバカにしますからね。それを先生が「あれを大事にせないけんぞ」と言うたら、子供も「おい、あれを大事にせないけんぞ」となる。そりゃもう無批判でそうですよ。それで人間形成されていくわけです。だから特に若年層こそリーダーがいかに大事かということ。いかに良い親を持ち、良い教師、リーダーを持つかが人生にものすごい損得です。

 ――フィンランドは「国家百年の計」で、人格を含め最も優秀な学生を教師にして国家公務員よりも高給を与えると聞きました。人間、指導者で人生が決まりますからね。

 竹内 そうそうそうそう。全くそうですよ。もう本当にそれに尽きると思います。

職業選択の
自由がない

 ――島村先生という恩師のおかげでクラスメートと仲良くできた時期があって、その後、完全に光を失うのですね。

 竹内 そうです。岡山大学病院へ入院しました。クラスのみんなが手紙を書いて、代表の何人かが見舞いに持参してくれて嬉しかった。

 ――目が見えなくなったことに関してはどうですか? 

 竹内 みんなそう質問する。大人は将来のことを考えたりして大変じゃな~となるけど、子供って一瞬つらい時もあるけどわりかしすぐに現状を受け入れるのです。目の前のことしか見えとらんから、お見舞いで美味しいケーキを食べてうまかったとかの方が先。だから子供の時に見えなくなったいうのはまだ幸せです。「あ、見えんない~」と言うだけですから。盲学校に行けば周りのみんなも見えないし。

 ――それでも実際、ご苦労とかありましたよね。

 竹内 問題なのは一つは進路です。進路を選べないということがだんだんわかってくる。盲学校だとあん摩・鍼・灸だけです。建築とか自分がしたかった仕事に就けない。それから目が見える兄はよう勉強して岡山大学付属中学校、進学校の操山高校とかエリートコースを進みました。みんなから「兄ちゃんはよう頑張るな」と褒められて、母は「嬉しいわぁ」とか。父は僕に遠慮してかあんまり言わなかったけど。どうしても、それと自分との比較をします。

 ――東京教育大学(現・筑波大学)盲学校教員養成課程の道は誰が教えてくれたのですか?

 竹内 それは親が早ようから知っとって「先生になられえ」と時々言うて、盲学校へ行かせても希望を持っとりました。で、中学部に進級して勉強も負けたくなかったし面白うなって、これだと行けるかもしれんと親は思ったのでしょう。

 ――中学1年生の3学期、たった一人“オール5”を取られました。

 竹内 若くて声が綺麗なクラス担任の中原玲子先生が社会科の自然地理を優しく丁寧に教えてくれ勉強が好きになって、家でも兄と机を並べて予習や復習をしたらクラスで最高点を取りました。学年末に「通知簿を読んで欲しい人は、隣の部屋へ来てください」と言われて行くと、中原先生は「竹内君、よう頑張ったなあ。全部『5』よ。でもなあ竹内君、私から見ると、その5は一つも本物ではありません。あなたは自分の成績だけが良かったらええと思っているでしょう。勉強のようわからん友達を放っとるじゃろう。困っとる友達に親切に教えてあげることができた時、あなたの『5』は本物になるんよ」と言われた。

 ――素晴らしい先生ですね。

 竹内 うん。目が見えないけど、兄貴に負けたくなかった。岡山大学付属中学校には行けないけど、勉強で負けるかという気持ちで頑張った。近所で僕が勉強を教えてやったやつが「岡山の進学校へ行く」と言うと、“なんだ、あいつが入ったのならわしも行けらぁ”と思うしね。自分にはそういう進路の選択肢がないのは悔しかった。頭に来た。自分の限界、道の限界が見えて来ると、そのうちつまらんなーと思った。それが中途失明だといっぺんに来る。

 ――パラリンピックで東京へ行く時は岡山駅で大勢が見送ってくれたとか?

