東京・中野に一般社団法人おせっかい協会がある。会長でシンボルの高橋恵さんは3歳で父親を戦争で失ったことで、母親と姉妹の4人で過酷な人生を歩んできた。短大卒業後は広告代理店の営業で水を得た魚のごとく活躍し、結婚退職してからも様々な商品を販売。40歳で離婚。42歳で起業した株式会社サニーサイドアップでは新規開拓に持ち前の知恵と機動力を発揮し数々の伝説を生む。同社はバトンを受け継いだ長女が昨年東証1部に上場させた。現在、高橋さんは孫育ても終え、おせっかい活動に邁進している。
■ ゲスト
一般社団法人おせっかい協会会長 高橋恵さん
■ インタビュアー
旅するライター 山ノ堀正道
「3つの太陽」で
一家心中を免れる
――『あなたの心に聞きなさい』(すばる舎)がブックファースト中野店で山積みされていました。出版おめでとうございます。この本はどのような経緯で誕生したのですか?
高橋 最初に『幸せを呼ぶ「おせっかい」のススメ』(PHP研究所)を上梓しました。次の『笑う人には福来たる』(文響社)の編集の人が別の出版社へ移籍して「恵さんの話はもっと若い人に読んでもらいたい」と言って知り合いの出版社を紹介してくれました。
――お母さんの家は代々、肥前佐賀藩の藩医だったとか?
高橋 祖父が佐賀市内で吉岡病院の院長をしていました。母はきょうだいの7番目として産まれ、幼少の頃、明治の元勲・大隈重信と一緒に撮った写真もあります。その後、伝染病で家族の多くが亡くなって病院をたたみ、一家が散り散りになったと聞いています。母は最初に町長の家へ養女として入ったのですが、そこの子供よりも勉強ができたので夜になったら電灯を消されたそうで、「襖を少し開けてこもれ灯で本を読んだ。人間はどんな境遇でも勉強ができる」と言っていました。そこの養父母も亡くなって鹿児島の子供がいない家へもらわれて行きました。
――では佐賀との縁は薄くなったのですね。
高橋 戦後、母と一緒に佐賀駅から馬車で病院跡へ行ったことがあります。佐賀時代の写真は今でも何点か残っています。
――恵さんは鹿児島の産まれですか?
高橋 いえ。母は東京芝浦電機(現・東芝)の仁川工場で電気技師をしていた父と結婚したので、年子の姉と私は朝鮮半島のソウル近郊のインチョンで産まれました。私が3歳の頃、終戦前に伯母がいる広島に寄って従兄姉達と会って鹿児島へ帰ったすぐ後に広島で原爆が投下されました。
――お父さんに召集令状が来て、お母さんは相当苦労されたようですね。
高橋 父は異国の地で、僅か30歳で亡くなりました。残された母は26歳で戦争未亡人、今で言うシングルマザーとなり子供3人を抱えて生きていくことになりました。終戦後は鹿児島で病院や学校向けにパンを製造する工場を経営し、家にお手伝いさんもいて比較的順調でした。それが私が10歳になる頃、超大型のルース台風が工場を直撃し、天井が突き抜け、設備が一切使えなくなるなど大損害を被りました。母はパン工場を廃業して「お父さんの出身地、東京で暮らそう。東京だと学校もたくさんあるから」と言い出し、1952年に親子4人で上京しました。
――東京での暮らしはどうでしたか?
