「Give and Give」で
人間接着を仕掛ける

  1. 鄙のまれびとQ&A

 メディエーターを名乗る青木匡光氏は新宿の「ヒューマン・ハーバー」で45年間、人と人を繋ぐ人間接着業を営んできた。報酬は要求しないで「Give and Give」。忘れた頃に講演や執筆等を頼まれるので先義後利だ。今年3月、ヒューマン・ハーバーを閉港した青木氏に人間接着や夫婦のコミュニケーション、子育て、「粋」に「旬」を生きる生き方などについて聴いた。

■ゲスト 
 ヒューマンメディエーター 青木匡光氏

■インタビュアー 
 旅するライター 山ノ堀正道

「コンマ」を打ち続け
死ぬまで生きる

 ――昨年、同郷のファイリングコンサルタントの小野裕子さんのご紹介で、大須賀敏剛さんが主宰される「水雲会」の「しまなみ海道バス旅行」に同行させていただきました。その縁で、青木先生のオフィスであるヒューマン・ハーバーへ2度伺いました。1年間ほどご無沙汰です。最近はどんな活動をされていますか?

 青木 先週、故日野原重明医師から学んだ健康長寿をテーマに活動している「元気に百歳クラブ」の表紙のイラストをずっと描いてくれている福岡の風流絵師、上村禎彦さんご夫妻が同クラブから東京に招待されました。ついでながら僕が「歓迎会を催しましょう」と言って渋谷で20人ぐらいで集まって、その時、皆さんに上村さんを紹介するのに「僕はいい人探しをしていた。いい人とは本物の人だ。本物とは言うこととやっていることが具体的でわかりやすく、こちらもその人に安らぎを感じる。まさにそれが上村さんだ」と言ったら嬉しかったみたいです。すぐに礼状が届きました。山ノ堀さんもインタビューしていてホッとするような人と、固くなってとっつきにくいとかいろいろあるでしょう。いうならばこれからの人生で付き合いたいというのは本物の人が一番いいわけですね。本物探しのサロンでも、仕掛けをしないとうまくいかない。出会いも仕掛けなのです。僕は仕掛け人を任じている。仕掛けないと人間関係の一歩も始まらない。そういうような感じでいい人探しも一歩踏み出す勇気が必要です。結局、何様でもないのに自分を構えすぎている。だから人にどう思われるかを気にして殻に閉じこもっているわけでしょ。やはりわかってくれる人に一所懸命仕掛けて「一緒にコーヒー飲みません? 飯を食べませんか?」と言ってみる。だから「僕は口下手で」とか「僕は引っ込み思案で」と言う人には「カッコつけることないじゃないか?」という風にアドバイスしています。
 元気に百歳クラブで「青木さん、スピーチをしてくれないか?」と頼まれて「僕はどうして元気なのか?」という話をさせていただきました。結局、僕は45年、ヒューマンハーバーを運営してきて、そこで出会う素晴らしい人達と楽しくおしゃべりをしてきたことが元気の源です。今年3月にそのヒューマンハーバーを閉じたので、ではこれからどうしようかと模索し始めた時に文章を書く人はよくわかるけど、「コンマ」という句読点を打ち続けながら生きていくのがいいと思いました。それは自分の好きなこと得意なことをやってみて、一区切りついたらコンマ。メリハリが付いていい。ずっとコンマを続けていく生き方をすれば天の神様から「もういいのじゃない? そろそろ天国へ来なさい」と声がかかるまで生きればいい。そうすると「死ぬまで生きる」というか、前向きな人生を生きていけます。そういう風に人生を持っていきたいと考えています。
 前向きに生きていくということは「ing=進行形」の人生です。具体的にどうするかというと、僕はうずくことについて仕掛けていく。つまりうずくことを小さな旅にして仕掛けていく。テーマは「旬の探求」。人の旬、食の旬、四季の旬の三つを追いかけるように人生を味わいたい。先月、実践例として京都へ日帰りで紅葉狩りに行ってきました。東京から4人、関西から4人です。いい仲間で近江八幡駅に集まって、8人乗りのジャンボタクシーをチャーターして、作家の白洲正子さんがこよなく愛した教林坊という天台宗の寺院に行って、東近江の奥座敷、永源寺で秋景色を楽しんで、終わったら近江八幡駅から京都駅でさらに3人が合流し夕食を一緒に摂って19時過ぎの新幹線に乗り帰京しました。まことに充実したおいしい1日でした。全部実践する必要はないけど、そういうセンスで楽しんでいけばいいわけです。いい出会いがあり、おいしいものを食べて、秋を堪能しました。今後の人生、それらを組み合わせていけばいいわけです。僕はこんな風に元気を仕掛けています。

軍国少年から
文学青年へ

 ――青木先生はいつも元気に輝いておられます。バックボーンについて聞きたいのですが、昭和8年にどこでお生まれになりましたか?