 竹内 寝台特急で夜9時の発車じゃったけどプラットフォームにはぎょうさんの見送りが来てくれて、母は一人ずつにお礼を言って回り、発車のベルが鳴り終わると父がいきなり「竹内昌彦、バンザーイ!」「バンザーイ!」を繰り返してくれました。

 ――盲人卓球で金メダルを取られました。どのような競技ですか?

 竹内 卓球のピンポン球の中に小さい鉄の玉が入っていて、これがガラガラと音がする。その転がる音を聞いてラケットで打ち合う競技です。とにかく相手側に打ち返さないといけない。強く打ったら出てしまう。ボールをカットすると球が回り遠心力で中のガラガラが吸い付いて音がシュッと消えるのです。消える魔球が起こる。相手が打ちにくい。ところが耳を澄ませばゴロゴロ転がる音がする。ピンポン球の頭をコンと叩けばすぐ元に戻る。角っこを狙うと跳ね返って出てしまう。技を覚えて優勝することができました。
 パラリンピックの第1回ローマ大会はそもそも車椅子の大会でした。“日本パラリンピックの父”と言われる中村裕医師が東京オリンピック後に第2回パラリンピックを開催し、日本のあらゆる障害者がスポーツに取り組む扉を開き、それ以後、障害者の国体、全国の身体障害者スポーツ大会が始まりました。

健常者と結婚
長男との別れ

 ――竹内先生、奥様との出会いは?

 竹内 昭和40年に目が見えん人間が「大学を受ける」というのは、今の子供がアメリカのボストンにあるハーバード大学へ行くよりもよっぽど珍しい考えられない時代だった。それで山陽新聞の記者が「社会の片すみに」というシリーズの取材に来たのです。で、「僕は真ん中のつもりでいます。『社会の真ん中で』にしてくれませんか?」と言うたのですが、「前からこうなっとる」ということで、そのシリーズに載りました。そしたら点字の手紙で、「私は鴨方町(現・浅口市)に住む18歳の短大生です。金光町(現・浅口市)にある点字図書館の『青い鳥点訳グループ』で点字を習いました」という自己紹介と新聞を読んでの感想、励ましの言葉がありました。相手が点字を書いてくれるというのはやっぱり嬉しいから「ありがとう」という返事を書いて文通が始まった。

 ――東京教育大学に合格した時はどういう気持ちでしたか?

 竹内 まず親が喜んでくれて嬉しかった。それから僕もあの苦しかった受験勉強をもうせんで済むと思うと嬉しかった。参考書も目が見える人は本屋で買うてくれば良い。僕はそれを買うてきて高校のジュニア・レッド・クラス(JRC)の部員に点字を読んでもらって、点字機を使って資料を作る。それにものすごく時間がかかりました。だから普通の人よりも早ようから受験勉強に入りました。

 ――大学ではどのような勉強をされましたか?

 竹内 これが特殊です。普通教科の国語や数学、理科、社会等は大学で普通教員免許を取得します。僕のあん摩・鍼・灸の教員免許は商業、あるいは工業、農業と同じ職業教育です。さらに特殊なのは各都道府県であん摩・鍼・灸の免許を取って来なさいと。それで初めて大学の受験資格ができるのです。だから受験生はみんな免許を持っています。

 ――竹内先生は、あん摩や鍼灸師を職業にしようとは思っていなかったけども、大学に行くために取って、気持ちが変わったのですね。

 竹内 うん。それを使うて仕事をするにも教員をするにも、とにかく取らないといけない。それしかないからね。

 ――奥様とは東京と岡山と離れ離れになりました。

 竹内 大学の2年間です。普通は4年だけれど、僕はもうあん摩・鍼・灸の免許を取っているから教育原理や教育心理学等の教職課程だけでいい。その後、彼女は盲児施設の指導員として就職した。僕は最初、「函館に来い」と言われて行くつもりだったけど、岡山の母校の先生も親も「戻って来い」と言うてくれたから、岡山へ帰って盲学校へ勤めることになりました。だから僕が岡山へ帰るとすごく近い存在ではあったのです。

