「落としても壊れない時計」から始まる 進化が止まったらG-SHOCKではない

  1. 鄙のまれびとQ&A
鄙のまれびと 4

 世界で1億本以上も販売されているG-SHOCKを開発したのは、カシオ計算機(株)の伊部菊雄氏だ。「落としても壊れない時計」の実験を繰り返す中で「5段階衝撃吸収構造」と「点接触のモジュール浮遊構造」を思いつき、商品化に漕ぎ着けた。G-SHOCKは落としても壊れない時計が高じて「空の覇者」「陸の王者」「海の強者」と言われ、いまも最新のテクノロジーを導入、進化し続けている。

■ゲスト 
 カシオ計算機株式会社アドバイザリー・プランナー 伊部菊雄 氏

■インタビュアー 
 旅するライター 山ノ堀正道

公園で女の子のまりつきを見て
点接触のモジュール浮遊構造を考案

 ――カシオのG-SHOCKは「2017年8月末に累計出荷1億本&生誕35周年」とありました。

 伊部 到達したのは一昨年の秋です。間違いありません。

 ――社内で「落としても壊れない時計」を提案されたきっかけは?

 伊部 高校の入学祝いで初めて父親から時計を買ってもらい、それをずっと大事に使っていたのですが、社内の廊下で人とぶつかったときに床に落ちてバラバラに壊れてしまいました。時計は精密機器のため落とすと壊れるというのが常識でした。それを実体験できてショックではあったものの感動し、「落としても壊れない丈夫な時計」というたった一行の提案書を出しました。私は設計の部署ですから1か月に1回提案書を出す必要があり、その月は何を出そうかなと思ったときにたまたま頭に残っていたわけです。

 ――カシオは元々は計算機の会社で社名がカシオ計算機ですね。

CASIO 羽村技術センター

 伊部 私は専門が機械工学でカシオがデジタル時計を始めて数年後に入社しました。それ以来、時計の薄型の構造を考える仕事の担当でした。丈夫な時計を誰にはめていただくのかと思ったときに、羽村技術センターの目の前で5人の方が削岩機やロードローラーを使って道路工事を行なっていて、その誰もが時計をしていませんでした。それは壊れるからでしょうが、はめていないと不便なので、ターゲットはこの方達だなと思いました。

 ――実験を3階のトイレで実施されるのですね。

 伊部 薄型の時代なので目立たないところで実験しようと思い、たまたま私が設計をしていた3階のトイレの窓から落とす実験を開始して、最終的にオッケーになったのが野球のボールに近いサイズです。もし私が基礎実験を経てからであれば提案書は出していないと思います。このサイズを腕時計にまで小さくするのは現実的ではないからです。

 ――その提案が承認されてからだいぶご苦労があったのですか?

 伊部 私としてはたった一行の提案書を出して、それを当時の役員の方々が審議して開発にGOサインを出してくれたということで、できなかったら会社を辞めざるを得ないだろうというところまで追い詰められました。全く新しい構造が必要だということで考えたのが「5段階衝撃吸収構造」です。これを考案することによって野球のボールが劇的に小さくなりました。しかし、電子部品がたった一つだけ壊れるという現象が起こりました。液晶が割れて強くすると電子部品を繋いでいるコイルが切れる。コイルを強くすると水晶が割れる、エンドレスの実験です。
 今でこそG-SHOCKのあのサイズは認められていますが、当時からすると薄い時計の倍ぐらいの厚さがあります。仮にこれ以上大きくすると商品化はできないだろうということで、この大きさを最終ゴールとしました。

 ――点接触のモジュール浮遊構造はどのようにして生み出されたのですか?