 青木 5歳まで築地の隣の新富町でした。それから僕としては残念ながら目黒に引っ越しました。僕の名前は、築地の鐵砲洲稲荷神社の神主さんがつけてくれましたが、「くにみつ」や「ただみつ」と言われ難しい名前をつけられたと思っていたのです。その神主さんは自分の息子にも「匡」っていう字を使ったみたいです。45歳の頃、薬師寺管主だった高田好胤さんの親友の方が「青木さん、お名前は匡光(まさみつ)って読むんですか?」と。「そうです」と答えたら「いいお名前ですね~。『王様を囲み知恵をつける人』という意味です」という嬉しい話を聞かされ、僕自身のエネルギーの源にもなっています。それ以降、僕は「こんないい名前をいただいていたのであれば頑張らなければ」という感じになって、人を王様にするために一所懸命「Give and Give」して心の調味料を与え続けて生きています。なるほど暗示というのはすごいと思います。

 ――12歳で日本が戦争に敗ける前はどんな少年時代でしたか?

 青木 戦時中は軍国少年の最たるものでした。大きくなったら、僕は生まれつき聴力が弱いので海軍兵学校は無理としても海軍経理学校なら大丈夫だろうという風に少年なりの夢を持っていました。終戦と同時に疎開先の山形から戻ってきて、第一東京市立中学校、後の都立九段高校に入れたことが嬉しかった。この学校の前身は第一東京市立中学校でした。九段は戦前も背広にネクタイというダンディーな学校です。戦時中だけ詰め襟の学生服でした。戦後になったら背広にネクタイが復活しました。

 ――文人やアナウンサーが多いですね。卒業生に。

 青木 日比谷や戸山は軍人や官僚です。新宿や九段は娑婆っ気の強い人間が多く、大体官僚にはなりません。職業別の分類を行なうと一番多い企業が三菱商事と電通でした。先輩には近藤啓太郎さんや安岡章太郎さん、後輩になかにし礼さんがいます。そういった感性や雰囲気が我々がいる頃までは多分にスクールカラーとしてありました。今は中高一貫の区立九段中学校に衣替えして女生徒も多くなり、すっかり変わったようです。

 ――文学に傾倒した高校時代、どんな作家や小説に影響を受けましたか?

 青木 僕の読書傾向として、最初は鶴見祐輔の『英雄待望論』(講談社)やいろんな人の伝記物でした。高校入学と同時にのめり込んだのがフランスのアランに師事したアンドレ・モーロアを始め日本の阿部次郎や倉田百三、武者小路実篤あたりで、彼らのものの考え方をしっかり浴びました。

 ――鶴見さんは岡山県岡山市の出身です。姪の加藤シヅエさんが100歳の時、ご自宅でインタビューしたことがあります。同行したカメラマンの写真を気に入り遺影に使ってくださいました。

 青木 ほう、そうですか?

経理に配属され
10年で見切る

 ――高校生の時、アジアに興味があった縁で小樽商科大学へ進学されたとか?

 青木 僕は受験勉強そっちのけでフランス文学を耽読していたので2年浪人していました。そんな時、僕が「アジアに興味がある」と言ったら父親が「三井物産に勤めている友人が戦時中、シンガポールで板垣與一先生と一緒だった」と言って一橋大学教授(当時)の板垣先生を紹介してくれました。僕は板垣先生に傾倒して一橋の板垣ゼミに入るつもりで勉強したのですが不合格でした。板垣先生から「小樽もいい学校だよ。若手で優秀な先生もいるから受けてみたらどうか?」と勧められて、受けたら合格電報が来ました。それを持って板垣先生のところへ行ったら、「ちょっと待ってくれ」と言われて、デスクの引き出しから葉書を出して、「青木君が小樽へ行くので自分がいた第二寮への入寮方よろしく頼む」と学長宛に速達を送ってくれました。そういうさりげない親切が堪えました。天下のアジア問題の第一人者の先生が一介の浪人生にできることはさりげなく徹底的にやる。それに揺さぶられて、僕もこんな風になりたいなと思いました。その出会いで僕はヒューマンインパクト(人間の影響)を受けて今日があるわけです。父親から「本人のために踏み石をすーっと用意して親子で前に進めばいい」と子育ての要諦を教えられました。

 ――小樽では若い先生と深夜2時ぐらいまで語られたとか?

 青木 そうなのです。大学へ行って勉強するよりも飲みニケーションでした。僕が入学したとき赴任したような若い良い先生が梁山泊のような宿舎に泊まっていて、毎晩のように午前様で、人生論や文学論を戦わせていました。それが我が青春に悔いないくらいの良い経験になりました。結局そういった生活をしながら授業に殆ど出席しないので成績は中位でした。たまたま毎日新聞等にアジア問題の懸賞論文があって出したら入賞して、その副賞も飲み代に変わりました。学校では論文の賞金稼ぎみたいなものだから、先生方にもある程度有名になりました。だから、卒業するときも先生方が錯覚を起こして、「青木のやつは優秀なはずが10番以内に入っていない」とか言って冷やかされました。

 ――懸賞論文のメンバーとも人脈を築いたとか?

