江戸時代の不朽の名品
櫛・かんざしを普及

  1. 鄙のまれびとQ&A

 都内でも有数の山紫水明の地、青梅市澤乃井。当地で23代続く酒蔵の澤乃井小澤酒造は多摩川の対岸で櫛かんざし美術館を併設する。21代目の小澤恒夫氏が塊集家の岡崎智予さんから3,000点の櫛・かんざしを購入したことにより美術館を建てた。澤乃井ままごと屋専務で櫛かんざし美術館館長の小澤徳郎氏から一押しの尾形光琳作「鷲紋様蒔絵櫛」や作者不詳「桜花紋様蒔絵櫛」等の魅力、さらに青梅市観光協会会長として青梅市の観光について存分に聞いた。

■ゲスト 
 澤乃井櫛かんざし美術館館長・青梅市観光協会会長 小澤徳郎氏

■インタビュアー 
 旅するライター 山ノ堀正道

台風19号で増水し
御岳小橋が流される

 ――御岳小橋が半分以上流されていて自然の驚異を目の当たりにしました。

 小澤 今回の台風19号は御岳で633ミリというかつてないほどの予想を上回る大雨でした。御岳小橋は3年前に事故が起き、その時から一方通行が続いていて11月の完成予定を前に水位が上昇し上流から来た土石流か何かが橋にぶつかって太いワイヤーロープとともに橋を2/3持っていきました。上流の小河内ダムも大雨の前に全部放流しておけば慌てることもなかったのでしょうが、2/3は残しておかないといけないのだそうです。

 ――ダムは老朽化による堆砂の問題と都民の水瓶として確保しておかざるを得ないわけですね。

 小澤 そうです。だから難しい。大雨プラスダムが増水して放流したためにすごい水量になりました。特に青梅よりも手前はV字谷になっているので川幅の関係で浅く広くとならないので増水すると水かさがぐっと上がって巨大な流木がぶつかり橋を持っていった可能性もあります。

 ――普段は川面の遥か上にある遊歩道も影響が出たとか?

 小澤 漂流物が引っかかったり、大きな穴が空いたり、流されて道がなくなった吉野街道のり、相当ひどいことになりました。

 ――もうすぐ紅葉ですが、観光はどうですか?

 小澤 今年のライトアップは無理かなと思っていたら東京都の多摩環境事務所が御岳園地や対岸の石橋を急ピッチで復旧してくれたので11月9日に間に合わせることができました。両岸の清掃等はボランティアの協力が大きかったです。紅葉はこれから見頃を迎えますので観光客の皆さんにどんどん足を運んでいただきたいと思います。

酒造りに適した
沢井の水と気候

 ――小澤さんは老舗の酒蔵「澤乃井」の小澤酒造の次男のお生まれですが、酒蔵で過ごした子供時代の思い出があればお願いします。

 小澤 私が子供の頃は新潟県から杜氏さんが半年間、住み込みでお酒造りをしていました。秋に米を収穫して農作業が終わるとこちらへきて酒造りを行ない、春になると新潟へ帰っていきました。小学生の頃、冬に酒蔵へ遊びに行くと、「徳ちゃん徳ちゃん、飲めよ」と言われて飲むと真っ赤になったことを覚えています。今、酒造りは社員が行なっていて杜氏はいませんし、子供に飲ませたりすることもなくなりました。

 ――当時は木桶だったのですか?

 小澤 木桶も残っていたかもしれません。今は意図的に木桶を復活させているようです。

 ――日本酒は等級制が廃止されてから蔵元のやる気と旨味が増したように思いますが。

 小澤 等級制の時は二級、一級、特級でした。私は酒造りに直接タッチしていませんが、澤乃井では大吟醸、純米大吟醸、純米吟醸、特別純米、純米大辛口、純米本地酒、本醸造大辛口、生酛純米吟醸、木桶仕込、純米、旬の酒として夏季限定の生酒、秋口は冷やおろし、この時期なら新酒の絞りたてなどがあります。澤乃井はうちの親父の時代に甘口から辛口に切り替えたと聞いています。昔はご飯に一汁一菜程度だったものが、欧米流の焼き肉だハンバーグだと味も油も濃い食生活になると、すっきりした吟醸系のお酒の方が合うし美味しいと言われるようになったからです。もちろん甘口のファンがいるので甘口を残して、「澤乃井には甘口と辛口の二つあります」と言うのが普通だと思うのですが、うちの親父ははっきりと「甘口をやめて全部辛口にした」と言っていました。