高橋 大田区の千鳥町の借家の一室で暮らしました。母は商事会社を始めて不渡りがあり仕事もなかなか大変だったようです。債権者が押しかけて来たときに近所で無理心中があり担架で運ばれているところを見て、母ももう生きていけないと思ったのでしょう。借りていた家の中に紐がいっぱいあって、そのとき母は「お父ちゃんのところへ行こう。お父ちゃんが会いたがっているから」と言うのです。食べるものもない、どうにもならない時に母もまだ若かったので、そういう気持ちになったのでしょう。その時、玄関に1枚の紙切れを挟んでくださった方がいて、「どうか希望を失わないでください。あなたには3つの太陽があるじゃありませんか。今は雲の中に隠れていてもいつか必ず光り輝く時があるでしょう。どうかそれまで死ぬことを考えないで生きてください」と書かれてありました。3つの太陽とは私達三姉妹のことです。多分、あの頃はみんな生活に困っていて物もお金も上げられないけどあの親子は放っておくと死ぬのじゃないかと思ったのでしょう。近所の人に救われた命です。
――お母さんから、していいこととしていけないことの叩き込まれましたね。
高橋 近所の子供達が私達三姉妹に「お菓子をあげる」と言ってきました。お腹を空かせている時だったので「えっ、本当にいいの?」と、ありがたく食べることにしました。しかし全部食べた後で、そのお菓子は近所の駄菓子屋で万引きしてきたのだそうです。家路に就くと、母が鬼の形相で私達3人を1列に並べてひとりずつ、右手でパン、パン、パンと頬をぶちました。次に左手で「これはお父ちゃんの分」と言って反対側の頬をパンパンパンと叩きました。容赦なくとても強烈なのです。そしてたくさんのお説教をした最後に、姉へ「天知る、天が見ている」、私へ「地知る、大地が見ている」、妹へ「我知る、自分が一番知っている」と、ひとりずつ指を指し、「このことはよく覚えていなさい」と言いました。
後で「天知る地知る我知る」を調べると中国の後漢の時代の楊震が賄賂を断る際に述べたそうです。母は「どんなに貧乏になっても心まで貧乏になってはいけない」ということを言い続けました。当時は万引きや盗みが頻繁にあって鹿児島にいる時も工場のために薪割りを頼んだ人が作った薪を自分の家にどんどん運んだりしていました。私は2階の窓から見ていて、後から「あのおじちゃんがみんな持っていった」と母に伝えました。ラジオも誰かが質屋へ持っていったこともあります。生きるために大変な時代でした。その時も言われました。私も子供や孫達に「天が見ているでしょ」と伝えると効き目がありました。
「大空を羽ばたく鳥になる」
と決めた原点が14歳の夏
――さらに生活が困窮して次女の恵さんだけ別の家で暮らすことになったのですか?
高橋 いえ。妹が先に広島の伯母の家に連れて行かれる日、私は自分がいない間にいなくなるのは嫌だと思って妹と私の腕を鉢巻きで結んだ記憶があります。妹は「汽車に乗れる」と言って喜んで行きました。私は心を鬼にした母から「埼玉の知り合いの家が学校へいかせてくれると言うから行きなさい。早かれ遅かれこれからは女子も学問をちゃんとしなければいけない」と言われたのです。姉は母の面倒を見るために残りました。
――お母さんの面倒を?
高橋 母も気弱になり、手のかかる私達を手放しました。みんなでバラバラになってそれぞれ頑張ろうとなったのです。戦後大変な時代だったので学校に行かせてくれると言っても、その家の小さい子供達の面倒を見たり、朝晩の氷水のように痛くて冷たい水での雑巾がけ、秋田犬の散歩をしたりしました。夜に勉強をしていれば「まぶしくて寝られやしない」と叱られ、布団をかぶって勉強を続けて段々悔しくて泣いてしまうと、今度は「うるさいね、何時だと思っているの? 嫌だったら出て行きなさい!」と怒鳴られました。お腹いっぱいご飯を食べたくてお替わりしようとすると「いやしい子だね」と言われるので、お茶碗を持つ手の反対の手で必死に押さえたのを覚えています。その家で飼っていた秋田犬には餌とは別に牛乳を1日に2本も飲ませていました。その時、自分がどうしても飲みたくて少し飲もうかなと思った時に母の声が聞こえてきたのです。「天が見ていますよ、大地が見ていますよ、あなたが一番知っているでしょ」と。誰も見ていないと思って一度飲んだら毎回のように飲んでいたかもしれません。それを戒めてくれた言葉です。秋田犬には「ごめんね。飲もうとして」と言って泣きながら頭をなでた光景、親からきちっと言われた言葉は残るのだなといつも思い出します。
――お母さんの言葉が人生訓になったのですね。「大空を自由に羽ばたく鳥になりたい」のお話を教えてください。
高橋 その家の小さい子供に教科書や勉強道具を隠されどこへいったか探していると、養母から「なんで大事なものをきちんとしないの!」と言って叱られました。これからはちゃんとしまっておこうと思って納戸の古い簞笥の一番下がスカスカに空いていたので、風呂敷に包んだ教科書等を入れさせてもらったのです。それを事前にお願いすればよかったのにしなくて、おばあさんに見つかりました。近所のお年寄りが遊びに来ていて「怒らなくてもいいじゃない?」と言う声を遮るかのように「ここをなんで勝手に使った?」と責められ入っていた荷物の風呂敷の紐をほどいて私の頭にバーンと投げ落としました。私は人前でやられたことがすごいつらくてトイレから出てこられないぐらい泣いて泣いて。
やっと外へ出た時に大空で羽ばたく鳥が見えました。鳥だって自分で餌を食べて生きているのだから私も「大空を自由に羽ばたく鳥になりたい」という思いで過去を忘れて前を向いていこうと決めた原点が14歳の夏でした。
――とてもつらい思いをされましたが、大空を自由に羽ばたく鳥がいて心が少し晴れましたね。埼玉にはいつまでいたのですか?