 青木 懸賞論文の創始者がジョン・F・ケネディ大統領の友人の細野軍治さん(元青山学院大学教授)という国際法学者でした。全国から30人が選ばれて箱根で1週間合宿が行なわれました。僕はその会のOB会の世話役を10年ぐらい務めました。その人たちは僕にとって最高レベルのブレインです。その中で僕と同時に入賞した中に高坂正堯君(元京都大学教授)や大野功統君(元防衛庁長官)がいました。東大は大体官僚、早稲田はジャーナリストになりました。

 ――青木先生は小樽商科大学を卒業後、三菱商事で営業を希望されながら経理に配属されどんな思いでしたか?

 青木 三菱商事に入るには国立の小樽の場合、その当時は無試験でした。面接の時に懸賞論文の入選が非常に物を言いすぐに内定が出ました。しかし営業に出ると思っていたら、経理でした。僕、大学の会計学が優でしたから、それを見て多分経理に向いているだろうと判断されたのだと思います。僕自身、営業がやりたいというロマンがあったので、自分の本当に生きたい、やりたいことをできないという不適者勤務でした。商事の場合、経理は終生経理です。海外へ行っても経理、戻ってきても。これはダメだなと。で、アラビア語の研修会の通知も回って来ない。そういう状況だから、会社の様子がわかった時にしょうがないと思ったわけ。 

 ――3年間で辞めようと思いながら10年間勤めたのですね。

 青木 うん。そこから欲が出たわけ。何をやるにしても経理が必要でしょう。で、三菱商事の場合は大きいから、会計と言っても財務・資金もあるし税務関係もあるので全体が経験できないわけ。でもある程度経験してから出ても遅くはないということで、結局運がいいことに商取引の会計、それから名古屋支店で資金会計、本店に戻って税務会計と一通り関与したわけ。後は外為の関係だけでした。もう10年経ってここまで経験させてもらったら飛び出てもいいやと思いました。海外へ行ったら5、6年戻ってこられませんから。

糊口を凌ぎつつ
人材接着業を開始

 ――広告代理店を経て、中小企業の雇われ経営者でした。「辞めて独立したい」とおっしゃった時、奥様は?

 青木 女房としては僕のわがままというか生きたいように生きることについて手伝ったりサポートすることも決めていたらしく、「わかりました。自分のやりたいように生きてください」と言い、一所懸命応援してくれました。だから1975年に株式会社エイラン(アソシエイツ・エイラン)を起こして、来客を船、オフィスを港と見立ててヒューマン・ハーバーを設立しました。

 ――その間、どのように凌いだのですか?

 青木 女房が狛江の慈恵医大病院で検査チェックのアルバイトを14年間勤めてくれたので糊口が凌げました。アルバイトというのはご存知のように昇給しないです。入った時のままの時給で月8万円くらいだったかな。たまたま両親の町田・玉川学園の家に同居していたから家賃は払わないで済みました。今の町田のマンションには20年前に移りました。結局、女房の協力なくしては生活できなかったことなので感謝してもしきれません。
 それで収入がないから費用面を削って節約です。結局僕の考え方ってしばらく自分が様になるまで、絵になるまでパイプを休ませるということで同期・同志会とか同窓会を含めて全部休んで閉めた。ゴルフもやめました。

 ――ヒューマン・ハーバーへ人間接着を求めて来客があった場合、「Give and Give」で無報酬と聞きましたが生活はどのように?

 青木 もうもう、懐はもうオケラの連続です。無償ですから。僕としては将来に賭けました。つまり同じギャンブルをするなら、自分の人生を賭けようと思ったわけです。そういうお役に立った人たちが将来パワーを持って来て、自分の力を発揮しようという時に協力してくれれば嬉しいなと思っていたのが、その通りになりました。パワーを持ち始めた人達が「青木の灯を消すな」と言ってできる形で協力してくれています。

 ――講演会の講師に呼ばれたり書いてほしいとか。

 青木 そうそうそう。講演会。そういう風にビジネスチャンスを設けてくれました。非常に嬉しかったです。そういう意味では僕が一所懸命に人間接着しているということ。その持ち味を引き出しに用意して、「必要なときにいつでも出番でっせと声をかけて」と。

 ――その後、どうなりましたか?

 青木 6年くらいが厳しかった。処女作『顔を広め味方をつくる法』(日本実業出版社)がベストセラーになるまでは。そのサブタイトルが「ビジネスマンのための『人脈』のつくり方」で、それから人脈ブームが巻き起こったのでよく売れて印税が入りました。

 ――初上梓はどのように?