 ――結婚に至るまではハードルが高かったと思うのですが。

 竹内 二人とも気持ちが結婚に向かっていったけど、相手の親が反対してね。彼女の父親は町会議員も務めたことがある地域のリーダー的な存在で、町内では頑固者で通っていました。僕は元陸軍士官学校の時代に目が悪くなって盲学校の英語の教師をしていた大先輩に先方へ話をしに行ってもらいました。親からしたらかなりのエースですよ。それから彼女の父親がしばしば足を運んでいた天台宗の名刹・明王院の住職が囲碁を囲みながら「あんたの娘さんは何という心の綺麗なお嬢さんかな。仏さんのような人じゃ。その娘さんの気持ちを、あんたが気持ちよう認めてあげたら、あんたの家族はみんな極楽へ行けること間違いなしじゃ」と言って褒めてくれた。さらに、彼女の父親が信頼している別の人からも「私の知人の娘さんは目が不自由な盲学校の先生の奥さんになって、今は幸せに暮らしとるということじゃ。あんたの娘さんが結婚したいという人はええかげんな人間じゃねえ、立派な先生ということじゃ。結婚を許してあげたらどうなら」と言ってくれた。しかもその知人の娘さんの仲人を務めたのは僕の両親です。それでようやく結婚を認めてくれました。

 ――ご結婚後、人生で一番悲しいこともありましたね。

 竹内 そうです。長男が亡くなったのは応えた。結婚を反対した義父母に元気な孫を抱いてもらいたかったのに。でも義父母には元気な次男の孫を抱いてもらえた。それでもつらかったし、嫁さんも可哀想じゃった。神様は試練を与えるならもっと他におるだろう。目が見えんだけでもええ試練なんじゃと思いました。
 僕は我が儘な人間で自分の幸せだけを求めてきた。だから頑張って教師になった。幸せになりたいと思って突き進んだ。それも長男が夭折した時、消え失せた。その時思ったのです。自分の幸せだけを求めたらあっという間に消える。ところが、次男や長女がいるので家族を養う。学校へ行ったら生徒達が「先生、教えてくれー」と言うてくる。寮母さんが「私も夏休みに研修会へ参加したい」と言うたから教育委員会に掛け合った。「寮母は来んでよろしい」「生活指導の最前線におるんは寮母の先生じゃろう。席がねえんか?」「空いとります」「席が空いとるのに『来んでもええ』というのは、あんたそれでも教育を推進する係、それとも妨害する係か?」と言うたら、寮母の先生達からすごく喜ばれた。人に喜ばれる。人に幸せをあげる。人のために役立つ。その方がよほど幸せ感が大きい。自分の幸せだけを求めたら小さいし崩れるし空虚です。長男が命を捨てて我が儘放題の僕の根性を叩き直してくれた。気付かせてくれた。天国に行った時、「お父さんようやくわかったなー」とあの子が言うてくれると思う。あれが分岐点じゃったと思います。

全盲の舎監長や
教頭を務める

 ――岡山盲学校の教員は退職までずっと同じ職場ですね。

 竹内 そう。岡山県に盲学校は一校しかありませんから。他の県も大体そうで、他県への異動は難しいのです。例えば僕が広島県に行きたくても、広島県で「岡山県に行きたい」と言う教員がいて初めて成り立つ。僕もいっぺん転勤希望を出したけど無理じゃった。

 ――同じ職場に37年。

 竹内 37年間。引っ越しは大変だから嫌だけど、転勤は羨ましかった。だからいかに同じ職場でマンネリ化せずに自分を新鮮に保つ工夫をするのと、慣れたところで楽でええなとぬるま湯に浸かりっぱなしになるのとで、差が大きく出てきます。これは明らかです。

 ――先生は気持ちをどうリフレッシュされましたか?