高橋 そんなに長くいません。私は早く出たかったのです。母のところへ帰りたかったのですが、妹も人の家にいるからと思って言い出せませんでした。お正月に1回だけ帰らせてもらったら妹が母と姉と一緒にいました。母から「良くしてもらっているか?」と問われても、私はいじめられていると言えなくて「うん」と答えました。本当は帰りたい。だけど私がこの家へ帰ってきたら母はもっと苦しむと思ったのです。あの頃、母は倒れたり、血を吐いていたこともありました。私が正月明けに埼玉へ戻る時、母が「いたかったらいていいのよ」と言うのですが、私が「学校があるから」と言って出て行きました。母が嗚咽で泣いている声が家の外からも聞こえてくるのです。姉が追いかけてきてくれたのに、街灯が暗い中を私がとっとと先を急ぐと、「ごめんね、ごめんなさいね、あなたには苦労を掛けて」と言って泣くのです。私は振り向いて「どうして泣くのよ。泣きたいのは私の方よ」と言いながら東急池上線の電車に乗りました。蒲田駅で乗り換えた京浜東北線の灯は薄暗く、傷痍軍人が乗ってきて「悲しいことがあったの? おじちゃんは戦争で両脚を失い義足だ。家族もいなくなった」と話しかけられたことを覚えています。埼玉から出たのは中学卒業時です。
――後年、意地悪をしたおばあさんと再会されたとのことですが。
高橋 それから十数年経った時、人づてにそのおばあさんが危篤だという話を聞いて、三食とかお世話になったことは事実なので病室を見舞いました。その際、「当時はすまないことをしましたね」と詫びてくれました。その時、どんな人でも他人を傷つけたことに罪悪感を持っていて、後悔としてずっと残っているということがわかりました。
家に戻ってから母が「借金をするから私立高校へ行きなさい」と言うので大喧嘩しました。私は「お金が大変で人に迷惑を掛けていなくてこんなに我慢しているのに。自分の力で行く」と言って本屋さんでアルバイトをしながら高校へ行きました。姉に「どうしても修学旅行へ行かせてあげたい」と行って本屋でアルバイト代を前借りして渡すと泣いて喜んで「私が働いてあなたを必ず大学へ行かせてあげる」と言って高校卒業後、三菱化成工業(現・三菱化学)に就職して短大の入学金を出してくれました。家族で保養所へ行った時、姉の上司から「お姉さんのあの(炊事・洗濯で)荒れた手を見て、成績を見て、人柄を見て決めました」と言われました。
――高校生の時、韓国籍の非行青年の更生にも協力されたとか?
高橋 日曜日や春休み、夏休みにBBS(Big Brothers Sisters Movement)の活動を行ないました。少年少女達に同世代の兄や姉のような存在として、一緒に悩み学び楽しむボランティア活動です。非行少年の面倒を見たり、保護司さんのところへ行ったり、私はフル回転しました。このの運動が今廃れ気味なので盛り上げていきたいと思っています。その頃、ハーフの子が多く、そういうつるんでいるグループの子のところを一軒一軒訪ねたり、面倒を見たり、家へ呼んであげたりいろんなことをしました。最後に大喧嘩になったとき私が爆発して「もうこれ以上、面倒を見られない。出て行く!」と言った時、後ろから包丁を喉に突きつけられて死ぬかと思ったら「もっと悪い人間がいる。行かないで!」と言われました。あの頃、よくこんな活動をしていたなと思います。
応募した「あしあと」が
TBSドラマで放映される
――短大ではどんな勉強をされたのですか?
高橋 経済と経営です。日商の簿記3級はすぐに受かりました。
――卒業後は?