 青木 僕が人間関係に強いということで目をつけてくれて、出版社の専務が訪ねてきて「書いてみませんか?」と言われて書き起こしました。纏まった形でお金が入ったのはほぼ初めてでした。そのおかげで一応、ヒューマン・ハーバーのオフィスの頭金が出ました。出版のヒットがきっかけになってPHP研究所も含めていろんな出版社が企画を持ちかけてくれました。それに一つひとつ丁寧に対応したら非常にいい形で連鎖反応が起こり著書は都合30冊となりました。それでも決して贅沢はできなくて物やお金は不自由でも心は豊かでした。あるいは子育ての話を含めて講演会の講師もよく依頼があって全国を回りました。そういう経験がいろんな意味で生きた知恵としてキーワードに繋がって来たのだろうと思います。

 ――皆さんが『顔を広め味方をつくる法』の出版記念パーティーを開いてくれたとか?

 青木 1980年5月に僕の41歳の誕生日を兼ねた「青木匡光を肴にする会」がニッセイ会館で3,000円の有料にもかかわらず150人の錚々たる顔ぶれが集まってくれました。僕は心の中に大きな自信が灯りました。やはり人脈という繋がりがある。そういう素晴らしい人達の持ち味を活かし、出番を作ってさしあげるのが僕の役割ではないかということで人間接着業という発想が生まれました。それで有能の人と有能の人の出会い、つまり1+1が2ではなくて、5の能力を持っている人達の5×5が25の掛け算の出会いになるように僕は仕掛ければいいのだなと思いました。
 その5年後、12人の発起人によりホテルオークラ「曙の間」で「青木マサ光君をサマにする会」が開かれ10,000円の会費にもかかわらず400人が集まってくれました。パーティーに参加した旧友の一人が「俺の知人は20人もいなかった。それ以外は新しくつくった人脈ということか?」と語っていました。電通も『電通報』の「広告人語」で「ゴルフの青木が全英オープンに大活躍し、ゴルフファンの大喝采を浴びていたと同じ頃、もう一人の青木、すなわち無名に近い青木匡光氏の出版記念パーティーが都内のホテルで開かれ……」、日刊工業新聞も「サラリーマン物知り帳」というコラムで「人間接着業」について紹介してくれました。

相手が喜びそうな
仕掛けと人材接着

 ――これまでヒューマン・ハーバーで心がけてきたことを教えてください。

 青木 僕の生活哲学として、まず「麗老」があります。麗しく老いるという美学です。要するに「ダンディーにかっこよく生きよう」「野暮には生きたくない」と。つまり粋に生きたいという気持ちがあります。次に「Never too late=始めるのに遅すぎることは何もない」、自分の心に思いついたことをすぐに実行する。あれをやりたい、あの人に会いに行きたい、すぐやるという風に持っていく。3つ目が「ing=進行形」、前向き。ただ長生きするのは無駄なことで勿体ないから自分の宿題を持って、それに向かって進んで行くことがいいという風な気持ちが非常に強かった。そこの底流にあるのは森繁久彌さんの役者哲学です。ある雑誌で森繁さんが「役者には定年がない。20代30代の元気のいい時期は、主役として華やかにやっていく。40代50代になってピークが落ちてきたら脇役として活躍する。60代70代になると通行人A、Bでもその人なりの存在感ある役割を果たせる。だから定年がない」と言っていた。そうか、年齢相応にやるべきことがあるんだと。それを自分なりに絵にしていけばいいではないかと。これからの生き方として自分の置かれた状況に対応して生きるということを、自分はやっていければいいということです。

 ――ヒューマン・ハーバーでのルールは?

 青木 以前、毎月第二水曜日にサロンを仕掛けて、黙って聴いて帰るのは無礼でっせと。外部講師を呼ぶのでなく全員講師が建前ですから「来た以上は自分の持っているもの全部を吐き出してお互いに啓蒙していきなさい」ということです。たまに講師に相当するようなゲストも呼びましたが、あくまでも全員が3分スピーチ程度を行ないながら交流するというやり方です。当初は秘書がいて、彼女が結婚する前に6年間ぐらい仕切っていました。そういうことで非常に良いサロンが展開していました。
 その中でピカッと光っていたのが、『月刊致知』という雑誌の藤尾秀昭社長です。その頃、藤尾さんは地産グループの竹井博友オーナーの下で編集長を務めていて、サロンの常連でした。で、いつも人間学のいいスピーチをしていました。このご縁が続いて『月刊致知』の10周年、20周年、30周年と招待を受けており、今も時々本を送ってきます。ありがたいことです。

 ――ヒューマン・ハーバーに「こんな人歓迎、こんな人はご免なさい」といった基準は?