 竹内 同じ学校でもいろんな仕事があります。だから、「何かあれば必ず私にやらせてください」と言って挑戦しました。僕は高等部の職業教育の教員だけど、「小学部で話をしてくれるか?」「中学部に行ってくれるか?」「点字を教えてくれるか?」と言われる度に積極的に手を挙げました。舎監長も務めました。舎監には泊まりがあって、目の見えない人間が泊まっていて泥棒が来ても役に立たんですよ。前の舎監長が「お前、真面目に働きよるから舎監長やれ」と言うてくれましたが、なにかあったら任命責任は校長に来ます。だからそれまでは全盲の教員が誰もせんかったのを、よう任せてくれたと思います。

 ――管理職に責任を取る覚悟がないと難しいですね。

 竹内 まさにそうです。いい校長に出会えました。

 ――それまで一所懸命働いていたのが認められたからでしょう。

 竹内 それはそうじゃけど、目が見えんという絶対的不利な条件があって、やらせてくれたわけです。今さっき言われた37年間いかにマンネリ化しないで働くかというのは、そういう風にいろんな仕事を探せばなんぼでも同じ学校にもある。自分の気持ちを新しく保つということは意識的に行ないました。それをうまく認めてくれる校長にも出会えたということです。

 ――反感を持つ人もいましたか?

 竹内 そりゃいっぱいいましたよ。「スタンドプレーだ」と言われたり、面白う思わん人の無言の抵抗もいっぱいありました。やりにくかった。でも、そういうことには昔から強いので全然応えず意に介さなかった。

 ――退職前には教頭に就かれました。

 竹内 盲学校の当時の校長が「教頭試験を受けるように」と言ってくれて、珍しい全盲の教頭になりました。

 ――人物眼のある校長ですね。教頭は教員の頭で苦労も多いと思いますが。

 竹内 「このクラスの担任を頼みます」とお願いしたら「何で難しいクラスを私が担当せんといけんのですか? 私は持ちません。自分以外に言うてください」と言われた。自分のことしか考えていない。「あなたは力があるからあのクラスのために働いてください」「僕にはその力はありません。給料が同じなら担当しません」という教員が多くて苦労しました。教師でも自分のことしか考えない。「私に力があるというなら頑張ってみる。力を合わせてええクラスにしてみる」と言うてくれる人が少なくて情けない。

「講演は縁談と一緒」
と言われ取り組む

 ――最初の講演はどこから依頼があったのですか?

 竹内 盲学校の教員をしていた人が山間の小学校の校長に赴任して、「うちの学校でPTAの研修会がある。来てしゃべってもらえんか?」「何を話せばいいですか?」「いや、今までのことをしゃべればええよ」ということになりました。で、話すとなったら内容を纏めないといけん。それで行って話したら「今の原稿を残しとけ。それ捨てるなよ。次の学校でも、また来てもらわなきゃいけんから」と。
 また、盲学校へ「障害者理解について話せる人を派遣して欲しい」と言われる度に僕のところへ回ってきて、教頭になってからも土日は行きました。目が見えればまだしも、見えなくて知らんとこへ行くと玄関がどこにあるかもわからんし、会場まで案内してもらわないといけない。トイレ一つにしても連れていってもらわなきゃいけない。そういう全くわからんところで知らん人の前で話をする。それで生徒やPTAがどっちへ向いておるやらわからん。僕がしゃべり出すと、「ちゃうちゃう、生徒達が座っているのはこっちですよ」と言われたりする。つまり見えないというのはそういうことなのです。だからみんな自分の慣れた学校で慣れた場所で仕事をしたがる。それで結局、僕が行くことが増えた。

 ――竹内先生の話は喜ばれますからね。

 竹内 そうでしょうか。教員も親も話を聴いとる。で、それらの人が「あの先生呼んだらええぞ」と言うてくださる。クチコミがあっという間に広がったから、ある意味で盲学校に迷惑をかけました。校長に「行きすぎですから断りましょうか?」と尋ねたら「断るな! 今まで目の見えん人間に話をしてくれと言うてきたことがあるか? こういうのは縁談と一緒で話があるうちが花。断ったらそのうちどこからも依頼がなくなる」と言うのです。

