渋沢栄一翁の意志を継ごう
道徳経済合一主義「論語と算盤」

  1. 鄙のまれびとQ&A

 2021年のNHK大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公、2014年に20年ぶりに紙幣刷新し1万円札の顔として脚光を浴びているのは「日本の資本主義の父」と言われる渋沢栄一翁で、「論語と算盤」(道徳経済合一主義)を提唱した。その5代目子孫の渋澤健氏は日本で生まれたが、アメリカ暮らしが長く、帰国後に本編全58巻、別巻全10巻からなる『渋澤栄一傳記史料』を解読。栄一翁の「論語と算盤」の今日的意味を解説するとともに栄一翁の枠を越えた生き方を若い日本人に提唱している。

■ゲスト 
 コモンズ投信株式会社取締役会長 渋澤健氏

■インタビュアー 
 旅するライター 山ノ堀正道

40歳が転機
9.11で帰国

 ――渋沢栄一翁と言えば2021年のNHK大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公、2014年に20年ぶりの紙幣刷新で1万円札の顔として脚光を浴びています。渋澤健さんは栄一翁のことを、5代目子孫としてどなたから聞かれましたか?

 渋澤 それが誠に恥ずかしい話で、渋澤家の人間でありながら特別な教育とかは受けておりません。子供の頃にいろんな本があって、その中で『渋沢栄一 実業の父』(ポプラ社)のページを捲って、まさに大河ドラマのようだと思った程度です。それがお爺ちゃんのお爺ちゃんだったぐらいのイメージしかありませんでした。父の仕事の関係で小学校2年から渡米し高校までずっとアメリカでしたので、日本語に触れることなく「渋沢栄一」という分脈からも遠いところで暮らしていました。社会人になって日本で仕事をしてから、再びアメリカへ渡り外資系の金融機関へ勤務したので、20代、30代頃はそれほど栄一に触れる機会もあまりありませんでした。

 ――ご両親も妹さんもアメリカ在住とのことですが、日本へ戻られた理由は?

 渋澤 2001年に私が40歳になった時、人生でいろんな転機がありました。それまではアメリカのヘッジファンドの会社に勤め、電話1本で何百億円というお金を動かすような世界にいて、独立して会社を立ち上げようとしていた矢先に、ニューヨークで9.11同時多発テロの事件が起こりました。その日、私はシアトルにいて真っ青な空を見上げながら、自分の心にのしかかる重たい雲を感じていました。その数年前に結婚して家族の長になり、当時、私にはまだ幼い長男と妻のお腹の中に次男がいて、「戦争とはこのように始まるのか?」とおののいていたところへ、ラジオが「International Fountain(噴水の広場)に集おう」と呼びかけているのが耳に入り向かうと、様々な民族の人達が多数集まっていて、亡くなった魂を偲び、花をたむける姿がありました。この人々を結びつけていたのは「共感」でした。「これから自分達はどうなってしまうのだろう?」というサステナビリティ(持続可能性)に対する不安であったり、「平和とは当たり前にあるものではなく、自分達で作り上げなくてはいけないのだ」という思いでした。
 その後、「道徳経済合一主義」に基づき経済道義を高揚することを目的とした公益財団法人渋沢栄一記念財団の理事に就任して欲しいという話がありました。この組織は栄一の理念に共鳴した経済人等を会員とし、知識や徳性の向上を目的に活動してきた龍門社が2003年に名称変更して引き継がれたものです。史料を管理する財団の渋沢栄一史料館が東京・北区王子の飛鳥山公園という栄一が晩年起居した場所に建っています。実はバブルのピーク時に、北区から「飛鳥山公園を拡張したい」という申し出があって、一部不動産を売却してまとまった資金が入って、元銀行の方とかが債権で健全に運用して建設に至り、1982年に開館しました。昨年9月から休館して、今春リニューアルオープンする予定です。渋沢栄一は強運の持ち主だと思っていますが、まさか財団まで引き継ぐとはすごいことです。財団のトップに栄一の直系の渋澤雅英が理事長として迎えられてから渋澤家の人間が財団に関与するようになり、私にもお鉢が回ってきたのです。

物質的な豊かさ
精神的な貧しさ

 ――渋沢家に家訓はあるのですか?