G-SHOCK心臓部をガードする5段階衝撃吸収構造

 伊部 1日24時間、寝ている時間も使って1週間考える、夢で解決策を探すということをしました。幼稚園時代に先生から「見たい夢があったら画用紙に描いて枕の下に入れて寝るといい」と教えてもらったことを思い出したわけです。一方で実験のパレットを月曜日の夜に持ち帰り日曜日の朝を迎えて、日曜日に休日出勤して片付けをして、月曜日に会社にお詫びを入れ、火曜日に辞表を提出という計画を立てました。もう解決策が出ないと自分で踏んでいたわけです。
 それで、木曜日ダメ、金曜日ダメ、土曜日ダメ、日曜日の朝に目を覚ましたときも解決策がないので予定通り休日出勤をして、社員食堂がやっていないので外に食べに行きました。会社の隣の公園のベンチでぼーっとしていたら女の子がまりつきをしていました。これをじーっと見ているときに突然、裸電球が光り、ボールの中に一番大事なエンジン部分が浮いているように見えて、劇的な解決策、点接触のモジュール浮遊構造が頭の中に浮かんだわけです。エンジン部分を宙吊りに近い状態にしておけば、5段階で衝撃を吸収した後、点接触になって衝撃を大幅に吸収する構造が浮かんだということです。
 これが昼食後に浮かび、ルンルン気分でスキップして帰宅し、午後会社に戻って実験してないのです。多分確信だったのだろうと思います。それで、月曜日に実験を行なったら案の定うまくいったという流れです。

アイスホッケーのスティックで叩いても
トラックで轢いても壊れないG-SHOCK

 ――「G-SHOCK」のネーミングは?

 伊部 ニュートンではないですが、私がトイレから落とすのを見ていたデザイナーが、重力、Gravity(グラビティー)の頭文字の「G」をつけました。今から思うとネーミングが非常にフィットしています。当時の私はそれどころではなくて、とにかく開発が進まないわけです。なにせ基礎実験を行なっていないで提案書を出したというのが自分の中ではものすごいプレッシャーで、そこを正直に伝えられませんでした。伝えた途端に「えっまさか基礎実験しないで提案書出したの?」となるからです。

 ――薄型が主流の中で厚い頑丈な時計G-SHOCKをどう販売していかれましたか?

 伊部 日本で売れなくてアメリカで発売することになりました。アメリカの場合、丈夫や綺麗という感性的な言葉をなかなか理解していただけません。強いのであればどれだけ強いのかということで、独自のコマーシャルを作りました。アイスホッケーのスティックで叩くという。事前に私にこのコマーシャルの話があったら、確実にダメと言いました。実使用でこんな衝撃はないからです。結果報告として私に「こういうのを流したから」と連絡がありました。大きな問題にならなければいいがと思っていたところ、コマーシャルを見たアメリカの人たちが誇大広告ではないかということで、当時視聴者の疑問に答える人気番組の中でアイスホッケーのスティックで叩いた後、巨大トラックに轢かせる実験を行ないOKになりました。

 ――壊れなかったのですか?

 伊部 壊れませんでした。テレビコマーシャルで流すよりも、人気番組で実証実験を行ない本当だったということで効果覿面でした。当時外でハードに働く消防士や警察官、スケートボーダー達が丈夫な時計ということで次々と購入されました。これはもう私の完全なる想定外の強さでした。ただアメリカでヒットを飛ばしながら日本ではなかなか売れなかった。それが90年代に入って若者のファッションがダボダボストリートファッションに変わったときにアメリカで流行ってるG-SHOCKということで輸入雑貨店がスケートボード、ボーダーファッションに合う時計ということで扱ってくださいました。当時G-SHOCKはアメリカの時計と思われた方がかなりいらっしゃったらしい。それはもう逆輸入です。日本では発売してから10年間、非常に苦労したと思います。苦労したというのは販売店の方、それと広報やマーケティング、営業とかです。

 ――アメリカでも日本でも売れるようになると生産が追いつかないのではないですか?

 伊部 G-SHOCKで行列ができたと聞きました。工場を24時間フル稼働していても生産が追いつかない。店頭に並ばない。言われたのは「生産を意図的に絞っているのではないか?」と。当時社員は「お客さんに届かないG-SHOCKを買ってはいけない」というお触れが出たぐらいです。
 結局全然間に合わない状態でしたが、当時はファッションとしての要素が強かったので時間とともに下降線をたどりました。とても大きな在庫です。しかし会社の方針として叩き売りはしない、廃棄するという判断でありがたかったです。

SHOCK THE WORLDでは
その国の母国語でスピーチ

 ――G-SHOCKのファンに向けてイベントを展開しているようですね。

 伊部 2008年からSHOCK THE WORLD という新しいプロモーションを本社サイドで考えてG-SHOCKの本質を伝えることと、G-SHOCKファンの各音楽やファッション、スポーツのトップクラスの人にG-SHOCKを語ってもらうイベントを続けています。
 海外の新規の国には私が出向いて20分間ぐらい話をしてメディアの人に記事にしてもらう活動を行なっています。その際、私が相当努力しないと伝わらないだろうと考え「Never never never give up」、通訳を介するのではなくてその国の母国語を使って自分の言葉でスピーチしています。

 ――これまで何か国くらいで実施されましたか?