 ――その校長は立派ですね。

 竹内 そりゃあ立派です。僕も運が良かった。しかも「出張旅費は出さんから主催者からもらいなさい。学校の仕事ではないが、生徒に影響するとても良いことをしとるのじゃから、とにかく出かけていって話しなさい」と肩を押してくれました。今なら「公務員専念義務があるから」ということで難しいと思います。その校長は東京でのあん摩・鍼・灸の国家試験問題作成委員会や職業教育の研究ビジョン・プロジェクトにも、僕を派遣してくれた。

モンゴル等に
盲学校を設立

 ――盲学校を2005年に退職後、講演活動も増えて、『見えないから見えたもの』の本の収入で2011年にモンゴル、2015年にキリギスへ盲学校を設立されましたが。

 竹内 県から給料をもろうとるのに講演に行って謝礼をいただいても、なんとなく使いにくかった。かというて返すわけにもいかないし貯金したら100万円を超えた。さらにJICA(国際協力機構)が国際協力で沖縄へアジアの盲人を集めてきて、日本の按摩を教えて国へ技術を持ち帰ってもらうプロジェクトを始めた。ただ教える人がようけおらんというか、僕はたまたま『病理学概論』という教科書を書いていた。生徒が「医者の本だと表現が難しいが、(素人の)竹内先生が書かれた本はわかりやすい」と言うのです。それ今でも全国で使っています。そういうことで、筑波技術短期大学(現・筑波技術大学)から「沖縄で病理の授業を6時間やって欲しい」と言われて行ったのです。それでみんな真面目に一所懸命勉強する。こういう人達のために100万円を使えばいいのじゃないかと思った。その人らに役に立てる仕事があるかなと思って尋ねたら「学校を設立したらええ」となったわけ。

 ――その授業には通訳がいるのですか?

 竹内 もちろんJICAに英語の通訳がおって、僕が日本語でしゃべったら英語で伝える。それぞれの言語で授業するとおおごとですから。来日するのはみんなエリートなんで英語ができる。途上国の教科書は英語だから、それができんと学べないのです。モンゴルやミャンマー、ネパール、シンガポール、マレーシアでは英語が共通語です。日本ぐらいなもんです。数学から英語から全部日本語にしとるのは。だから日本人は英語を使えなくても学べるわけです。

 ――モンゴルでは学校を設立してフォローはどうしたのですか?

 竹内 モンゴルは簡単なの。日本の盲学校であん摩・鍼・灸の免許を取って、モンゴルに帰って自国で教えている教師がおるわけです。だから生徒もいる。「教室がないからあちこちの学校を借りながら教えている」と言うから、入れ物さえあればいいというので学校を設立しました。

 ――次のキリギスは?

 竹内 視覚障碍者の生活訓練も必要なので、その学校も考えました。

 ――映画『見えないから見えたもの 拝啓 竹内昌彦先生』を視聴し感動しました。

 竹内 僕が入っている岡山の若手の中小企業経営者の集まり「ワンダーシップ」が中心になって映画化実行委員会を立ち上げ、募金が2,000万円まで貯まったので、素人を集めてオーディションをしたら子供から大人まで大勢集まって、映画製作に入りました。みんな面白がってどんどんやって、105分間の映画が2015年に完成したのです。

 ――だいぶ反響があったのでは?

 竹内 ありましたね。募金や出演してくれた方の試写会を岡山市民会館を入れて2回行ないました。出演したのは岡山の素人ばかりなので、「うちのおじさんが出とる」「わしの娘が出とる」ということで、みんなが集まって盛り上がって観てくれた。

 ――ビックネームの友情出演もありましたが。

 竹内 モンゴルの縁で横綱・白鵬関、岡山出身のアスリート森末慎二さんと有森裕子さんにも出演してもらった。

 ――自主上映会も各地で行なっているのですね。

 竹内 当時はもう県内を中心にぐるぐる映して回りました。今でも映画化実行委員会のサイトで自主上映会の開催要項と申請書をアップしています。DVDとBDの2枚組セットも販売しているようです。

ヒカリカナタ基金で
見えない子の目を治す

 ――2016年に「ヒカリカナタ基金」を設立された目的は?