 渋澤 父の親戚の集まりで、叔父が酒が入ると私を捕まえて「昔、渋澤家には家訓があって、そこには『株』と『政治』はダメだと書いてある」と言いました。私が独立時に調べてみると、「投機の行、または道徳上卑しい職に就事すべからず」と書いてありました。私は道徳上卑しい仕事をしていたとは全然思っていないのですが、「投機の行」といった時に、マーケットにおいて安値で買って高値で売って、高値で売って安値で買うという、まさに投機をずっと行なっていたので、私は渋沢家の家訓違反をしていたことに気づきました。その時に栄一の著書が多数あることは知っていたのですが、残した言葉もたくさんあるのだなということもわかりました。他に自分に当てはまるかどうか調べようと思った時に『渋沢栄一傳記史料』が全部で60数巻あって、しかも100年前ぐらい前の言葉は漢字が多く、父の翻訳も入れて読み進みました。なにせ私の日本における最終学歴は小学校2年生ですから。その中で父も呑気で「ひいお爺さまってやはり偉かったのだね~」みたいな話になりました。

 ――その伝記史料は渋沢史料館にあるのですか?

 渋澤 史料館にあります。これらは渋沢栄一の講演録に入っているバージョンです。オンラインでも検索できるようになっています。

 ――伝記史料からどんな発見や気づきがありましたか?

 渋澤 父がある時、FAXを送ってくれたのが、「元気振興の急務」という栄一の講演内容です。明治時代の末期の書です。我々が抱く明治は輝いていて活気があった時代です。漢字の書き方・表現の仕方も難しかったのですが、読んでみると、「最近、事なかれ主義に陥っている」「人々が何でも慎重な態度になっている」「すぐ国に頼るな」など結構ダメダメで、そういうものがいろいろ書かれてありました。最後は「若者よ、元気出せ」みたいに述べてあり、100年前ではなくても今に通じる言葉ではないかというのが私の栄一に対する発見でした。だから栄一は過去の功績とかの存在だけではなくて、実は現代にも通じる言葉をたくさん残していると思いました。栄一の子孫として昔から聞かされていたのは「子孫に財産を残さなかった」と言われていて本当でした。どんなに引き出しを開けても何も入っていない感じですが、本当に素晴らしい遺産を残してくれていました。それは「言葉」です。それには相続税がかからないし腐りません。かつ、違う時代に読む人の想いで解釈するとまたその時代に合った表現ができます。それは表現した自分のものになるのです。

 ――それを健さんは現代文に直して、どの世代が読んでも新しい発見があるようにと、『渋沢栄一とヘッジファンドにリスクマネジメント』(日経BP社)を初上梓されました。

 渋澤 そうですね。2001年の夏に脱稿して、9.11同時多発テロの直後に出版しました。そこから振り返ってみると、栄一が述べた「論語と算盤」は「サステナビリティのことを言っていたのだ」と思うようになりました。また、リスクの正確な定義は「不確実性」であり、「危険」や「危機」という意味だけではなく、「機会」や「可能性」という意味を含んでいるので、渋沢栄一はリスクマネジメントの達人であったと思います。ネガティブなリスクを軽減して、ポジティブなリスクをモノにした人物ですから。その観点から、9.11で感じたリスクマネジメント、つまり、政府だけに任せるのではなく、善意を持った世界の市民達がきちんと意識を持って臨まなければいけないということです。9.11の時に目覚まし時計が鳴りました。その時読んだ栄一の思想や書き物は、大河ドラマになる時代の話ではないのです。