高橋 最初は東京ラジオプロダクションへ2カ月ほどいたのですが、もうラジオからテレビの時代に移行していて倒産寸前で、放送局の人が広告代理店に推薦してくれました。簡単な試験と面接があった際、「総務や事務系は申し訳ないけどしたくない。私がやりたいのは営業です」と言って入社しました。営業職が50人ぐらいいた中、女性は私ひとりです。その中で私が仕事を受注してくるので部長が「次原(旧姓)を見ろ。こんなに若くてもちゃんと頑張っている」とみんなに発破を掛けるので申し訳ない思いでしたが、ただ一所懸命やればできたということです。
それでも2年後に職場結婚して会社を辞めることになり、「これから女性もサラリーマンに嫁ぐのだったら絶対に手に職を持たないといけない」と肝に銘じたわけです。外国人の重役は「メグミ、タッパーウエアを売ったら絶対に成功するから」と言って溜池の本社ビルへ連れて行ってくれました。それが個人で行なう最初の営業です。ありとあらゆる工夫や努力を重ねました。コネがなくても行動力で、常識がなくても情熱で、知識がなくても知恵を働かせればものが売れる。人の心が響いたら何でもできるとしっかり学んでPR会社を設立した時は自分でできるという変な自信がありました。
――広告代理店とPR会社はどう違うのですか?
高橋 広告代理店はお客様の放送や出版、イベント等の広告を請け負い、制作から納品までを行ないます。それに対してPR会社はテレビ番組や雑誌に自社のタレントや依頼のあった製品を売り込むわけです。広告代理店のようにスペースを買わないでニュースや記事にしてすごい力を発揮するのが面白いと思ったわけです。それに取り組むきっかけは最初の会社の同僚のPR会社へ遊びに行った時です。そこでいろいろ仕入れた情報を基にTBS「東芝日曜劇場」のドラマのあらすじに応募したら2万人の中から入選しました。翌年の20周年記念にも出したら6,000人の中で入選しました。2回しか出していない私が2回とも佳作で入選したのは相手にどう言えば響くかを営業に学んだからです。プロデューサーの石井ふく子さんから後々呼ばれて「私はみんなの中であなたの作品が一番気に入ったので特別にドラマにします」と言われ、「あしあと」のタイトルで放映されました。台本にも新聞にも「原案:高橋恵」と入れてくれました。
次に自分でも脚本が書けたら楽しいのではないかと思ってシナリオ作家協会で半年間勉強して、NHKのドラマに選ばれたりしました。話し方もうまければ面白いだろうということで江川ひろしの話し方教室へ通いました。上野や新宿とかいっぱい教室がある中、ここでも大手町の農協ホールで優勝することができました。気がつくと相手の審査員がどう思うか、どうしたらいいかと考えたらみんな通るのです。ここでも営業のスキルを生かしました。自分を売りたいと思っても、相手の心に響かないといけません。これは心理学とかの学問を学ばなくても体験したからわかるのです。
――いろいろな分野に秀でているのですね。
高橋 TBSのドラマのあらすじはたった5枚なので大したことないです。ただ応募したときも、石井ふく子さんが選ぶのに50作品ぐらいに絞られているので、まず人を惹きつけないといけません。「あしあと」というタイトルなので足の形を筆ペンで綺麗に描きました。インパクトがあるように工夫するのです。
「認識即行動疾走せよ」
石橋も叩く前に渡りきる
――40歳で離婚し、42歳でサニーサイドアップを創業されました。
高橋 私の場合、母がシングルマザーで苦労したので、万が一のためにせわしく営業で動いたわけです。夫は「男は外で働くので家で威張り、女は家事に専念するのが当たり前」と思っていて、私にいちいち「晩ご飯が遅い」「洗濯の干し方が悪い」「風呂の水が溢れている」と文句を言うだけなので、「自分でしてください」と返すと収拾がつかなくなるのです。これではとても結婚生活を続けることができないと思い離婚したのですが、まだ小さかった次女には可哀想な思いをさせました。会社は中野駅南口の自宅ワンルームマンションでのスタートです。二人の娘のためと思って法人化したのですが、最初から手伝ってくれた当時高校生だった長女が役員となり、8年後から社長を務めています。
――サニーサイドアップの社名の由来は?