 竹内 最初、モンゴル等に盲学校を建てたのだけど、方針を変えた。盲学校に来た目の見えない子供を眼科の医師が診断して「これは治る」と言うた。治療費さえあれば治せるなら親元の普通の学校で勉強すればええということがわかって、「すぐ治してほしい! お金は後から送るから」と言うて治してもらった。その子は普通に目が見えるようになって、現に親元に帰って勉強しています。

 ――それはモンゴルの話ですか?

 竹内 そう。日本は眼科検診をするし健康保険があるからどんな家庭でも手術して治してくれます。ところが健康保険の制度がない国だと治る目でも放っている。治る目であれば治してやらないと。見えんのはつらいから。だからお金を集めて治す方向にした。学校よりも治療が先、見えるようにするのが先だと。

 ――一人分の治療費はどの程度ですか?

 竹内 日本円で3万円から5万円ほどで治せる手術をしてくれます。カンボジアでは23人を79万円でやってくれました。向こうは良心的じゃ。昨年末に179人までいって、1,000人治そうという目標を立てた。寄付してくれた人には「おかげでこう見えるようになりました」というリーフレットを送っています。

 ――目が見えるようになった本人と親は喜ぶでしょうね。

 竹内 それはもう手を合わして拝まれます。ついて来た家族、親がものすごい喜ぶ。その点、本人、子供は「あっ見えるようになった」という程度です。

点字ブロックの
石碑を建てる

 ――社会福祉法人岡山ライトハウスの活動は?

 竹内 そこの理事長として視覚障害者のために点字の教科書など印刷物を提供したり、視覚障害者の職業の開拓に努めている。免許が取れなかった人には作業所で封筒を作ったり名刺に点字を付けたりしている。

 ――それから岡山が発祥の「点字ブロック」にも積極的に取り組まれていますが。

 竹内 はい。岡山県倉敷市出身の三宅精一さんが白杖をついて横断歩道を歩いている視覚障害者を見て危ないと思い、視覚障害者誘導ブロックを考案し、1967年に岡山県立盲学校そばの国道2号線の横断歩道へ点字ブロック230枚を私費で敷設されました。それが世界に広がっていった。当時はまだ人権が言われる前じゃからすごい偉業です。ワンダーシップの友人に「最初に三宅さんが敷設した岡山市の原尾島交差点へ石碑を建てたい」と言うたら「点字ブロック発祥の地モニュメント設置実行委員会」という組織が立ち上がって、これに地元の小・中学校のPTA、連合町内会長などが加わり、もちろん盲学校も委員会に参加してもらい、3カ月で650万円ほど集まり「点字ブロック世界発祥の地」と記した石碑と石版を計3本建てた。中央の石版には「暗礁を恐れぬ 希望の眼となれ ここから世界へ ここから世界へ」という言葉を刻み、その下へ世界で最初に作られた点字ブロック3枚を塡め込んだ。派手に除幕式をしてね。点字ブロックを初めて渡り始めた3月18日を「点字ブロックの日」にしたら、点字ブロックの歌もステッカーも饅頭も煎餅もできた。点字ブロックを守る“マモちゃん”というゆるキャラも。それから点字ブロックへの陽の当たり方が変わったのです。

 ――色は黄色で健常者にも目立ちますね。

 竹内 最初は色が付いてなくてコンクリートそのものだったのです。それがだんだん色を付けると、「目立つのはいけん。町の美化を損ねる」「地面と同じ色にしよう」と言うから黄色と違うのが時々あります。そういう輩には「あんた、そう言うが、その顔でよう町を歩くなあ」と言うてやりたい。弱視で少し見えている人は、あの黄色を頼りに進むと危なくなくまっすぐ歩ける。だから色が大事なんです。基本は黄色ですやっぱり。

