日本最西端の海底遺跡等で 与那国島の観光に尽力する

  1. 鄙のまれびとQ&A
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 日本最西端の与那国島の海底には“海底遺跡”と言われる巨大な一枚岩がある。これを発見したのはダイビング歴が半世紀の新嵩喜八郎氏だ。氏は東京の高校卒業後、ダイビングを覚え、家業の旅館を継ぐために帰郷、旅館をホテルにリニューアルし、ダイビングショップを興した。また、長く与那国町観光協会の会長として与那国島の観光を牽引してきた。海底遺跡を始め与那国島の魅力、今後の展開などについて聞いた。

■ゲスト 
 与那国町観光協会前会長 新嵩喜八郎 氏

■インタビュアー 
 旅するライター 山ノ堀正道

世界を驚かせた
海底遺跡の発見

 ――月刊『Marine Diving』(水中造形センター)の6月号(50周年記念号)に与那国島が見開きで紹介されていて「ハンマーヘッド(赤シュモクザメ)と海底遺跡の二つを観光に引き上げたのが新嵩さんだ」と書いてありました。

 新嵩 今から33年前の昭和41年(1986年)に与那国島の南東にある新川鼻沖海面下に高さ25メートル、東西約350メートル、南北120メートルにもわたる巨大な一枚岩を発見しました。海の中で淀みがなくて空からマチュピチュを見ているような感じで、海底にあることから海底遺跡と命名し、いろいろ調べようということになりました。
 ダイビングショップの従業員たちには箝口令を敷き、ダイビング仲間の共同通信社新藤健一記者に話をすると、「日本の岩石学の泰斗、東京大学海洋研究所(現・東京大学大気海洋研究所)の石井輝昭教授(現・名誉教授)が『是非会いたい、話を聞きたい』と言っている。写真とサンプルを東京へ持ってきてほしい」と言われ、新橋の第一ホテルで会いました。石井先生からは「新嵩さん、あなたは大変なものを発見した。自然であれ、人工であれ、こういうものがあるというのは、世界の地質学会に一石を投じたことになる」と言われびっくりしました。新藤記者が「正月用の原稿として書いていいか?」と尋ねるので「どうぞ」と答えたら平成7年(1995年)元旦の琉球新報1面や内地の各地方紙に取り上げられ大きな反響がありました。
 また、海洋地質学と地震学の権威で琉球大学の木村政昭教授(現・名誉教授)が平成3年(1991年)に『ムー大陸は沖縄にあった』(徳間書店)という著書をお出しになっていました。東京大学海洋研で一緒だった石井先生と木村先生、それに私の3名でタッグを組み調査を開始しました。この時、木村先生は「石垣を切り出す際に用いる鉄の矢を打ち込む矢穴のようなものをはじめ、道路や階段、排水溝があり、ひと目見たときから遺構と確信した」と言われました。

 ――海外でも大きく取り上げられましたね。

サースウェス

 新嵩 全日空も海底遺跡の機内ビデオを国際線で放映したらBBC(英国放送協会)が飛び込んで来て、そのニュースをご覧になった世界600万部の大ベストセラー『神々の指紋』(日本では角川出版)の著者グラハム・ハンコックさんが日本エム・ディ・エムの渡辺康夫社長(当時)の案内で来訪されて、それからバッと火がつきました。
 与那国島では大型回遊魚との出会いも楽しめる魅力的なダイビングスポットとして知られています。特に港から船で出て1分で群れが見えるハンマーヘッドシャークはダイバーの憧れの的で、一度見たら忘れられない感動を与えています。毎年7月には「日本最西端与那国島国際カジキ釣り大会」も行なっています。

スンカリヤー漁法で
遺跡ポイントを命名

 ――海底遺跡は自然地形(浸食)説と遺跡説があり、まだ結論が出ていませんね。どのように調査していったのですか?

海底遺跡

 新嵩 我々は遺跡ポイントと呼んでいます。ポイントを探すにはGPSがない時代ですからシュノーケルのようにマスクをして小舟に引っ張ってもらい獲物がいたら「待て」といって銛で突いたりする沖縄の漁法、スンカリヤーで遺跡ポイントの名称を生み出しました。城門、二枚岩、メインテラス、アッパーテラス、排水溝、霊石、カメのモニュメントといった具合にです。島の北側エリアには10~30メートルの海底に白い砂の川があります。そのポイントはサンドリバーといって素晴らしい地形です。そのポイントは一本石です。与那国では数字をトゥチ、タァチ、ミィチ、ドゥチと言い、一本のことをトゥムトゥ、岩がイチなのでトゥチトゥムトゥイシと呼んでいます。それから島の北西エリアのダンヌという地名の沖の方にドロップというネーミングがあり、ダンヌドロップと言っています。

 ――1983年に水深105メートルのフリーダイビング(素潜り)に成功し世界記録(当時)を打ち立てたジャック・マイヨールさんも何度も与那国島へいらしたとか?