 ――英断ですね。

 小澤 そうです。甘口が好きな人が離れるかもしれないというすごいリスクがありながら、先を読んで澤乃井イコール辛口というイメージが植え付けようとしたわけです。それを消費者にいち早く知っていただくには、甘口を置いておいて「辛口が出ました」ではインパクトがないし、両方飲んだら何でもありでよくわからなるので、「甘口を造りません、澤乃井は辛口だけです」という大決断をしました。それが功を奏して爆発的に売れました。

 ――販路も広がったのですね。

 小澤 広がりました。「辛口の澤乃井」というイメージも定着しました。

 ――甘口を辛口にするには?

 小澤 日本酒は2回発酵させて造ります。最初に発酵した時に炭水化物が酵母菌によって糖分に変わります。次に酵母の力でアルコールに発酵を行ないます。さらに置いておけばどんどんアルコール度が増して、最終的には自分で造り出したアルコールによって死んでしまいます。

 ――落とし所を決めるわけですね。

 小澤 糖分がうんとあるうちに酵母を発酵させないようにして止めると割に甘口の酒ができる。もっともっと置いておいてさらに糖分を食べさせてアルコール度を高めると辛口になります。アルコールはからいですから。あるいは醸造用アルコールを添加する普通酒、本醸造酒、吟醸酒、大吟醸酒に対してアルコールを一切添加しない純米酒があります。澤乃井は甘口から辛口へと味の改革をしたと聞いています。

 ――小澤酒造さんは23代続く東京で最も歴史のある酒蔵と聞いていますが、「家訓」のようなものはあるのですか?

 小澤 酒造りは神事ですから1日の始まりは神棚の前で二礼二拍手一礼から始まります。親父や爺さんには「人に笑われるようなことはするな。家が笑われるだけでなく地域が笑われる」と言われました。この沢井という集落は東の福島家と西の小澤家が順番に名主を務めてきたようです。小澤には曾祖父の多平という偉い人がいたと聞いています。先祖代々続いている家なので一攫千金と違って歴史や伝統、事業や家系を連綿と守りながら営んできました。親父が美術館を建てたのも観光に良かれと思ってです。

 ――素晴らしい自然環境ですね。今でも酒造りに井戸水を使っているとか?

 小澤 山があり川があり緑があり澄んだ空気があり綺麗な水があるのはここならではです。「沢井」という地名は水が豊富ということです。酒蔵見学に行くとわかるのですが、裏に岩盤をくり抜いて掘った横井戸が2本に分かれていて、そこに出てきた水を仕込み水としてお酒を造っています。その水は土の下を掘って出てきた地下水ではないのと、ルーツをたどるとかなり昔に雨として降った水がこの上の高い山に浸透して出てきています。だから雨が1カ月降らなくても毎日大雨が降ってもこの水の量が変わりません。ということは短いサイクルではなくて長い年月をかけて井戸に溜まった水です。地下水ではなくて浸透水です。したがって水が濁ったりしていなくて岩清水です。ものすごい自然のミネラルが含まれています。お酒は水と米と気候とよく言われます。この辺は米は作っていませんが、米は買ってくればいいのです。買って持って来られない気候も大事です。昔から有名な酒蔵は京都の伏見や兵庫の灘などと言われていますが、冬にぐっと冷える場所です。