 伊部 三十数カ国を訪ねています。私は言語能力がないので20分のスピーチだけで、コミュニケーションを取れるまで行きません。その国の人達に理解していただくまで受験勉強のように取り組んで数か月かかります。1回喋るとそれが全部頭から出ていきます。そうしないと次の言語が入ってこないのです。

 ――それでもそのチャレンジされるところがすごいですね

 伊部 訪ねても数カ国だろうと軽く考えていました。今一番困っているのが、ネットの驚異です。私がその国の母国語でスピーチした後、メディアからの取材を通訳を介して受けるときに「伊部さん、今回のうちの言語はどうでしたか?」と必ず質問されます。その際、この言語はどうしてもダメだと諦めたとするとおそらく「伊部さんここで初めて通訳を介しましたね」「手抜きしましたか?」というような内容がネットに出て大変失礼なことになってしまうだろうと心配して自分としては常に全力投球しています。

 ――どの言葉が一番ご苦労なさいましたか?

サンパウロでのイベント

 伊部 やはり時間も全て一番苦労するのがアラビア語やクメール語、ミャンマー語などです。その言語を読めるようになるというと私の能力からすると1年以上かかります。そんな時間をかけていられないので、それらを1回ローマ字変換して自分で学習する。それと自分の場合、2時間だけネイティブの人の授業を2時間受けた後、翻訳ソフトを駆使して猛勉強しています。
 それでも一番苦労したのは、カンボジアのクメール語の先生が見つからなかったことです。需要がないのかもしれません。ものすごい時間かかってようやく見つけたのが留学生でした。私と年齢差がすごいあってたぶん私に気を使っていたのでしょう。私が「この発音ができていない」と思っていても留学生の先生が「オッケー、オッケー」って言うのです。それでものすごい不安があってカンボジアに行ったときに現地の人にスピーチを聞いてもらったら案の定「半分伝わっていません」と言われて、それから完全徹夜で、朝もう1回チェックしてもらったらオッケーで安堵しました。

 ――ということはカンボジアにもこのG-SHOCKが普及しているということですね?

 伊部 東南アジアの諸国で普及しています。アフリカを除いてほとんどの国に出荷しています。

 ――では訪問されていない国にも販売しているわけですね。

 伊部 ただ出荷していても、その国の経済状況で売れる売れないの問題があります。準備が整ったときに私が行く。東南アジアはようやく買えるだけの力がついてきました。

最新のテクノロジーを搭載
進化を止めないG-SHOCK

 ――G-SHOCKはデジタルに針が入って、ぐっと高級感が増した気がします。

 伊部 一番はカラー化です。時計自体もバンドもケースも色がつけられる。そのあとにデジタルだけではなくて針タイプや、メタルも出てバリエーションが広がりました。

 ――ケースやバンドを作る技術がすごく難しくないですか?

 伊部 当時プラスティックが時計にそれほど使われていませんでした。では材質を何にしようかと考えたときにプラスティックってすごくいっぱいあります。ある文献を読んでいたら、海外でウレタンが医療器具に使われていると書いてありました。

 ――体に優しいということですね?