高橋 いろんなアイデアを出しました。私が「陽の当たる時に朝日が出る」「誕生して可愛い」とかのイメージを伝えたところ、長女が「卵の片面だけを焼く目玉焼き、表面は半熟」という意味の社名を考えてくれました。
――創業の頃は大変なご苦労があったでしょうね。
高橋 お金がない中、借金しないで経営しました。仕事で使っていた車をレッカー車で持って行かれた時、涙がボロボロ零れました。この車があるから涙を流さないといけなかったと思いサッと売って、FAXとコピー機を70万円で購入しました。留守番電話を設定して、「ただいま、スタッフが全員出掛けております」と応答するようにセットしたのですが、本当は私ひとりでした。その後、広告代理店から電話があって「原稿を送るのではなくて手で持ってこい」と言われて車がないので重い原稿を持参したことがあります。ビルの部屋が狭いから移ろうと思っても不動産会社の社長から「サニーサイドアップという横文字の会社でしかも女社長、そんなわけのわからないところに誰が貸すか?」と平気で言われました。私はいじめられればいじめられるほどもっと大きいところへ移ってやろうと闘志に火がつきました。
――名だたる企業にアプローチされました。どんな営業スタイルだったのですか?
高橋 104の電話番号案内で調べて片っ端から電話しました。カツラの会社の社長に会いに行った時です。「広告代理店に勤めていました」と切り出すと、その社長が「電通PRセンターを気に入っているので大丈夫だ」と言われ、誤ってカッターナイフで指を切られました。普通だったら手で追い返すようにされると怖じ気づいて退散するでしょうが、私は一風変わっているので「あの血をどうにかしてあげよう」とエレベーターを降りると薬局を急いで探して消毒液と止血薬を買って届けたのです。それがすごい気に入られ半年後、「お宅を通してあげるから」といって仕事に結びつきました。人は見返りを求めないで損得を考えなければ福が訪れるということの好例です。
――毎日放送の話もお願いします。
高橋 東京の放送局はどのプロデューサーがどの番組の担当か把握していましたが、大阪の放送局のことは全く知らなかったので一度に10人ぐらいのプロデューサーに会いに行こうと思いました。毎日放送のプロデューサーからは電話でいとも簡単に断られていたのですが、10人目に千里ニュータウンへ行って受付で「先日お電話をして『無理だ』と言って断られました次原です」と伝えたらたまたま制作室にいらして出てきて「よく来たね。断られて来た人、誰もいないよ」と言われました。その際、「私は1カ月に一度こちらに来なければいけないのです」と伝えると「行くところがなかったら飯でもご馳走するよ」と言われるぐらい話が弾みました。
で、帰りの新幹線の中で普通なら10人の名刺も揃ったからいいかと思ってビールを飲んだり弁当を食べたり寝たりするのでしょうが、そこからが私の仕事のスタートです。まず10人に片っ端から手紙を書くのです。感動した人を先にすると行間と行間に感情が滲みます。本当に嬉しかったことは相手にも通じるのです。それと旅費の精算を東京駅に着くまでに終えて、次の日の朝に速達で投函します。そうすると向こうもつい一昨日会ったような人からという具合に手紙が着くのです。大阪で最初に仕事をいただいたのが毎日放送さんでした。
私は「認識即行動疾走せよ」が信条で、石橋も叩く前に渡り切ります。時間はないのではなく作るものだと思っています。時間を狭めればどんなことだってできます。寝て帰ったりしたら翌日手紙を書いて午前中が潰れるでしょ。私が創業した時、部屋に「吾れ人に勝つ道を知らず 吾れ己に克つ道を知る」「1日を2日と思え 午前中が1日、午後は次の日」と書いた紙を貼っていました。そういう気持ちで取り組み早く終わらせたら1日分、他のことができます。そういう考えで常に前倒ししていました。昨日感想文をくれた人達には「無意識にやってしまっていることにちょっとだけ意識を向けてみてください。そしてちょっとずつでいいから工夫して変えていってみてください。人との接し方、時間の使い方、考え方、毎日ちょっとずつで構いません。人生も性格も行動の積み重ねです。行動があなたを変えるのです」とお礼の手紙を書いて送りました。そういう宇宙の銀行に心の貯金をいっぱいしておけば大変な時に必ずいいことが舞い降りてきてくると思っています。人に良くすれば他の人から返ってくる。それが人間の当たり前の姿です。
――お金を積むのでなく徳を積むのですね。
高橋 お金や物なんか限られているのです。天変地異のもとでは何百万円の指輪も何の意味もなさないと思います。
――サニーサイドアップはスポーツ選手等のマネジメント事業が伸びていますね。私は横浜DeNAベイスターズ前社長の池田純さんの講演を聴きました。どんな現役アスリートがいるのですか?