人の喜びを
我が喜びとする

 ――最後に今後のビジョンや提言をお願いします。

 竹内 私はもう74歳です。今思えば学校を10年早う退職すればよかった。海外の視聴覚障碍者支援を60歳から始めて14年経ちましたが、今が64歳ならと思うのです。ヒカリカナタの活動はモンゴルから始めましたが、子供の目を治したのが一番多いのはキルギスです。これまで179人の子供達の目を治した。けれど、キルギスの盲学校を訪問した時のことを思い出して、そこの先生にメッセージを伝えてもらいました。
 「目が見えるようなってよかった。クラスに仲良しの5人がいて、そのうち1人だけ目が見えるようになったら、見える子は良いが、見えなかった難しい目の病気の4人が残ると、5人仲良しの平和なクラスの池に私は大きな石を投げ込んだことになる。もし5人のクラスで4人が見えるようになって、見えないままの子供がたった1人になった時も、クラスの担任にとっては大変な問題です。目が見えるようになった子に『その目を見えない子供のために使おう』と言うのは担任として簡単に言える。が、見えないままの子供に対して掛ける言葉が難しい。そこが長い間、盲学校の教員をしてきて心配するところです」。
 私も70歳の時、目が悪かった知り合いが少し見えるようになった。「良かったなー。おめでとう」と言えたけど一抹の寂しさがあった。だから子供にどう話したらいいか。言えることは「よかったなー。おめでとう」という言葉が言えた時、その子は幸せになれる。良くなった目をただ妬み恨みひがめば、その子に幸せは来ない。人の喜びを自分の喜びとすれば自分に喜びがあった時、人から祝福される。この難しい理屈を障碍のある子供が持てば幸せになれる。キリギスで目が見えることができなかった子供にそのことを伝えられたらと思う。
 いま世界中の賢いはずのリーダーがみんな自分だけ良ければいいという動きをしている。大国ほど我が儘を言う。日本の多くの政治家も平気で嘘をつき、官僚は忖度する。自分の周りだけが繁栄しても地球という船の底に穴が空いたら雲散霧消してしまう。人を踏みつけて人を困らせて1番になっても狙われるし危うい。人を助けて感謝され尊敬されるリーダーのもとでこそ、安心できる生活があるわけです。そういう人に喜びを与えることで自分の喜びが得られる生き方を広めたい。
 日本の政府は政府開発援助(OECD)で「この橋、誰が造ったん?」と尋ねても誰も「知らん」と言われる橋や道路を提供するよりも「この目は日本人が治してくれた」というのは個々に人達にとって一生忘れない。日本の国際貢献が安全保障に繋がると思うとります。僕は目が見えないのもあるけど、もし総理大臣なら「例えばミャンマーの目の見えない人の目は日本で全部治してあげます」と言うけどな。
 今年はNPO法人ヒカリカナタに「認定」を付けて一段階上の法人にしていきたい。大勢の人達から寄付を集められるようになったら子供の目だけでなく大人やお年寄りの白内障も治せる。今、関係者だけでネパールやカンボジア、ミャンマー等へ行っていますが、公募してツアーを組んで、できるだけ多くの人に知ってもらい感動を味わって欲しい。その活動報告会を岡山市民会館や岡山シンフォニーホールを満席にして開催できた時、日本も世界も安心できる社会になると思います。

プロフィール

竹内昌彦(たけうち・まさひこ)氏

1945年生まれ。岡山県出身。幼少期に網膜剥離により失明、全盲となる。東京教育大学(現・筑波大学)盲学校教員養成課程卒業。岡山県立盲学校の元教頭。在職中から講演活動を行ない、その数は29年間で3,000回以上、聴衆は延べ40万人を超える。途上国の視覚障碍者のため2011年にモンゴル、2015年にキルギスに盲学校を設立。2017年にNPO法人ヒカリカナタ基金を設立、理事長を務める。その他、社会福祉法人岡山県視覚障害者協会副会長、社会福祉法人岡山ライトハウス理事長、点字ブロックを守る会代表を務める。福武哲彦教育賞、読売福祉文化賞、ヤマト福祉財団小倉昌男賞、塙保己一賞大賞、岡山県三木記念賞、ソロプチミスト日本財団千嘉代子賞等受賞。著書に『その苦しみは続かない 盲目の先生 命の授業』(朝日新聞出版)等がある。

鄙のまれびと ウィークリー紙「竹内昌彦」さん PDF版をみる

関連記事