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 伊部 そうです。ただし複雑形状はできないと書いてありました。私は、それはある程度大丈夫だろうと、人体に優しいのでウレタンを選びました。加工メーカーさんにお願いしたところ、しばらくしてから段ボールいっぱい不良品が私のところへ送られてきて「材料か形状を変えてください。そうでなければできません」という手紙が同封されていました。それに私は「材料は変えられません。人体への優しさ最優先。形状は丈夫、タフのイメージを損なうため、変えることができません」と回答いたしました。
 加工メーカーさんが断ろうと思っているところへ通って、私が「頑張りましょう」といってモチベーションを上げ続けると、「もうやるしかない」ということになってくださった。これはほんとにその人たちのお力がすべてで本当にご苦労されました。ずっと長く通い詰めるといい人間関係が構築できた。そうなるともう一体感ですね。絶対これは作ってあげるよ。そこはすごく大きかったですね。

 ――「空の覇者」「陸の王者」「海の強者」とはとてもいいフレーズだと思いました。

 伊部 G-SHOCKは過酷なシーンに対応していますから、それに耐えうるにはどうしたらいいのかということで産みの苦しみがあって、結果的にいい商品になっていると思います。

 ――今も伊部さんはG-SHOCKのトータルプロデューサーですか?

 伊部 私は最初のG-SHOCKを担当して、そのあと10年以上経ってフルメタルのG-SHOCK、最近金無垢のG-SHOCKとか、そういうポイントポイントのところをメンバーを集めて取り組んでいます。あとは若い人たちが担っています。

 ――「丈夫と時代に合わせて進化、メディアの取材が36年愛されてきた理由」と書いてありましたが、どんな感じの進化ですか?

 伊部 常に最新のテクノロジーをG-SHOCKに搭載しています。ソーラーだったりセンサーだったりGPSだったりBluetoothだったり。と同時に形や色などと組み合わさって進化し続けています。進化が止まったらもうG-SHOCKではない。メディアの方々も定期的に商品を扱ってくださっているのでロングラン化に繋がっていると思います。それとファンやマニアの方々に支えられています。そういう意味ではG-SHOCKは通常の世の中にある商品と違ってものすごい多くの人たちが関わっている。そういう総合力で成り立っているという気がします。

企画提案書は10文字以内
伝えたいことは25文字以内

 ――社内の後進に「伝えたいことは25文字以内に収めなさい」と指導されていますね

 伊部 よく「アイデアが出ない」「アイデアを出すにはどうしたらいいんですか?」と尋ねられます。最初に物事を考えるときに10文字以内だと贅肉をすべて取らないとなりません。その10文字は、いつの時代でも通じる可能性があります。例えば「落としても壊れない」も、運送業界であれば「運べないものはない」も通じますね。そのように自分の業界で通じる10文字以内で考えるとそれはいつの時代にも通じる普遍的な可能性があるのです。その10文字をベースにして「○○で落として壊れない」とか「○○で運べないものはない」の○○が開発課題になってくる。それを25文字以内で表現できれば非常にいいテーマの可能性がある。ということで自分は10文字、25文字がベースと思っています。ただこれは難しいです。行きづまったりして、常識から斬新なものを出したいといったときは非常に効果があるということで、いろいろなところでお伝えしています。

 ――雑誌の編集も、文章をカンナで削るように薄ーく薄ーくして、できるだけわかりやすくコンパクトに知らせます。

 伊部 雑誌もそうですが、テレビのテロップの良さは不特定多数の子供さんやお年寄りにわかりやすく、一目で入ってくる文章で、おそらく25文字以内ででき上がっているという気がします。経験上、頭に入る文字は大体25文字以内ではないかと思います。だから新聞の見出しや電車のつり革広告のコピーをすごく参考にします。ただ我々はモノの開発をしなければならないので、大きな壁を乗り越える必要があります。

 ――金無垢のG-SHOCKを完全受注生産で世界限定35本、これを@770万円で打ち出されました。どのような経緯で開発されたのですか?

金無垢のG-SHOCKを完全受注生産で世界限定35本

 伊部 すべて予約が入ったようです。私の想定外です。実は30周年を超えたとき新しいことにチャレンジしたいと思いました。丈夫な時計の究極はG-SHOCK、メタルの究極はと考えたときに永遠の価値のあるゴールドではないかと思いました。G-SHOCKと金無垢がコラボしたらどうなるのだろうと考えたのがきっかけです。当初、G-SHOCKの金無垢の販売は考えていませんでした。コンセプトモデルを作ってみたいという単純な発想ですが、それをG-SHOCKで作るには新しい衝撃吸収構造を開発しなければいけないだろうということで、優秀な設計者にお願いしました。次の問題は金の加工です。非常に複雑な形状なので日本の匠に「チャンピオンモデルとしてとにかく一個だけ作ってもらいたい」とお願いしてなんとか作っていただきました。4年前に展示をしたら、宝飾の社長さんが加工にびっくりされました。マニアからは「欲しい」と言われ、ずっと「これはコンセプトモデルなのでお売りできません」と答えていましたが、声が一向に終わらない。ああこれやっぱりやらなきゃいかんのかなって。35周年の最後に販売できるようにドリームプロジェクトで推進しました。結局複雑な加工をしているので月に2個しかできない。35本が1年半かかるわけです。販売数を増やしたらとんでもないことになる。あとはキャンセル待ちのような状態です。

 ――原価も相当かかるのではないですか?