玉堂美術館に
300点を所蔵

 ――日本画壇の巨匠・川合玉堂翁のお孫さんが、お母様の小澤萬里子さんですね。晩年、病に臥せっていた玉堂翁の思い出を西多摩経済新聞のインタビューで以下のように述べておられます。「昭和32年2月、心臓発作を起こし、自宅で医師の往診を受けながら病臥(びょうが)していた。初めのうちは、再起してまた絵を描きたいと思っているのが察せられたが、6月に入ると実に淡々として、静かな境地に達したように見えた。いよいよ、となったころ、枕頭(ちんとう)には絶筆となった『船出』が立て掛けてあった。某日、玉堂は周りの者に『この絵はお世話になったK医師に差し上げたいが、落款がまだだから起こしておくれ』と言い、2、3人で助け起こし落款を入れた所へ、当のK医師が入室され、驚いて『何をなさっているんです。落款?とんでもない。絶対安静ですよ』としかられた。玉堂は慌てず騒がず、いつもの笑顔で『ああ落款(楽観)もできないなんて、私もいよいよ終わりだな』と得意のジョーク。多分、そのころは何の未練もなく『あの世へ行っても描くぞ』と楽しみにしていたのではないかとさえ思えた。本当に素晴らしい一生でした」と。玉堂翁とはどんな方ですか?

 小澤 玉堂は昭和19年から昭和32年に亡くなるまでの10数年を青梅市御岳で過ごしました。私が1歳の頃まで存命だったようです。写生をして絵を描くのだけども、河原や湖のほとりでスケッチして絵を描いたり人物を前に描いたりではなくて、毎日のように山を歩いて観察をして動物や鳥や植物やその日の景色だとか花が咲いてる様子や川で釣りをしている人だとかを見たりところどころで止まってスケッチしてくるのです。それを家に持ち帰って自分の部屋の中でイメージして、川も見ているし釣り人も見ているしそこに生えている松も見ているし岩の様子も川の流れも雲の様子も全部頭の中にあって、あそこの川の流れはこうだった、桜がちょうど咲いていて、そこに筏を流している人がいた、それらをまるで写生するように描きます。それがどこにあるかといったらないのです。自分の描いたスケッチブックがたくさん残っています。横山大観のように迫力やインパクトはないが、絵の中には人や馬がいて小屋にはほのかに灯りがあって生活感を出している。温かみのある真面目な画風です。

  ――玉堂美術館の概要は?

 小澤 玉堂が愛してやまなかった御岳渓谷に美術館を建てようという声が上がり、香淳皇后をはじめ諸団体、地元有志、全国の玉堂ファンより多額の寄付が集まり、没後4年の昭和36年4月に数奇屋建築の名手・吉田五十八氏の設計で竣工しました。玉堂が15歳頃の写生から84歳の絶筆まで約300点の所蔵があります。お袋が館長を務め、奥多摩の自然に合わせて年7回ほど展示替えしています。

 ――両家のご縁は?

 小澤 昭和19年に疎開してきた川合玉堂には三男一女がいて、次男の川合修二の長女がお袋でした。当時としては本当に珍しいというか造り酒屋は酒蔵同士で結婚するのが習わしでした。同じ西多摩の田村酒造場さんとも親戚です。その時代にあえて芸術家の娘をもらうなんてことになり前代未聞で大変なことになりました。

 ――それはご両親が自主的ですか?

 小澤 自主的です。恋愛だったかどうかは聞いていませんが。

岡崎智予さんの塊集を基に
櫛かんざし美術館を開館

 ――高名な日本画家のお孫さんと結婚して塊集家の岡崎智予さんのコレクションを基に「澤乃井櫛かんざし美術館」を開館したお父様の小澤恒夫さんも芸術家肌ですか?