 ――もっと晩年というか、後ですね。

 渋澤 ええ、晩年と考えると明治後期や大正時代でした。日本という国が古き時代から新しい時代、明治維新に突入して3、40年経ち、ある程度の物質的な豊かさというか、当時の先進国に追いついた部分もたくさんあったと思うのです。では精神的はどうなのだと、栄一が嘆いています。物質的に豊かであってもこのままではダメだみたいな話がたくさん残っているのです。そして栄一が亡くなったのは1931年11月11日ですが、その2カ月前に満州事変が起きています。まさに栄一が「このままでは将来を危ぶむ」ということも「大正維新の覚悟」という章で取り上げています。内容は「元気振興」に似ています。「このまま行けば将来、悔やむことが起こるかもしれない」といったことが書かれているのです。それが現実になりました。そういう風に考えると、歴史は繰り返すことはないけれど、そういうリズム感がある。これはマーク・トウェインのいい残した名言「歴史は繰り返すことはない、韻を踏むときがある」を私はリズム感と解釈しています。時代にリズムがあるからこそ、過去の教えを現在の時代の文脈に解釈すれば、未来のために役立つと思っています。

外に出れば
枠が広がる

 ――城山三郎さんが栄一翁を描いた『雄気堂々』(新潮社)は毎日新聞の連載時が『寒灯』でした。まさに寒々とした深谷の血洗島での青年時代を偲んで栄一翁と夫人の千代さんが語っている雰囲気の中で「寒灯」をイメージできる箇所があります。当時、義兄の尾高惇忠さんが栄一翁の学問の師としてものすごい影響を与えたようですね。その辺がずっと晩年まで「世の中のため」という思想となって、企業500社、社会事業600団体が生まれたのかと思うのですが。

 渋澤 渋沢栄一は江戸から離れた田舎の深谷の生まれで、若い時に反乱を起こそうと企んだり、かなり革新的な若者だと感じます。その目的の大義としては、このままでは外国人が日本に攻め込んできても幕府が弱腰になっている。だから、幕藩体制の変革が必要だと考えたのです。ただ、高崎城の乗っ取り作戦を実行する直前に帰省していた従兄弟の説得により断念。その後、地元の役人から目を付けられていたようですが、親交があった平岡円四郎(一橋家重臣)という徳川慶喜の側近の推薦により、慶喜に仕える立場になりました。その後、慶喜が将軍に就任し、栄一は幕臣になったのです。外から変革できないのであれば、中からと考えた。若き栄一の目的は倒幕ではなく手段だったのです。「日本の国力を高めたい」という思いが目的であったと理解しています。ここら辺は大河ドラマでいろんなエピソードが出てくると思います。

 ――あの時代に「公」の観念を持っているというのがすごいですね。

 渋澤 それは惇忠の意思だったと思いますし、若い時には海保漁村(幕末の儒者)の門下生になり北辰一刀流の千葉道場へ入門しました。これからの国の行方を語るという熱い系の人達が集まっている場所で、すごい感化されたと僕はイメージします。両親にも恵まれたと思います。栄一の父親は本家から分家に養子として入ってきて家業を再建した商才の持ち主であると同時に厳格な勉強家でもあり、子供達に論語を読ませました。そういう父親の論語と商才、努力と信用と継続を、栄一は学んだのだと思います。その一方、母親がものすごく情愛に溢れた人でした。当時、恐れられていた癩(らい)病、今のハンセン病感染者の女性の世話をしたり、弱者への情け深い人でした。そういう親の元で育ったというのがやはり大きかったと思います。

 ――栄一翁はもともと攘夷思想の急先鋒でしたが、幕府の視察団としてパリ万博へ行きガス灯や銀行を見て外国のいいものを日本も取り入れるべきと思い帰国後、近代化に邁進しました。ほかの外遊組とはどこが違ったのでしょうか?