ジャックマイヨール氏サインボード

 新嵩 そうです。私の友人に千葉県館山でダイビングショップ「シークロップ」を経営している成田均氏がいます。彼はハワイのブルーオリンピックという競技に出場して、幼少の頃佐賀県の唐津にいたというジャックさんと懇意になり、よく与那国島へ連れてきてくれました。ジャックさんには雑誌やテレビにたくさん出てもらいました。思い出深いのは、2000年の大晦日から2001年の元旦にかけて日本最西端の地で「与那国世紀超えイベント」を行なったことです。沖縄ハードロックのマリー・ウィズ・メデューサを主宰していたミュージシャンの喜屋武幸雄氏がプロデュースし、海底遺跡を愛する2,000人の人達が一堂に会して、木村先生、ジャックさん、私とでサンセットトークを行ないました。

12歳で母親の元を離れ
15歳で父親の元を去る

 ――『ナツコ 沖縄密貿易の女王』(文春文庫)に「与那国島の久部良は海運やカツオ漁ですごく栄えていた」とありました。

 新嵩 僕が産まれた昭和22年(1947年)当時の話です。久部良集落の大きめの家は宿泊施設や倉庫に模様替えし、料亭や劇場、映画館が建ち並び、アメリカ軍流出の自家発電機のおかげで島中が不夜城だったと聞いています。B円(アメリカ軍発行の軍票で通貨として流通)、ドル、円、台湾紙幣の札束がポンポン舞い、これを麻袋に詰め込んでいる人も大勢いたとのことです。私の生家は祖父が戦前カツオ漁で財を成し、鉄筋コンクリートの自宅を島で最初に建てました。母は久部良で料亭、祖内で旅館を経営し、その両方を、僕をおぶって行ったり来たりしていたらしいです。終戦後にわずか3,000人だった人口があっという間に15,000人に膨れ上がりました。実際は30,000人以上だったかもしれませんね。

 ――新嵩さんは那覇の中学へ入学、東京の高校を卒業されたそうですね?

 新嵩 僕、与那国小学校で早くもやんちゃでした。心配した母は、那覇で理容学校を経営していた父に12歳の僕を託しました。卒業式の翌日、与那国島の久部良港から6ノットの速度のポンポン船で48時間かけて那覇港へ着いたのです。何と二昼夜です。那覇中学では名門の吹奏楽部に所属してトランペットを吹きました。しかし中2の頃から部活がない日は盛り場を徘徊するようになりました。高校は那覇を離れてコザ市(現・沖縄市)内の高校へ転校するのですが、揉めごとを起こして1年で休学になり退学し、今度は父が東京の夜間部の高校へ手配してくれました。

 ――与那国島から沖縄本島ならともかく、アメリカ統治の沖縄から東京へ行くのは大変ではなかったですか?

 新嵩 確かに当時の沖縄はアメリカ統治でした。東京の高校には品川区大森北にあった叔母の家から通いました。その翌年に全日制に編入できたのですが、渋谷の喫茶店でのバイトに夢中になり卒業は2年遅れの20歳でした。卒業後はバイト先の階下のカウンターバーを任され軌道に乗せると、さらに新宿でサパークラブをオープンさせました。

医学生からダイビングを教わり
インストラクターの資格を取得

 ――東京でダイビングのインストラクター資格と船舶免許を取得したきっかけは?

 新嵩 飲食店経営の傍ら外車の並行輸入を手がけていた頃、東京医科歯科大生(当時)の川平昌直氏から神奈川県の真鶴でダイビングを教わり資格や免許も取得しました。この時の資格や免許が与那国島へ戻って大いに活きました。

 ――事業も成功しているのに郷里へ帰ろうと思ったのはなぜですか?