 青木 自分のことだけを考えとるような人は嫌です。それから「青木さん顔が広いから誰か紹介してくださいよ」といった調子で利用してくる人も苦手です。先ほど申し上げた掛け算の出会いしか興味がありません。例えば、山ノ堀さんから「今こういうことに燃えているのだけど」という話があったら、その燃えている人の気持ちを伸ばすことが僕の役割です。それだったら、あの人が興味を持つか、あの企業が求めているのではないかと思ったら、そこにすぐ電話して「出番ですよ」と。で、マッチングしたらお互いに出会う。そこで大事なのは“やりすぎない”こと。つまり、出会いをセッティングするだけで、そこから先はビジネスも人間関係も黙っていて自然に弾みます。お互いにパッと感性が合う。だから出会いの舞台までを構築しましょうということです。だからそういう気になるのが、意欲のある人というか人生に志を持っている人、夢を持っている人しか興味がないわけ。それ以外の人は、逆にお断りというか自然に遠ざけてしまいます。

 ――人間接着に欠かせない人脈が500人以上とのことですが、自分の専門や業界とは違う幅広い人脈のネットワークを築く方法を教えてください。

 青木 高校時代、大学時代、あるいは論文仲間も含めてみんないろんな分野のエキスパートとして持ち味を発揮して活躍しています。それを通して僕なりにいろんな人間を見ているわけです。それは人間対人間だから打算的に付き合ったら1回は付き合うにしても、それ以降は終わりです。だから青木と付き合って非常に楽しいとか嬉しいとかいうような気持ちを相手が思ってくれなければ長続きしません。だからそういうパイプを太くするための仕掛けは常にやっています。相手が喜びそうな資料を、情報を提供しています。

 ――青木先生は、もう上がった人、完成した人にはあまり興味がなくて、次代のエースに接触するのが楽しみだとか?

 青木 もう有名になった人やそれなりに様になっている人はほっとけばいい。双六で言えば、サイコロを振って上がっていく人に興味がある。これから伸びていく人に心の調味料をぶっかける。その人の役に立つ情報なりいろんなインパクトを与えてやる、先輩としての役割ではないかと思う。そういった人生の後輩が頑張りやすいように環境を作ってやるのが知的パトロンだ。スポンサーはすぐ見返りを求めるけど、パトロンは相手に見返りを求めない。僕はお金がないから知恵で提供する。

言うことを3つに絞る
スリーポイント作戦

 ――勉強会や異業種交流会を長続きさせるコツは? 

 青木 うーん、長く続けるには主催者が、汗をかく人(汗かき人)ならいい。世話人じゃダメ。世話してやっているという気が出てくると天狗になってしまう。だから自分が一所懸命汗かいて、雰囲気が良くなるようにいろんな角度から仕掛けていく。遊びも一緒に楽しむとか、つまりもう世の中面白時代だからさ。全てが面白さに結びつくことが非常に大事な世の中になっている。なぜそういうことになったかというとコーディネート社会だから。組み合わせ社会。

 ――名刺交換や自己紹介で相手に自分の顔と名前を覚えてもらう秘訣があったら教えてください。

 青木 自分のキャッチフレーズを用意しなさないよと。僕の場合なんかは「人間接着剤」なんて何者かわからないからさ、名刺を出すときに「人間接着剤の青木でございます」と言うと「えぇ?」なんて顔をされるでしょ。興味を抱いて「何っ?」と言われたら、それから会話が始まるでしょう。そういった相手が興味を引きそうなキャッチを用意する。それが最小限のイントロです。それから会話を楽しむ。どういうことに興味を持つ人かなと少し考えて、自分なりにキャッチを用意すればいいでしょう。

 ――内気な人、引っ込み思案な人が、人との交際やビジネスの場において、実践的に自分を高めていくための方法があれば教えてください。

 青木 内気な人はね、恥ずかしがり屋というのはね、自分自身の精神状態に何様意識があるからです。何様意識とは、結局そんなことやしたらみっともないのではないか、とか。そういうのをすっ飛ばして、その人と出会って話をすることが自分にとって大変プラスになる、自分が引っ込んでいたらもったいないという、もったいなさに気がつくことが先決だと思う。だから一歩踏み出せ、と。そういった風に考え直して、話しかけて質問上手になればいいのです。みんな答えるの好きなの。だから自分に関心を持ってくれて質問されることは非常に嬉しいことです。そんな風な形で相手が答えを出しやすいような質問をして差し上げると、会話が弾み、自信がついてきます。

 ――「人脈づくりは織物に似た芸術」と言われるのはどうしてですか?

 青木 織物は手作りでしょう。人脈作りも手作りです。ハイテクじゃできない。ロウテクですよ。汗をかいて。その人の心を動かす仕掛けをいくつもやりながら巻き込んでいく。その自分の人脈そして自分自身をカラフルに。この人からは黄色。この人からは緑とか。この人からは赤とか。そういう風に色々にファッショナブルにいいとこ取りしてキメていって自分のことを磨くことができるわけです。で、織物の原点は、組み合わせだから。そういう風にいろんな組み合わせをしながら多彩な人間関係があるという。

 ――相手に伝わる話し方の秘訣は?