 渋澤 明治維新前の若き栄一のフラストレーションの元は、階級制度がガチガチで、どんなに能力や才能があってもお上、官にならなければ、国を動かすことができないということでした。また、栄一はすごく好奇心が旺盛な人間で、なんでこうなのだろうと熟慮する性分だったと思います。自分の目で確かめたいという気持ちが多分にあったから深谷に留まるのではなくて自分の目で京都を見たいとか、幕府の中心を自分の目で確認したいというのがあったのでしょう。その中で、海外に行くという話があった時に飛びついたと思うのです。本来は尊王攘夷で国力を高めるためには、国という枠の中から異分子を放り出せという思想でしたが、その異分子だった西洋を認めると、その力の源泉がどこにあるのかを知りたかったのだと思います。
 パリ万博とヨーロッパ訪問で、外国の国王と商人が対等に接して豊かな社会を築いているのを見て、階級制の打破と実業の地位向上の必要性を痛感しました。民でも、国のために自分で取り組めることが結構あるのだなと、スイッチが入ったようです。これは今の日本の若い世代に大切なメッセージだと思うのは、人間は自分に対して甘いので、一番居心地のいい場所、コンフォートゾーン、安全地帯にいるわけです。安全を人間が求めるのは本能なので、それを否定するものではないのですが、常にコンフォートゾーンに留まっていると、枠が相対的に小さくなってしまいます。日本のGDP(国内総生産)は、30年前の枠と今とで殆ど変わっていません。30年前、我々はシンガポール・香港へ行って買い物をすると「安いね」と言ったけど、今は逆に彼らが「安い」と言って来日する。枠の中だけだと気づかないのですが、枠の外の視点を得ると、日本が相対的に小さくなったことがわかります。
 約20年前に村上和雄博士(筑波大学名誉教授)という遺伝子の権威の『生命(イノチ)の暗号』(サンマーク出版)という本が強く印象に残りました。その本には「人には98%もの眠ったままの遺伝子が存在し、それを目覚めさせれば、スイッチ・オンの生き方になる。そうするために自分をいい環境に置こう」と書いてありました。極めてシンプルだけどすごく本質的なことだと思いました。私も日本で生まれ育ちましたが、アメリカへ渡ったことで違う環境に身が置かれたため、また日本に帰ってきて異なる環境変化の元で、いろんなスイッチが入ったと思います。
 だからあの明治の時代には江戸時代がずっと鎖国でいろんなスイッチがオフになっていた状態を、栄一も含めて海外に出た若者たちがいろいろスイッチが入った状態で帰国して、日本の国家・社会の近代化を築いてくれたわけです。
 今の時代に当て嵌めてみると、自分の置かれた立場の枠から外に出ることによって見えなかったものが新たに見えてくるという可能性があると思います。枠の外側へ出るということは、枠の内側の否定ではなく、いろんな視点を枠の内側に呼ぶ込むことにより、新たな「化学反応」を期待することです。
 栄一は、好奇心と行動力によって、常に自分の目的を達するために新しい場所を求めていったという感じがします。それによって常に新しいスイッチを入れ続けた人間ではないかと思っています。
 これは、特にこれからの社会を担う若い世代にすごく大切なことです。ずっとこうしてきたからもうこれでいいではないか、自分達の世代の上にうるさい人達がたくさんいるからもういい、と言いながら、自ら自分達の限界を作っている。それに気づいてほしいです。
 日本という枠組みの外の世界を見ると若い世代の方が多いことに気づくはずです。その新しい時代の環境、新しい価値観によって、新しい成功体験を積み重ねられるのが若い世代です。

 ――栄一翁の孫の敬三翁は終戦時に大蔵大臣を務めていましたが、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の財閥解体令を受け容れ「ニコニコしながら没落していけばいい。いざとなったら元の深谷に百姓に戻ればいい」と述べました。深谷は渋沢家にとって特別な場所ですか?

 渋澤 深谷は栄一の故郷ですから、そういう意味ではもちろん特別な場所です。ただ私は1963年に亡くなった敬三と直接話したことがありません。敬三の弟が私の祖父です。私の祖父は終戦後に病気で亡くなったので、ある意味、青年であった父の父親代わりだったのが敬三です。だから父は敬三宅に出入りしていろいろご指導いただいたようです。敬三の長男・雅英は94歳で健在で、前述の通り渋沢栄一記念財団の理事長を務めています。
 栄一はいろんな事情によって長男の篤二を廃嫡し、孫の敬三に意志を継がせました。が、敬三は本当は学者肌でした。民俗学をライフ・ワークとしていて商人精神や財に対する執着がなかったのかもしれません。

