音大時代に「フルートで世界一になる」という夢をクローン病という難病で奪われたさくらいりょうこさんは閉じこもりを経て、7年ぶりにフルートの演奏、講演活動を再開する。公演先で小学校2年生の男児から「先生の夢は何?」と問われ答えられなかったことで夫婦の将来の方向性の違いが浮き彫りになり離婚。神戸から大阪へ転居しオカリナ教室を立ち上げ、最初の夢「本の出版」を叶えた。現在は「グラミー賞を獲る!」の夢に向かって行動計画を立て、一歩一歩進んでいる。
■ゲスト
講演家、フルート・オカリナ奏者、オカリナ教室「リーナ★リーナ」主宰 さくらいりょうこさん
■インタビュアー
旅するライター 山ノ堀正道
通知表が「5」で
音楽の世界に入る
――さくらいさんには2011年7月10日、第50回ねっと99夢フォーラムへご登場いただき大好評でした。それ以来、何度かお会いしています。この間、フルート中心からオカリナへとシフトされました。これまでの講演回数と参加者数は?
さくらい オカリナ奏者に変身しましたね。ざっくりと1,500回、約35万人です。
――1回あたりの参加者が多いですね。
さくらい 学校で行なうと1,000人を上回ることが多いです。3,000人規模の大会に呼ばれたこともあります。
――小学校の担任の先生の言葉で音楽の世界へ入ったとか?
さくらい 小学校の時、自信がない児童の前で担任の先生がみんなに通知表を渡しながら「好きなことは一つあったらええねんで。それを夢に繋げたらいつか叶うかもしれへんで。なんでもできる人にならんでええねんで。なんでもできる人はかっこよく見えるけどな、何かやりたい時に何でもできたら迷って困るかもしれん」というようなことを教えてくれたのです。その先生が私に音楽でいい成績をくれて、私は他が普通にしかできないから音楽だけがいいというのは自分でも数字を見てわかる。私は「音楽ができるのだ」、親も「この子は音楽ができる」と思いました。その先生が私と親にサインを送ってくれたおかげで未来に繋げてもらえた。
実はねっと99夢フォーラムに出演後、その先生にお会いしたのです。先生から年賀状が届いて「みんなに会いたい」と書かれてあって、なんで私やろと思ったのですが、同窓会を行なうことにして、先生のところへ挨拶に行きました。その時、「先生が昔、こんなことを言ってくれたから音楽ができたのです」と感謝の気持ちを伝えたら「クラスに一人ぐらい何でもできる子がおるんや。オール5の子がいる。でも、その子に心の中で『お前には申し訳ないなー。お前の5を一つでええから他の人間に振ってくれー』と言いながら渡しとったのや」と説明し始めたのです。そうなると私の音楽の5は誰からもらったんやろうと思うわけです。みんなそれを聞いて「えっ」となって、大人になったらこんなん教えてくれるのだと思いました。
――さくらいさんの小学校時代は5が7%、4が24%、3が38%、2が42%、1が7%の相対評価でした。5が一人ならまだしも、40人のクラスの場合2.8人なので、さくらいさんは文句なしに5だったと思いますよ。それが2002年度から絶対評価に切り替わり、今は極端な話、全員が5でも大丈夫になりました。
さくらい その先生も相対評価だったからいろいろ苦労されたことがわかりました。
――その先生のおかげで音楽の道に進め良かったですね。
さくらい いい先生に出会えてよかったです。
英語の猛勉強で
音楽大学へ合格
――音楽はどんな楽器が好きでしたか?
さくらい 私はあまり何に関しても感動することがなかった子供でピアノを習わせてもらってもそこそこ弾けたのですが、一緒に習って熱心だった姉を越えることができなくて楽しいとは思えませんでした。でもリコーダーは吹いて楽しかったです。笛は明らかにピアノと違いました。
――どの辺が違いますか?
さくらい 吹いていて楽しい。ただ、それだけです。それほど上手なわけではないのですが、ちょっとした歌謡曲の音を取ってちょっと吹けただけでも親が褒めてくれるし友達も「すごいやん」と言ってくれるし、笛だけはよく練習しました。
――吹奏楽部の時から音大をイメージしたのですか?