 青木 例えば山ノ堀さんに僕がどう話せばこのことをわかってくれるだろうな?と。そういう心遣いがあるからだと思います。喋る前にわかりやすい言葉にする。「三つの知恵」とか「11の袋」とか、そういう風に持っていった方が理解しやすい。特に大事なことはなるべく「三づくし」でいく。スリーポイント作戦といって言いたいことを3つに絞る。そうすると人間の頭の中で覚えているのは三つが一番わかりやすい。「俺の言いたいこと、これとこれとこれ」という形。四つ以上言うと覚えきれない。だから3ポイントは相手の立場に立って言っているわけです。相手だって「青木さんからいい話を聞いたよ。これとこれとこれ」と人に言えるじゃないですか。人に喋りやすい程度にしか話ができない。それじゃないとみんな消化不良を起こして、結局全体がわからなくなってしまう。なんかいいこと言っていたけど何言ってたのだろうとなってしまう。

縁の下の力持ちと
「セ・シ・ボン」の歌

 ――「NPO法人江戸しぐさ」とも関係されているとか?

 青木 江戸しぐさの旗を揚げた越川禮子さんがヒューマン・ハーバーに見えた時に「江戸の歴史は書物に書かれてあるが、しぐさは口伝で活字になっていませんね。芝三明さんが父祖から聞いたしぐさを、あなたは大学ノートに何冊も書き留めているので、それを本にしたらどうですか?」と言って日経CNBC初代社長の桐山勝さんを紹介したら、『江戸の繁盛しぐさ』(日経新聞出版)の誕生となりました。僕としては人間接着の多くの成功例のうちのひとつです。越川さんの『野暮な人 イキな人』(日本文芸社)は参考になるので、本の中身を僕なりにピックアップして粋な友達に「お前、これだよな」と言って差し上げています。野暮な人に上げたら怒るからやめときます。

 ――ヒューマン・ハーバーにマリリン・モンローの写真が所狭しと飾ってありました。オードリー・ヘップバーンではないのですね。

 青木 いやぁ、これはもう趣味だと思うのです。モンローがなぜ好きかというのは何よりもセクシーだからです。それと非常に人間臭さを感じながら社会的なことに首を突っ込んだりとか。例えば、朝鮮戦争の時なんか兵士を激励に行った素晴らしい写真もあります。そういう行動力があって、なんとなく親しみが湧くのです。で、ヘップバーンが綺麗っていうのは彫刻の美しさみたいな形で、彼女も社会的なボランティア活動をよく行なっていたみたいですが、なんか人間が真面目で硬くて女性としての魅力を感じるというのがあまりなかったかな。別に嫌いではなくて素晴らしい女性だと思うけれども、それ以上にモンローの方が身近に感じたという話です。

 ――モンローの方が青木先生との組み合わせで意外性があります。

 青木 ヒューマン・ハーバーの名物になりました。わざわざ外国からポスターやカレンダーを買ってきてくれる人もいます。例えば越川さんはアメリカへ行く度に「青木さんのために買ってきてあげた」と言ってポートレイト集を届けてくれました。その結果、トイレがモンローだらけになりました。もう引くに引けない(笑い)。

 ――米寿まで続けられる予定だったヒューマン・ハーバーの閉港が3年早まったのは?

 青木 先取りした感じですね。88歳ぐらいまでは足腰も大丈夫と思ったのが、歩くことはどうにかなっても持病の下肢静脈瘤で長い時間立っていられないとかの理由です。もう一つは補聴器をMAXにしていても聞き返したりよく聞こえなくなってきたということです。ヒューマン・ハーバーへ電話が架かってきても相手が何を言っているかわからないので用をなさなくなった。それから女房には僕の我が儘を徹底的に通してくれた借りがあります。僕が入院なんかしてもヒューマン・ハーバーにはタッチさせなかった。人から電話が架かってきて「いつもお世話になっています」と女房に言わせるのが嫌だったから。そういう女房が心配して「いつまでやるのですか?」と尋ねてきて「米寿まで続ける」と言ったけど可哀想になってきた。それから統計的に85歳になったら殆ど認知症になると言われていて、そうなったらヒューマン・ハーバーを自分で畳むのが難しい。僕の友人も何人か認知症になった。これはやばい、締めくくろうと思ってやめたわけです。