 小澤 うちの親父は小さい骨董品を買い集めるのが趣味でした。どこかへ旅行する時も必ず骨董屋へ寄って古いものを集めていた時に八ヶ岳仙人と呼ばれる塩野谷博山さん(青梅市出身の芸術家)という人の紹介で岡崎さんと知り合い、蒔絵の櫛やビラビラのすごいかんざしの図録を見て一目惚れしました。岡崎さんは当時塊集していた3,000点をそのまま纏めて買ってくれる人を探していました。

 ――散逸を避けたかったのですね。

 小澤 そう。散逸させたくなかった。もしみんなが「私、この江戸ギヤマンを頂戴」「私、名取河の櫛がいい」と言って1点ずつ持っていくと3,000点の塊としての価値がなくなります。コレクションは自分の手から離れるけど、別の人が3,000点をそっくり大事に持っていてくれるのが希望でした。親父は「わかった」と言って3,000点をまとめて買って、後から美術館を建てました。

 ――購入はいつ頃ですか?

 小澤 平成6、7年に購入して、平成10年に竣工しました。

 ――当時はバブルはじけて緩やかな後退局面でしたね。

 小澤 まだ景気が良くて、澤乃井もままごと屋も半年前から予約がいっぱいで断るのも大変な状況で東京から観光バスもひっきりなしでした。売上げも利益も上がっていたので投資だと思います。澤乃井とままごと屋に来て、玉堂美術館は少し離れているので他にないかとなったときに櫛かんざし美術館はちょうど良かったわけです。

 ――小澤さんが櫛かんざし美術館に携わったのは?          

 小澤 最初は櫛もかんざしも門外漢でしたが、岡崎さんもお元気でしたし橋本澄子先生(澤乃井 櫛かんざし美術館顧問・東京国立博物館名誉館員・東京家政大学元教授)からも毎日のように教えていただき、年代や材質等がわかるようになりました。平成10年の開館と同時に副館長、平成15年に館長を務めています。

 ――芝木好子著『光琳の櫛』のモデルになったのが岡崎さんで、文中に「櫛や簪(かんざし)に魅せられ導かれ、時には狂わされてゆく女の物語」とありますが、それだけ当時の女性にとって櫛やかんざしは特別な存在だったのですか?

 小澤 江戸時代の装飾品で男性から女性へプレゼントするといったら櫛やかんざしぐらいしかありませんでした。すごい高価で今のダイヤモンドぐらいの価値がありました。

 ――かんざしのモチーフは「鳥籠」ですか?

 小澤 鳥籠飾りというのがあります。それは結婚式で花嫁が刺すかんざしです。飾りに鳥かごがあり中に鳥がいて「籠の鳥」と言います。花嫁を見立てています。切ない感じがしますが。

 ――「不貞を働きません」という意味でしょうか?

 小澤 現代人は鳥籠と聞くと嫌な顔をしますが、当時は当たり前で結婚したらその家の人になり実家へ帰れませんでした。嫁いで幸せになるためには婚家でみんなから可愛がられ大事にされいじめられて逃げ出さないようにという意味です。今のように毎日でも実家へ帰る感覚と違って自由がない時代の話です。結婚式で初めて相手の顔を見るということも珍しくありませんでした。

 ――私の祖父は広島県の福山で、愛媛県の松山から嫁に来た祖母の顔を祝言の時初めて見たそうです。

 小澤 そうでしょ。そういう家同士の結婚だったのです。

 ――所蔵品は3,000点から増やされた?

 小澤 美術館の建設で買い増して今5,000点ほどあります。同じものを飾りっぱなしというわけにはいかないので四季の移り変わりごとに入れ替えるので4倍必要です。

 ――館長一押しの櫛はどれですか?

 小澤 尾形光琳作の「鷲紋様蒔絵櫛」に勝るものはないでしょう。重要文化財クラスの逸品だと思います。法橋光琳の印があります。

 ――絵師の光琳作の櫛は数が少ないのでは?

 小澤 1枚しかありません。光琳は京都の呉服商「雁金屋」の次男でやんちゃでした。いろんな不祥事をしでかして江戸へ飛ばされ食うや食わずで困っていた時に冬木家に居候して、だん夫人がよくしてくれたわけです。何年かして京都へ帰る時、だん夫人に感謝の印としてお礼をしなければいけない。男性から女性に対して贈るものといったら櫛やかんざしで、自分で作ってプレゼントしようと鼈甲に金蒔絵の櫛と小袖を作りました。

 ――外の美術館の意匠は?