「と」の力は
AIに勝る

 ――先日の講演会では「論語と算盤」の「と」に意味や力があるとおっしゃいました。

 渋澤 「か」の力は「or」の関係です。0か1か、黒か白かと比べて進めることができるので、区別選別を進め、効率性を高めます。だから、組織運営には不可欠な力です。物事を分析するときにも当然「か」の力がすごく大事だし、日常生活、買い物行くときも値段を比べたり商品を比較するために「か」の力は必要です。
 けれども、「か」の力だけだと、既に存在しているものを比べているだけです。つまり、「か」の力だけだとクリエーション、新しい創造がありません。
 一方「と」の力は、「and」の関係です。でも、「と」の力は、一見矛盾、無理、無駄に見えます。「論語」と「算盤」をどう合わせるか。そんなことはきれいごとだという反応もあるでしょう。
 でも、そこで思考が停止してしまうのであれば、「と」の力が少し足りなかったかもしれません。私がイメージしている「と」の力というのは、一見矛盾でフィット感がない二つの関係を諦めることなく、忍耐強く、試行錯誤を繰り返す。そうすると、とある瞬間、この角度、この動作であればフィットする。そのような瞬間が訪れるかもしれない。
 その組み合わせは前に存在していなかったことなので、そこに新しいクリエーションができたといえるわけです。効率を高めることの否定をすべきではありません。ただ、効率性だけを考え、無駄や矛盾を排除してしまうと、実はその中に、新たないろんな創造のヒントがあるかもしれません。
 我々の日常生活の中でも、いろいろ計画をして物事を進めるのがあるべき姿ですが、物事が急にポンっと飛躍する瞬間は、意図していない、計画していない場合が多いです。素敵な偶然に出会ったり、予想外の関係から新たな関係が生まれることを「セレンディピティ」と言います。科学的な実験でも、意図したことと全然違うところに物質が出現し、「なんだこれ?」と考えてみると、そこに別の新しい発見ができているというケースもあります。
 効率性だけで生命が進化できるのであれば、自然界は効率性で繁殖したと思います。けれども繁殖にはすごく無駄が多いですね。一つの卵子に精子を一億ぐらいばら撒く。そして、たったひとつの一番目の精子がピンポイントに卵子とマッチングして新たな生命が宿る。クローンを使う方が効率的ながら自然界の繁殖はそうしなかった。それは、たぶん環境が変化した時に、それまでの強い種が絶滅してしまうかもしれないからでしょう。「無駄を作る」ことの方が、変化に対応して進化できる。「と」の力からは、このような実態も見えてくると思います。
 また、話題になっているAI(人工知能)ですが、決して万能ではない。なぜなら、AIは「と」の力を持っていないからです。AIのアルゴリズムとはビックデータによる全ての情報を得て、少し先のところを予測して、また全部知ってまた次のところを予測しての繰り返しというデジタルの「か」の力です。
 AIの「か」の力の情報処理スピードは人間を遥かに超えていて、これからも高速度するでしょう。でも、AIはデータや前例がない見えない未来を信じる力を持っていないのです。見えない未来へ飛躍して現実に結び付けることこそ、AIが持っていなくて、人間にある「と」の力です。
 AIが「か」の力しか持っていないということは、クリエーションができないということです。人間は前例やデータがなくても、「これかも?」と言えるわけです。全部知らないし前例がないなら、当たらない場合が多いです。けれども、時々それが的中するわけです。当たるということは、今いた現実から新しい現実を作って繋げたわけです。これが「と」の力、人間しか持てない人間力そのものです。

 ――「と」という一つのひらがなが……。

 渋澤 逆にデジタル社会なので、ある意味アナログを求められることもありますね。だからそれと似たような関係もあると思っています。デジタルの「か」の力というのは情報伝達にはすごく便利なものだと思うのですが、それだけでは化学反応が起こりません。しかし、「と」の力だと、新たな環境によってオフになっていたスイッチが入って、新しい価値が生まれる。
 また、「ダイバーシティ(多様な人材を積極的に活用すること)」から期待できることは「と」の力による新たな化学反応です。その新たな化学反応を繰り返すことによって、新たな環境に適応できる持続可能性が高まるのです。