 伊部 金の重量や加工がとんでもない。それだけでもすごい価格になるので度外視というか、私からすると数個で済む方が良かったですね。

 ――金無垢は海外にも出荷しておられるのですか?

 伊部 フォロー体制などの関係で日本と香港、シンガポール、アメリカで販売しています。その他の地域で欲しいと言われても残念ながらお売りできません。

G-SHOCKを巡って
宇宙人との会話が夢

 ――過疎地等で出張講座を行なっておられますね。

 伊部 樫尾俊雄発明記念館の近くの世田谷区立明正小学校から弊社の広報へ、「夏休みにワークショップを行なうのでカシオで誰かしゃべれる人を派遣してほしい」という話があって「発明教室」を行なうことにしました。決められた時間内で行なうにはどうしたらいいかということで人の役に立つ時計のスケッチを描いてもらうことでスタートしました。我々が一番注意しているのは落ちこぼれを作らない、必ずスケッチをしてもらうということです。スケッチをしてくれた小学生には「発明家のたまご認定証」を広報から差し上げています。それがすごく評判が良くて、要望があれば全国のどんな山奥でも行きますということにしました。昨年2月に山口県の全校生徒5人の岩国市立宇佐川小学校へ行きました。当日は児童数が少ないのに山口県内のメディアの人達が多数集まり、4人の児童のうち2人が「将来、発明家になりたい」と言ってくれました。日本のモノ作りが弱体していると言われる中、小学生達の役に立てて良かったなと思いました。

 ――最後に今後の夢や目標をお願いします。

 伊部 「私の友達は宇宙人」という時代が来るだろうと思っています、近い将来。宇宙空間は非常に厳しいです。宇宙人の友達が私にG-SHOCKを巡ってこういうふうに言ってくれるのです、「G-SHOCKって素晴らしい時計だね。家族で宇宙時計店に行ってG-SHOCKを買うよ」と。果たして生きているかどうかわかりませんが2035年を妄想しています。
 地球上の過酷な環境に耐える時計、「空の覇者」「陸の王者」「海の強者」がいっぱい出ています。残っているのは宇宙だろうと思います。しかしこの環境はとんでもないのです。マイナスがものすごい下、逆に上はとんでもなく高い。その状況下で耐えうるものを開発できたらすごいと思います。

 ――宇宙で最も過酷なのはやはり温度ですかね。

 伊部 温度に絶対耐えられないのです、すべての部品が。それに耐える部品を作るのは現実的でないと思っています。ではどうしたらできるのかなといったら、冷たいところでは時計が勝手に発熱して守ってくれ、暑いところでは時計が冷やしてくれる。それで部品を守ってくれる。そうすると通常の部品でできるはずです。では、発熱クールダウンはボンベでも背負うのあというようになるのかな? 要は非常識な発想をした方が、G-SHOCKらしいかなと思っています。

プロフィール

伊部菊雄(いべ・きくお)氏

伊部菊雄

1976年カシオ計算機(株)に入社、時計の設計部に配属される。時計を落として壊した実体験がベースとなり、自らの提案でG-SHOCKの耐衝撃構造を開発。その後、商品企画部では、話題性のある商品を数多く担当し、メタルG-SHOCK(MRG)をプロジェクトリーダーとして商品化させた。2008年からはG-SHOCKを世界に広める目的の「ショック・ザ・ワールド・ツアー」に参加。これまで30か国以上を回り、精力的にG-SHOCKの魅力を伝えている。現在は、企画統轄部に在籍し、仕事のかたわら若いエンジニアとの勉強会を通じて、自身のノウハウを伝えている。

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