 ――今年4月の「ヒューマン・ハーバー謝恩会」は盛況だったと伺っています。

 青木 あれはビックリしたな。水雲会の大須賀さんから声が掛かって、僕は誰が来るとも、どんな仕掛けがあるとも聞かされていませんでした。ただ、「青木さん、4月12日~13日を空けておいてください。バスをチャーターしていきますから」と言われていただけです。当日は40人ほどで新宿から大型バスに乗り、前橋市の群馬県庁ビル33階で両毛三山パノラマ展望を楽しみ、満開の赤城山南面千本桜を観桜しました。バスの中のみんなのスピーチも素晴らしかった。草津温泉「ホテルヴィレッジ」に着いてからは大広間で「謝恩会」が開かれ、凄い仕掛けがありました。翌朝は満開の上田城千本桜を堪能しました。ホテルは国際ビジネスマンクラブ・むしろの会仕掛け人の土屋秀雄さんの紹介だけど、意を尽くした歓迎でした。

 ――夜の懇親会で奥様に「ヒューマン・ハーバーの45年間を、縁の下の力持ちとして支えられた感想や苦労話でも」との質問がありました。その回答が教養に満ちあふれ見事と思いました。

 青木 いやー、ただ真面目でひたむきに僕に尽くしてくれた。僕と違ってあまり人付き合いをしません。「いろいろありましたけれども、何事もケ・セラセラでやってまいりました。私は口下手ですから今の楽しい気持ちを歌で表したいと思います」と言って10年ほどシャンソン教室へ通っていたことから「セ・シ・ボン」を歌いました。皆さんに好評だったようです。なるほどこういう手もあるのかと。口下手なりの方法だったと。

 ――歌と一言だけでもインパクトがあります。その奥様とのコミュニケーションはお茶漬けタイム以外も続けていますか?

 青木 僕はサラリーマン時代に朝早く出勤して終電車で帰ることが多くて妻と会話する時間が少なかったので子供の話を聞くために毎夜15分のお茶漬けタイムを設けていました。それ以外にこの数十年間、僕は毎朝食事前に新聞の切り抜きをやっている。女房に「こういうのがあった」と言って読ませている。あるいはいろんな本の紹介記事を読んでいるうちに、「これはカミさんに読ませたいな」ということがあったら本を買ってきて紹介記事をつけて渡すというコミュニケーション。今は一緒に家にいるのでお使いの時はできるだけ一緒に出掛けるようにしています。旅行もできるだけ一緒に行く。どちらかがあの世へ逝ったら残った方が寂しいでしょうから、旅行して一つのモニュメントですかね。思い出を積み上げておくと、センチメンタルジャーニーができるので寂しくないわけです。

 ――思い出に浸るわけですね。

 青木 うぅん。思い出を作っていく。そういう風な仕掛け。カミさんや子供に仕掛ければ自分にも仕掛けることになる。仕掛け人生という感じです。仕掛けるということは一歩踏み出すことだから元気になります。だからそういう生き様を仲間達が見て、青木のように生きていきたいというファンが結構いるみたいです。年賀状一つも仕掛けています。必ず近況報告です。賀春とは春を賀すという。去年はこういうことをやったといって、感想文を含めてメッセージしていくわけです。

 ――味がありますよね。先生の年賀状は。

 青木 へへっ。だから仕舞っておく人が多いのよ。びっくりしちゃう。捨てられないっていうのはありがたい話です。

アンチエイジングより
ナイスエイジング

 ――子育てについて伺います。長男の元さんには父親としてどんな教育をされましたか?

 青木 うちの息子は一人っ子ですから自立心をはぐくみ過保護にしない必要があります。そこで「青木流、子供が自立するための人生ゲーム」と称して自立心(ボーイスカウト等)、読書心(クイズ、パズル、長編マンガ等)、遊び心(城めぐり、落語、始発電車旅等)、冒険心(一人旅等)、向学心(中学受験等)、奮発心(教授との出会い等)、社交心(メッセージ袋、江戸連で大人の会話を聞かせ幼児語からの脱却等)を仕掛けました。
 高校3年生の時、息子に「大学では何が勉強したいんだ? 誰か尊敬する人はいるのか?」と尋ねたら「地球物理を勉強したい。『Newton』編集長の竹内均先生(元東京大学教授)を尊敬している」ということでした。僕自身が板垣先生にヒューマンインパクトを受けて今日があるので息子にもいい影響を受けてもらおうと思い、竹内先生に近い人を探し出して、趣旨をまとめた手紙を書いて、面談を依頼しました。「5分でもいいので、息子にヒューマンインパクトを与えていただけないでしょうか?」と。すぐに返事をいただいたので、概要だけを息子に伝え、指定された場所に息子一人で向かわせました。結局、5分の約束のところ15分もお話をさせていただけたそうで、息子はとても喜んで帰りました。竹内先生の話は非常に影響があったのでしょう、それから勉強を始めて、現役で大学受験に向けて予備校に通っていた息子の成績は国公立コース1,500人中、360番ほどでしたが、11位にまで上がりました。
 また、日本ボーイスカウト連盟のベンチャースカウト年代(高校生年代)における最高位のスカウトに与えられる「富士章」(現・富士スカウト章)を授与され、東宮御所と首相官邸を表敬訪問しました。
 子育ての本は『子供を伸ばす父親、ダメにする父親』(日本文芸社)、『オトコの子育て講座』(教育評論社)の2冊出しています。モラロジー研究所の『れいろう』という雑誌にも「父の役割」という記事を書きました。3、4年前に静岡市葵モラロジー事務所主催で「芽を育て、花を咲かせる子供との付き合い」という講演をしました。
 昨年8月には「丸の内朝飯会」世話人の市原実さん(元山梨県立大学教授・中小企業診断士)からのご依頼で息子がゲスト講師を務めました。市原さんからは「ご子息はパワーポイントを使い自らの言葉で誠実にお話しいただきました。出席者も30人で、普段よりも約10人ほど多い会でした」という連絡をいただきました。息子は率直に言ってナイスガイに育ちました。ありがたいことだと思います。