高橋 サッカー選手だった前園真聖さんとの縁で中田英寿さんと契約を結んでから本格的に始めました。他にも野球やバスケットボール、テニス、体操等のアスリートがいるようです。昔は一緒によく遊びました。
――「一生懸命楽しく働くための32の制度」には「スキルアップ制度」や「英語ペラペラ制度」はともかく「恋愛勝負休暇」「失恋休暇」などがありとてもユニークですね。
高橋 長女や若い人達が面白い制度を考えてくれているようです。
――2年前にお会いした時、サニーサイドアップは知名度が高いので既に東証1部かと思いました。
高橋 2008年にジャスダックに上場し、2016年に世界のPR会社19位(国内1位)にランキングされました。2018年9月5日に東証2部、同12月3日に東証1部へ上場しました。
――東証では鐘を撞かれましたか?
高橋 東証2部上場の時に長女が声を掛けてくれファウンダーとして鳴らしました。東証1部の時は香港へ出掛けていて不在でした。
――その時の感慨は?
高橋 長女達はイケイケで、私は歳が歳なのでそんなスピードで大丈夫だろうかと心配でした。私なら東証1部までの上場はできなかったと思います。
プロサーファーの一言で
おせっかい協会を設立
――その間に再婚されて香港で暮らしたとか?
高橋 サニーサイドアップでマネジメント契約している選手の私生活までメディアがいろいろ報道したり変なことを書いたりしたのが嫌で縁あって香港と上海で暮らしました。
――私は陳舜臣さんが「諸葛孔明に匹敵する功績を残している」として契丹人にしてモンゴルの宰相・耶律楚材をダイナミックな筆致で著している『耶律楚材 上 草原の夢』『耶律楚材 下 夢絃の曲』(集英社)が愛読書の1冊です。ご親戚だそうですがきっかけは?
高橋 サニーサイドアップの現場のことは長女に任せて時間ができたので「これからは中国だ!」と思って中国語を勉強し始めたときに夫と出会い、香港に行く話があり便乗しました。とても優しい人でした。偉いのは亡き夫が日本で相当苦労したのに長男が東大理Ⅱ、長女も学芸大です。隣の部屋の書庫には夫の従兄の舜臣さんの著書が占拠しています。
――2013年11月1日に一般社団法人おせっかい協会を設立し会長に就任されました。6年経ちましたが、これまでの活動と想いを聞かせてください。
高橋 「得ることよりも与えることに気づきがありますね」と言って癌で逝ったサニーサイドアップ所属の元プロウインドサーファー飯島夏樹さんに、私は猛烈に心を動かされました。「愛のあるおせっかい」の必要性から、日々あらゆる場所でおせっかい活動を行なう他、全国各地の学校、商工会議所、企業などで講演しています。世界中が「やさしいおせっかい」で溢れ、社会が笑顔でいっぱいになることを心から願っています。
――中野では具体的にどんな活動をされましたか?
高橋 フォーラムや座談会、婚活イベント等を開催してきました。中野駅北口でのゴミ拾いは毎週日曜日に実施してきたのですが、中野サンモール商店街が人を雇って始めたので8月から休止しています。
――お姉さんの現在は?