 新嵩 高度経済成長の終焉とともに店を閉め、年老いた母が一人でいる与那国島で跡を継ごうと思いました。船舶免許で身を立てようと、50フィートの船を台湾で造って運びました。与那国島は素晴らしい海、素晴らしい自然です。それを与那国の子供達にもよく教えてやりたいですね。

 ――島の外に出て初めて良さがわかるのかもしれませんね。

 新嵩 だから孫にも言うのです。「与那国島はいいんだよ」と。この島の人間でダイビングする人は殆どいないので、会う人ごとに「やりましょう」と声をかけています。

 ――与那国島へ帰って何に着手されましたか?

日本最西端

 新嵩 母が切り盛りしてきた「旅館入船」を増改築して「ホテル入船」にリニューアルしました。それと与那国島で初めての本格的なダイビングショップ「サーウエス・ヨナグニ」をオープンさせました。与那国町観光協会を立ち上げてから副会長、会長を歴任し、現在相談役です。
 与那国島の観光は、最西端の地でありながらアクセスを改善する必要があります。だから僕はよく言うのです。石垣島までお客さんがたくさん見えているので石垣市と竹富町と与那国町の一市二町の八重山広域圏という組合で石垣島⇔西表島⇔与那国島に高速船を走らせたらどうかという話をいろんなところでしています。また、今石垣島までは安いLCCの飛行機が飛んでいるので、石垣島⇔西表島⇔与那国島に台湾と東京、大阪を加える循環型もあります。

 ――宮古島から橋で繋がった下地島空港のように関東や外国からダイレクトで降りて来られるといいですね?

観光船

 新嵩 台湾から高速船が与那国島へ入るという話があります。そうなった場合、与那国島には食文化もあるし、観光だとダイビングや島周りがあります。女性たちには機織り体験や民具作り、舞踊とかもいろいろあります。子供達だけでなく大人でもトカラポニー種という与那国の在来馬でホースセラピーといって裸馬で海の中へ入ることもできます。

 ――最近は新嵩さんのご功績で観光客がかなり増えたのではないですか?

グラスボート

 新嵩 いえいえ僕のおかげとかはそんなにないと思います。与那国島は東西で12キロあります。島の中心を200メートルクラスの山が連なっている関係で南風の夏場は島の北側エリア、北風の冬場は島の南側エリアでダイビングをするようにしています。観光のエージェントさんは目玉として海底遺跡と映画「Dr.コトー」の撮影地、日本最西端の地を売り出してくれていて11月から5月の間、団体が多いです。夏でも、お客さんがせっかく来られているのであればできるだけ南側エリアにも船を出そうと思います。

 ――たとえ海底遺跡を見られなくても珊瑚礁がありますね。

久部良港と西崎

 新嵩 先ほどお話しした白い砂地の一本石のポイントは北側エリアです。たとえ海底遺跡が見られなくても珊瑚礁や色とりどりの魚が多いのです。南島エリアの立神岩あたりは堆積岩でできていて、僕はミニグランドキャニオンと言っています。軍艦岩とサンニヌ台は元々くっついていたのが断層で引き離され、波によって浸食されました。祖納集落を一望できるティンダバナも波で侵食された地形です。天井の方を見ると琉球石灰岩でできているので貝の化石を見ることができる。そこに海岸でしか生息しないフナムシが確認できます。そういったものに興味を持って観光してもらえれば楽しいと思います。

与那国は“どなん”
“渡難”ではない

 ――司馬遼太郎さんが『街道をゆく』の第6巻『沖縄・先島への道』(朝日新聞社)でサンアイイソバとティンダバナについて書いていますね。

 新嵩 書いてくれています。サンアイイソバは与那国島が琉球王国に帰属する前の女酋長でした。ところでメディアはある意味で影響力があります。名称まで変えちゃうからね。与那国は方言名で「どなん」と言うのです。与那国島へ渡るのに難儀だから「渡難」と当て字を使う方がいらっしゃる。これは違います、違います。

 ――昨夏放映されたHNKドキュメンタリー『“美ら海”ドローン大公開 ~沖縄・八重山大航海~』ですね。

 新嵩 ご覧になりましたか? 海洋冒険家の八幡暁さんが西表島から与那国島までシーカヤックで漕ぐ様子をドローンカメラが撮影した番組です。私も西表島からずっと船で伴走に協力しました。
 与那国島の語源について池間栄三著『与那国の歴史』では「いろいろな説がある」としながらも「もっとも有力な説は『ゆうな』の木にヒントを得たものである」と書いてあります。石垣島では与那国のことを「ゆのおん」と言うのですが、「ゆうな」の群生の意味です。また、与那国島には与那原や与那元という姓があり、「どなんばら」「どうなむた」と言います。与那国島の方言には濁音が多いので、「ゆ」が「どう」になったようです。