 ――青木先生は父親として「こういうのがあるよ」という道、飛び石を作られた?

 青木 息子の好きなものやこと、当時は女優の宮崎美子、落語、気象、テニス、写真、カメラの記事を見つけたら「メッセージ袋」に入れる。それを今や孫や息子の嫁さんにも広げていますよ。はは。

 ――今日はとても有意義なお話が聴けました。

 青木 山ノ堀さんがこんな仕事をされるとは思ってもいませんでした。「鄙のまれびと」はどんな経緯で書くことになり、どんな方を取り上げているのですか?

 ――私は退職してこれまで書き溜めた手書きの日記をワープロ化し、「朝飯前の朝飯」というテーマでブログにアップしている時、友人から「少しでもインカムがないときついだろう? コラムを書かないか?」と西の風新聞社を紹介してくれました。この企画は今年7月からスタートし、これまで二十数名の方々に登場いただきました。『西の風』編集部から挙がってきた西多摩の方々と私がこれまでの知人の中で生き方のモデルのような「いい人」「本物」をインタビューさせていただいています。ただし「鄙」が冠に付いていているので、都会のど真ん中で活躍しているような方は除いています。最近お亡くなりになった大山泰弘さん(日本理化学工業元会長)や渡邉英彦さん(ご当地グルメでまちおこし団体協議会代表理事・富士宮やきそば学会会長)にはぜひ登場いただきたかったです。

 青木 今後とも頑張ってください。人選に困ったら言ってください。

 ――ありがとうございます。最後に今後の活動の予定や取り組み等をお願いします。

 青木 今までヒューマン・ハーバーではいつ来るかわからないお客さんに、アメーバのように刺激を受けてから動くという受け身の生活でした。ものすごく緊張していました。その緊張感がなくなって開放感があります。それからあなたのための人生だったのが、これからは自分のための人生を生きていこうと思います。その間、何か人のお役に立てることがあればもちろん今までの延長線上でやっていきますが、できるだけ自分を活かすために旬を探求する仕掛けをできるだけ夫婦共同で楽しむ。例えば陽気のいい時に由比へ桜エビ、小田原へ蒲鉾、江ノ島へしらすの昼飯を食べに行くとかですね。
 社会的なボランティアは僕は耳が悪くて聞き取りにくいハンデがあるから人と一緒にできません。自分なりに思いついたことで協力していく。これから伸びようとする人に対する応援もチャンスがあればしていきます。あとはヒューマン・ハーバーの仲間との昼食会の仕掛けを毎月のように行なって情報交換することですね。先ほども言いましたように自分の人生に彩りを付けていく。
 「アンチエイジング」という言葉がありますが、僕は帯津良一医師(日本ホリスティック医学協会会長)が提唱する「ナイスエイジング」だと。アンチエイジングは死ぬことに対して一所懸命抵抗するアンチでしょ。ナイスエイジングであればどうせ死ぬので生きているうちはかっこよくいい生き方をしようじゃないかと実践しています。ちょっと切り口や心のあり方が変わることによって元気さが違ってくると思う。だからキーワードというか言葉の杖がものすごく大事だと思います。考えてみれば100歳までもう14年しかない。これまで充分役割を果たしてきたと思うし、生涯現役なんて言わないで、むしろこれから自分のために癒やしの時を過ごしていこうと思います。

プロフィール

青木匡光(あおきまさみつ)氏

1933年、東京生まれ。1958年、小樽商科大学卒業。同年、三菱商事株式会社入社、10年ほど勤務。1967年、広告会社に転職。1975年、株式会社アソシエイツ・エイランを設立。メディエータ―(人間接着)業を始める。さらにオフィスをサロン風に“ヒューマン・ハーバー(人間の港)”と称して開放。1980年、『顔を広め味方をつくる法』(日本実業出版社)を刊行。本格的に執筆、講演活動を開始。1985年、異業種交流会「知恵の輪」の相談役・顧問を務める。2007年、NPO法人江戸しぐさの監事就任。

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