高橋 三菱化成を結婚退職して、今は茶室を設けて茶道と書道の先生をしています。姉の次女の倉本美香は元JAL国際線乗務員でコンサルティング会社勤務の夫と共にニューヨークへ在住し、日系企業や日本人アーティストのアメリカ進出のサポートを中心に行う会社「OFFICE BEAD INC」を経営しています。目も鼻もなく産まれてきた長女を将来的にきょうだいでサポートさせようと思ってか、二男二女の母親として頑張っています。ご興味があれば『未完の贈り物 「娘には目も鼻もありません」』(産経新聞出版)を読んでみてください。
――壮絶なご本のようですね。ぜひ拝読させていただきます。恵さんの今後の夢や提言をお願いします。
高橋 私は毎日毎日が必死だったから夢見る暇なく走ってきました。夢についてゆっくり考えると、この本(『あなたの心に聞きなさい』)に「二十数年生きてきてこんな話を聞きたかった」といった感想をもらったので、親がいなくて施設にいたり施設から出た子供達に寄贈したいと思っています。
それから27歳の若さで癌で亡くなったホリー・ブッチャーさんというオーストラリアの女性がSNSに「定期的に献血をしてください。1回の献血で3人の命が救えるのです。献血のおかげで私は1年間も長く生きることができました」と書いていたので、私も献血に行きました。薬も飲んでいないのに「69歳までです。できません」と言われ、もっとできるうちに足を運んでおけばよかったと思いました。若い人には積極的に献血に取り組んでほしいです。
高齢化でいろいろなことを感じています。未来の子供達が絶対に生きやすいようにしておかないといけない。それとひ弱な人が多すぎる。ビルの中にチェーン店のような学校がいくつもあって、授業中に生徒がゴロンと寝ていたり勝手に好きなことをしていて、親も対面を気にしてお金を出して通わせているという感じです。大学も無試験で入学・卒業できたとしても社会に出て働くところがないのに一体どうなるのだろうと思ったら不安になります。今もう一度、道徳教育をやり直さないといけません。あんなにひ弱な子供達が多すぎるのも、親が過保護になっているのも我慢できません。今、75歳以上のお宅を訪問すると四、五十代の男女の多くが社会に出ないで閉じこもっているらしいです。
――個人主義のヨーロッパでは子供が野垂れ死のうが気にしないで20歳になったら家から出すのだそうです。ニートは家族主義のアジアの特徴と聞きました。
高橋 私は子育てをしている親によく言うのです。子供達は社会からの預かり物だから20歳過ぎたら社会に返す。ツバメの親子は南の島へ渡りきるまで力を付けていないと途中でおんぶも抱っこもできないので墜ちたら助けることもできません。ツバメと同じように社会に出て生きる力を付けるには甘やかしてはいけない、厳しくしていかないと大変な時代になると思います。うちの孫達にも厳しく言っています。
――親も甘やかすし、学校の先生も拘束時間が多くて生徒への向き合い方が無気力だと言われています。
高橋 教師もひ弱い育ち方をしているのかもしれません。私、この間、ある大学の附属高校の教師と保護者の前で「先生の悪口を言う子を受験させないで欲しい」と言いました。教師は「よく言ってくれた」と膝を叩いていました。
私の母はそれはそれは厳しくて優しい人でした。私達三姉妹は年老いた母を競うようにして面倒を見ると言い合いましたが、妹が「私がお母さんと一緒に過ごした時間が一番短かったので任せて」と言うので託してしばらくして後、亡くなりました。世間では親を譲り合い財産を奪い合うケースがあると聞きますがうちは逆です。私も一所懸命生きてきて気がついたらあと2年3カ月で80歳です。
――未来の子供達のために我々が食い潰しているように感じます。老人医療の本人負担1割をどう思いますか?
高橋 良くないと思います。私は3割負担ですが、3年半前に降圧剤をやめたら元気になりました。3割、5割負担となると、患者が用がなく病院へ行くのを躊躇したり、薬も「これは要りません」と選ぶようになります。親は子供、国は国民を甘やかしてはいけないと思います。私自身は老人ホームへ入らないと決めています。そうするとお金も貯める必要がないのですごい気が楽です。みんなは老人ホームに行くためにお金を貯めなければいけないと言って生活を切り詰めています。なんで死ぬためにお金を貯めるのでしょうか? 年寄りがお金を残しても子供達に決していいとは思えないのでどんどん使って人生をエンジョイしてほしい。生きたお金にしていただきたいと思います。
プロフィール
高橋恵(たかはし・めぐみ)氏
1942年生まれ。3歳の時に父親が戦死し、26歳でシングルマザーとなった母親のもと、3人姉妹の次女として育つ。短大卒業後は広告代理店に勤務。同社を結婚退職後、2人の子育てをしながらさまざまな商品の営業に従事し、トップセールスを記録。その後、40歳で離婚。42歳で当時高校生だった長女と自宅ワンルームマンションで株式会社サニーサイドアップを創業。その後、長女に託した同社はジャスダック、東証2部を経て2018年に東証1部に上場する。60代は孫育てに精を出し、2013年71歳で一般社団法人おせっかい協会を設立し会長に就任。著書に『あなたの心に聞きなさい』(すばる舎)等がある。