義父を雄弁にした台湾料理
朝の部署ミーティングで、スタッフへ自分の執筆分と依頼分の原稿の入稿状況を確認する。
これは営業でいえば受注管理と同じで、無言のプレッシャーとなる。本来、毎日行なうことに意味がある。
元営業所長のわたしがK誌の現場を担当するまでは、納品先の親会社が管理会計を導入していて毎月25日に雑誌の制作代を請求することになっているにもかかわらず未納品ということが常態化していた。
そのことに対して矛盾を感じたわたしは関連・提携企業の担当者に対して「毎月末までに入稿がなければ来月号に載せることができません。再来月分に回しましょう」といって強い姿勢で臨んだ。当然、「それは困る」といった反発もありながら筋を通した。
その結果、依頼原稿の締切が早まり、発行の遅延が全くなくなった。印刷会社からは「当社の日程管理がスムーズになりました」と何度も聞いた。
11月号は全104頁だ。9月の20会場でのイベントの模様を他部署社員にも取材を要請、原稿を書いてくれている。
ただし、そのぶんの修正・戻しなどに手間どり入稿が大幅に遅れるが、なんとかすべて入稿できた。
最後に入稿した「トピックス」のレイアウトはほぼイメージ通りで、デザイナーの楢島広樹氏へねぎらいのことばをかけ家路に向かう。
帰宅すると23時すぎ。妻がまだ起きていたので、「食事の支度をしたら寝るように」と促す。わたしはTBSテレビ「ニュース23」を見ながら食事をして就寝。
翌朝、母から電話があり、妹が手伝いにきてくれるとのことだ。
夕方、お菓子のたいよう東金店で、義父母の土産を買う。「東京駅で買って手持ちして帰る」と言っていたので、「荷物と一緒に送りゃあええが」とアドバイスしたためだ。
その後、大挙して台湾料理「リトルチャイナ豊」にへ行き、ビーフン、ラーメン、酢豚、ギョーザ、チャーハン等を二人前ずつ注文。
義父は感動の声をあげる。
「本場の味じゃ! 特にギョーザがおいしい! 次回も連れてきてほしい」
本場というのも、義父は戦前の満州・旅順で生まれ、昭和24年の最後の引き揚げ船で、日本の地を踏んだからだ。もちろん北の旧満州と南の台湾で味が違うのは当然だが、中国料理という共通点を懐かしんだのだろう。
家で子どもたち全員を風呂に入れ(三男は沐浴させ)2階へ追いやると、大人たちでテーブルを囲み義父に質問する。
「ご両親はどこで知り合い、おとうさんはいつ亡くなられたのですか?」
「父親は新潟県の上越高田(現・上越市)の出身で南満州鉄道に採用され海を渡り、その後、関東軍で経理を担った。母親は広島県福山市の生まれで看護婦をしていて、父親がケガかなにかで入院したとき知り合ったんじゃなかろうか?」
義父が日本酒をちびりちびりやっていると、きのう詮を開けたばかりの一升瓶が空になった。新しい瓶を持ってきてコップへ注ぐとまた話し出す。
「父親は関東軍のころコップ酒を片手に軍の食料を検品していたくらいの酒豪だったらしい。仕事柄、食べるものには困らんかった。だが、終戦後は一転して、捕虜同然に炭鉱の鉱夫をさせられたりして、命からがら福岡港へたどり着き、日本の地を踏む直前に安心して亡くなった。母親は、父親の遺骨を抱え、高田市にある夫の実家へ子どもたちを連れて行くため汽車へ乗ろうとしたが、『なにも見も知らずの土地で暮らすより、わたしのいる尾道で一緒に暮らしたらええが』と次姉に促され翻意したらしい」
尾道と言えば林芙美子の『風琴と魚の町』が教科書に載っていた。わたしは国語の教科担任の「尾道はよそ者も受け入れる優しい土地柄だ」とのひとことがいまも耳底に残っていて、「暮らしやすいとこなんじゃろうなー」とつぶやく。
「義祖母さんは福山の実家の援助は受けなかったん?」
「母親の実家はもともと福山藩の城代家老職で明治維新後も手広く事業を行なってきたが、母親が旧満州から帰って挨拶に行ったら、長姉の婿に追い返されたらしい。三姉妹はもともとは仲がよかったが、戦争(敗戦)がひとの心も変えたんじゃろう」
少し時間をおいてわたしは妻との会話になる。
「2年前のゴールデンウィーク、仲人の越後湯沢のマンションへお世話になったとき、車で上杉謙信の春日山城址や直江兼続の直江津港へ寄って、『上越はルーツだろう?』と尋ねたら、『わたしは住んだことがないけえ、わからん』と言うとった」
「そうだったんだ。だから連れていってくれたんだ」
「前に『上越高田』とだけは聞いていたから」
義父は再び口を開く。
「数年前、証明書を取得するために市役所で『元の本籍地は高田市だ』と言ったら、『そんな市はねえがな』と返されたが、直江津市と合併して上越市になったんか?」
「昭和46年に合併したらしい。高田は豪雪地帯なんじゃろう?」
「2メートルほど積もるらしい。いまは父親の兄弟が埼玉に住んでおり、群馬の姉と交流しているくらいじゃ」
三男が「おぎゃー、おぎゃー」と泣き出すまで、妻もこれまで聴いたことがないような話で盛り上がる。
いつもは「腰が痛い」と顔をゆがめる義父。椎間板ヘルニアを押して、口数が少ないのを雄弁にした、きょうの台湾料理は大ヒットだったと秘かに思う。