 ――国泉泡盛の銘柄も「どなん」とひらがなですね。

 新嵩 ええ。『五体不満足』(講談社)を書いた乙武洋匡さんが十数年前に与那国島へいらっしゃった時が始まりではないでしょうか? 「ドナンて渡るのに難儀だから」と。 サンアイイソバのティンダバナも、天の蛇の鼻と呼んだりして名前がまちまちです。これを観光協会で名前を統一しようと言っているところです。

 ――近くの尖閣諸島に渡られたそうですね。

 新嵩 日本は海洋王国と言われているのに、沖縄の人が自分の目の上のハエを払いきれないでどうするのでしょうか? 僕は沖縄で生まれた人間ですし、祖父が尖閣諸島のあたりでカツオ漁をしていた関係で、尖閣はどうしても守らなければいけないと思っていて、石原慎太郎先生にも可愛がってもらっています。現在の灯台は祖納港から「いそば」という船で十数時間かけて尖閣へ着いて建てました。海図にも載るようになり、海上保安庁が巡視しています。

島国根性と高校誘致で
与那国島を盛り立てる

 ――最後に今後の抱負や後進に対して一言お願いします。

 新嵩 昔のようにバイタリティーや覇気がある若い方達が少ないのが残念です。そのかわり与那国島の子供たちは目が輝いていると観光客の方からよく言われます。与那国島には北に祖納、西に久部良、南に比川という3つの集落があります。中学校がない比川は祖内へ通っています。高校進学では島外へ出て行くのが現状です。

 ――15の春で石垣や本島に行って、また戻って来ればいいですね。

 新嵩 子供たち若い方達を育てる。島から人口が減少するのは高校がないからです。子供を石垣島や沖縄本島へ行かせて寮のない学校であれば下宿代がかかりテレビや冷蔵庫を買ってやらなければいけない。それができない家族も多いので子供の教育のために家族もろとも島外に出るわけです。僕は与那国をもっと活性化するためには、県立高校の分校を誘致して、先島諸島(宮古・八重山)の子供達を受け入れて全寮制にすれば、親達の負担が少なく、子供も非行に走らないと思います。

 ――島根県立隠岐島前高校は廃校の危機を脱出するために生徒を全国から受け入れて、国公立大学はもちろん早稲田大学や慶應義塾大学などにも合格者を輩出しています。与那国島も先島だけでなく本州からも受け入れてダイビングや乗馬などを授業や部活動で取り入れればいいかもしれませんね。

 新嵩 この島には農業も漁業も観光もありますし、110キロと至近の台湾とも交流できる。与那国島からチャーター便でいつでも飛べます。

 ――バイタリティーや覇気は、どうしたら上がりますか?

 新嵩 昔は島国根性があった。それが今なんでも手に入って便利に贅沢になったのでバイタリティー、つまり覇気も薄れてきた。僕は観光協会の会長を辞めた直後、急に西自治公民館の館長を務めてほしいという話があって引き受けました。ところが、もう任期も終わって次に約束した人が引き受けないし、若い方達がみんな逃げ回っているから続投しました。島の人だったら我先に手を挙げるべきではないですか? 島のために頑張る。
ところで、与那国島へ自衛隊が入ったことは金の卵を授かったようなものです。人口も増えたし、いろんな行事にも参加してくれますし、ありがたいことです。与那国の町民、島民はやっと日本人になれたと思っているのではないですか? 自衛隊が安全と財産を守ってくれるわけですからね。元々の与那国の若い方達も、頑張らないといけない。

プロフィール

新嵩喜八郎(あらたけ・きはちろう)氏

1947年6月30日、沖縄県与那国町祖内生まれ。東京の高校卒業後、ダイビングのインストラクターの資格と船舶免許を取得。石垣空港と与那国空港にYS-11型機の就航に伴い帰島。母親が経営する「入船旅館」を改装し「ホテル入船」としてリニューアルオープン、ダイビングショップ「サーウエス・ヨナグニ」をオープンさせる。与那国観光協会を立ち上げて副会長、会長を歴任し、現相談役。この間、与那国島沖の海底遺跡を発見し、世界的に注目される。

鄙のまれびと ウィークリー紙「新嵩喜八郎」氏 PDF版をみる

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