 小澤 「桜花紋様蒔絵櫛」です。この美術館を建てる時にシンボルマークとなる櫛はどれかとなった時に岡崎さんが「光琳の櫛は目立ちたがり屋ではないのでパッと映えない。看板とか表に出るものは目立ちたがり屋の櫛がいいでしょう。私はこれを推薦します」とおっしゃいました。桜花紋様蒔絵櫛は形が丸く大胆で図案化したデザインです。背中にも桜の紋様があるのです。岡崎さんがまだコレクションしていた時代に岡崎さんがドイツで展覧会をして一番人気が桜花紋様蒔絵櫛でした。ただ銘がなく作者不詳です。

櫛・かんざしを保管し
後世に感動を伝える

 ――小澤館長は青梅市観光協会会長でもあります。青梅の魅力や観光スポットを教えていただけませんか?

 小澤 青梅へたくさんの観光客に来ていただいて市の観光が盛り上がり産業を発展させるサポートを行なう役割です。青梅市には吉野梅郷、塩船観音寺、岩蔵温泉郷、御岳山、御岳渓谷、青梅宿の各エリアがあり、それら全体を統括しています。

 ――市から予算は出るのですか?

 小澤 出るのですが、基本的には会員の会費等で成り立っています。花火大会や産業観光まつりを主催しています。

 ――青梅市は全国で唯一「梅」の字が付く自治体で、文豪・吉川英治が愛した吉野梅郷はウメ輪紋ウイルスの感染で4万本超を伐採されたとか?

 小澤 ウメ輪紋ウイルスという伝染病が発生しました。10本のうち1本でも罹っていると全伐というルールがあって、農家も観光も大打撃でした。再植栽が認められて3年経って本数は元通りになりましたが、まだ苗木でもう5年や10年はかかるのではないでしょうか? ここは桜でなく梅の名所です。

 ――花見の始まりは奈良時代で「梅」と言われています。『万葉集』で梅を詠んだ歌が110首で桜の43首の倍以上でした。それが平安時代に桜ブームが到来し、『古今和歌集』で梅18首に対して桜70首となり逆転したようです。

 小澤 桜は殆どが人工的に交配したソメイヨシノですが、梅は多くの種類があります。松竹梅というように梅の方が屋敷の中で植えられたのかもしれませんね。

 ――石川県輪島漆芸美術館で「櫛かんざしコレクションについて」のテーマで講演されていますが、講演は多いのですか?

 小澤 時々やっています。櫛やかんざしの歴史や材質などです。他に女性の装飾品・装身具の紅板、箱迫(はこせこ)、女性の煙草入れなどについても話します。

 ――櫛かんざし美術館の来場者は?

 小澤 昨年は約2万人でした。最盛期が5万5000人だったので再び5万人の方々に来場いただきたいと思っています。

 ――今後の夢や目標をお願いします。

 小澤 ここ西青梅には「青梅きもの博物館」「吉川英治記念館」「櫛かんざし美術館」「玉堂美術館」「たましん御岳美術館」の5館が並んでいて「ミュージアムロード」という名前を付け、「青梅ミュージアム協議会」を発足していました。しかし残念ながら吉川英治記念館が休館、たましん御岳美術館が閉館(国立市の「たましん歴史・美術館」に吸収)したので解散しました。また、多くの方々に美術館へ来ていただきたいと念願しています。当館のアピールポイントは日本人の先祖が使っていた櫛やかんざしを見て知っていただこうということで利潤追求が目的ではなくとても意義深いわけです。私達はこれを大切に保管して後世に感動を伝えていく。それが青梅の観光にも役立てればと思います。

プロフィール

小澤徳郎(おざわ・とくろう)氏

昭和31年5月生まれ。昭和53年、明星大学卒業。平成4年、株式会社澤乃井ままごと屋専務取締役。平成10年、澤乃井櫛かんざし美術館開館と同時に副館長。平成15年、同館長。平成26年、青梅市観光協会会長。

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