渋沢栄一の合本主義は
ステークホルダー資本主義

 ――足し算が掛け算にもなったという話もありますね。

 渋澤 栄一が明治6年(1873)に第一国立銀行という日本で最初の銀行を設立した時、銀行はスタートアップのベンチャーでした。それまで日本人が見たこともなかった銀行というスタートアップの存在感を伝えるために栄一が株主募集布告で使った喩えがありました。「銀行は大きな河のようなものだ。銀行に集まってこない金は、溝に溜まっている水やポタポタ垂れている滴と変わりない。折角人を利し国を富ませる能力があっても、その効果はあらわれない」。
 ここから読み取れることは、お金は資源ですが、それが一滴一滴ずつ垂れ流し状態になっていればあまり力にならない、と。それが銀行に集まって流れ始まれば原動力があるということです。
 では、なぜ「滴」が銀行に集まってくるのか? そこに「共感」があるからです。その共感とは自分のお金を大切に保管してほしいという利己的な共感です。だけど、その共感によってそういうお金が集まり、それが経済社会の発展に役立つ流れをつくります。
 ただ、集まるだけでは流れという動きは生じません。なぜなら集まっても、そこには濃淡や強弱、得意不得意、長所短所とか凸凹感があります。だけど、お互いが不足していることを補う「共助」が生じれば、凸凹感がなくなり、事が動き始めます。
 共感、共助を合わせれば物事が回り始める、つまり、足し算ができているということですね。足し算がきちんとできているのであれば、次のステージである掛け算も可能になります。その掛け算とは「共創」です。
 栄一は「日本の資本主義の父」と言われていますが、本人は資本主義という言葉は使っていなくて、「合本主義」と表現していました。その合本主義とは「共感によってより集まって、共助によってお互いを補って、そして今日よりも良い明日を共創すること」。これが、栄一がイメージした合本主義で、日本の資本主義の原点です。
 だからさっきの一滴一滴の滴とは、お金の意味だけでなくて、想いや人材にも適用できます。栄一がたくさん会社を設立した理由は、一滴一滴では微力な民間力を「合本」によって、日本の国力を向上すべきと考えたからです。
 企業価値の創造とは経営者だけでも、もちろん株主だけでできるものではありません。当然ながら経営者も必要だし株主も必要ですが、社員も顧客も取引先も、その全体の社会も必要です。つまり、各ステークホルダーが共感によって会社というところにいろんな形で集まってきて、お互いの役目の共助を果たし、価値を共に創っているのです。
 栄一の合本主義を今の言葉で表現すれば、それは「ステークホルダー資本主義」だと思います。普通の資本主義のイメージというのはシェアホルダー、株主資本主義であってお金を持っている人が支配して、格差を生むようなイメージがあります。
 ただ、最近アメリカでさえ、財界グループ「ビジネス・ラウンドテーブル」が「これから我々は株主価値だけでなくステークホルダー価値もきちんと見ていく」と提言しました。本人達が本当にそう思っているかどうかはわかりませんが、時代の流れが要求しているのは明らかです。
 株主だけではなくてステークホルダーの価値も大事であるということは栄一が約150年前から提唱していた合本主義そのものだと思います。ある意味新しい資本主義の在り方というよりも、原点回帰です。

 ――栄一翁は岩崎弥太郎とよく比較されます。弥太郎が三菱財閥を形成したのに対し、栄一翁は若い時から「機会平等」を考え世の中のために尽くしたということですか?

 渋澤 弥太郎さんと栄一の違いがよく指摘されるのですが、実は結構似たところが原点にあると思います。二人が若い頃は封建時代の階級制度が日本社会の秩序を保っていました。ただ栄一は農民であって武家ではなく、汗を流して稼いだお金を大した働きをしていない役人が横奪する階級制度にフラストレーションがありました。弥太郎さんは武家ながら下士で、上士には絶対逆らえませんでした。どんなに理不尽なことがあっても身動きできない前の時代に二人共に怒りを抱えていた若者だと思います。明治維新によって社会秩序がガラガラポンになったことを好機に、二人はその怒りを良い形で発揮できて日本の近代化に貢献したと思うのです。
 間違いなく、栄一は弥太郎さんを敬遠していたわけではなく、東京海上保険(現・東京海上日動火災保険)など日本初の保険会社などの設立にコラボレーションしています。けれども、考え方の違いもありました。弥太郎さんのお考えは、才能がある人物が経営でグリップを効かせて資本で支配すべきだと考えていたと思います。その方が効率的な経営になるからで、同じような考えを持つ経営者は現在でも存在しています。
 ただ、栄一の目的は「家の繁栄」ではなく、「国の繁栄」でした。そこに、考えの違いがあったのでしょう。

 ――三菱は財閥になりました。

 渋澤 三菱は2代目・弥之助、3代目・久彌、4代目・小弥太と後継者に恵まれたと思います。それがあって三菱グループを形成できたのでしょう。栄一は、商才に長けた後継者には恵まれなかったことも二人の違いかもしれないですね。

「Made with Japan」
世界に協力していこう

 ――日本はますます少子高齢化が進んでいきます。昨年訪問されたアフリカは人口が爆発し、2050年頃には世界の4人に1人に急増するとのことですが、これから世界はどうなっていくと思われますか? また、日本や日本人への提言も含めてお願いします。

 渋澤 今の時代に栄一がいたら間違いなくアフリカに進出していると思います。アフリカが求める技術やノウハウ、経験、制度を日本が持っているからです。アフリカはこれから現在の約13億人の人口が倍増して一番増える大陸、日本はこれから減少する。この組み合わせはいいはずです。負の歴史を持っていないですから。
 封建時代から近代化し、また、敗戦から経済大国を築いた日本は素晴らしい成功体験を持っています。けれども、過去の成功体験という枠の内側に留まろうとすると、未来の成功体験が描けません。
 過去の成功体験の「Made in Japan」が貿易摩擦等で否定され、海外の工場で製造する「Made by Japan」になりました。ただ、これから求められるのは「Made with Japan」だと思います。日本と共に創るという新たな成功体験です。
 アフリカの持続的な成長に、衣食住や水・衛生・健康・教育という人間生活にとって基本的に必要とされるものに加え、重要な社会的課題は雇用です。失業率が2割以上の国々が多く、また、若者が多くて失業率が高いことは不安定要素へと繋がります。
 だからそこは日本としてアフリカで雇用を創造するなど協力できることはたくさんあると思います。アフリカだけではなくて、世界の多くは日本を求めている。けれども、そこに日本のプレゼンスは高くありません。しかし、そのような日本人が存在していないわけでもない。
 アフガニスタンで銃弾に倒れた中村哲医師(元ペシャワール会現地代表)は現地で本当に素晴らしい活動を展開されました。その偉大さに気づいたのは、私を含めて、多くの日本人は今回の悲劇の後からだったと思います。中村医師の意思、想いを継ぐことも必要だし、同じように世界で活躍している日本人もいる。私達は、日本が世界でもっと貢献できることがあるということに目を向けるべきではないでしょうか。それが我々の未来の繁栄へと繋がるのではないかと思います。

プロフィール

渋澤健(しぶさわ・けん)氏

1961年3月18日生まれ。1969年、父親の転勤で渡米。1983年、テキサス大学卒業。財団法人日本国際交流センター入社。UCLA経営大学院卒業。ファースト・ボストン証券会社(NY)入社、外国債券を担当。JPモルガン銀行(東京)を経て、JPモルガン証券会社(東京)入社、国債を担当。ゴールドマン・サックス証券会社(東京)入社、国内株式・デリバティブを担当。ムーア・キャピタル・マネジメント(NY)入社、アジア時間帯トレーディングを担当、東京駐在員事務所設立。2001年、シブサワ・アンド・カンパニー株式会社を創業し代表取締役に就任。2007年、コモンズ株式会社(現・コモンズ投信株式会社)を創業し代表取締役に就任、現会長。公益社団法人経済同友会幹事アフリカ委員会副委員長・政策審議会委員、外務省SDGs達成のための新たな資金を考える有識者懇談会座長、UNDP(国連開発計画)SDGs Impact運営委員会委員等現任。著書は『渋沢栄一100の訓言』(日本経済新聞出版社)、『あらすじ 論語と算盤』(宝島社)、等。

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