さくらい 最初、吹奏楽部ではトロンボーンでした。音大に行くのは進路で悩んだ時、小学校で5を付けてくれた通知表が生きてくるわけです。親が「他のことは何もできへんし、音大へ行ったら? 笛はよう練習しとったからピアノをやめてフルートにしなさい」と言ってフルートを買ってくれました。フルートは最初、音が鳴らなかったけど、練習したら少しずつ鳴るようになって、先生が褒めてくれました。私は褒められて伸びる典型で段々楽しくなっていきました。
――フルートは高価な楽器ですよね。
さくらい 新品だと銀製で70万、金製で300万ぐらいです。中古でもそれなりにします。
――お母さんも音楽に造詣が深い方ですか?
さくらい いえ、全く。普通の専業主婦です。
――姉妹の二人とも音大へ。
さくらい 姉は自分から「ピアノをやりたい」と言いました。私は姉がいたから漏れなくピアノが付いてきたという感じです。母にしたら私より7つ年長の姉を音大に入れて何となく音大のルートがわかっていて、「お金は掛かるけど、この子も入れられへんかな?」と考えてフルートを買うなど段取りをしてくれました。
――家庭教師も付けて?
さくらい 学長が代わると大学の方針も変わるのです。「新しい学長は『英語がしゃべれんやつが音楽できるか?』と言うているから英語ができない人間を落とすかも?」という話が出てきて突然英語の試験が難しくなりました。親としては「堪ったものじゃない」ということで「英語の先生を頼んだから」と言われて、私は英語の基礎を先生からマンツーマンで猛勉強しました。宿題をしていかなかったら英字新聞を隅から隅まで読まされて、「辞書なしで訳しなさい」と言われ4時間ぐらい缶詰でした。今はもう英語をすっかり忘れましたが(笑い)。
――東京は考えなかったのですか?
さくらい 神戸市北区の鈴蘭台というちっちゃな街の子やったから、私にとっては大阪でも大都会に思えました。母からも「お姉ちゃんが大阪音大だからあなたもね」と言われて「はい、そうします」という感じでした。
――晴れて音大へ入学してどうでしたか?
さくらい みんなが上手で、私はへこんでやる気をなくして、1年生の時はアルバイト三昧でした。
――さくらいさんよりももっと上手い人がいたのですか?
さくらい 山のように。大阪とは言え関西から上手い人ばかりが来ますから。フルート科というのがあって、みんな高校時代からフルートばっかり吹いているのです。
留学を断念し
閉じこもりへ
――「クローン病」と診断された時、どう思いましたか?
さくらい 大学3年生まではお腹の調子があまり良くなくて、4年生になった時に体重が15キロ減って病院へ行くと「厚生省(現・厚生労働省)指定難病96番で一生治りません」と言われました。
――宣告されてどうでしたか?
さくらい 意味がわからなかったです。「難病」というのはドラマの世界で「死ぬ」というイメージしかなくて、「死なない難病」があるというのが理解できませんでした。それまでが健康だったので自分が病気になったと認識するまでに時間を要しました。風邪だって死にそうになるけど、そのうち治るじゃないですか? そういうものだと思って全然理解できなかった。だからショックもなかった。しかもこのクローン病は毎日下痢でトイレへ入ると30分は出てこられません。それが1日10~20回あります。毎月の通院もあちこちで検査、診察、投薬、会計にえらい時間を取られます。
――病気の影響で卒業後のフランス留学の夢は叶わなかったのですね。
さくらい 私は最近講演で昔の夢のことを語っています。なぜか自信をなくした大学だったのに2年生の時、急に「頑張るねん」と言って取り組み始め、「フルートで世界一になる!」という目標を掲げたのです。どうやったら世界一になれるかわからなかったけど自分で考え階段を作り始めました。そのとき東京にも優秀な大学がいっぱいある、優秀な学生もいっぱいいるというのは知っていました。せめてこの小さい大阪の大学で1番にならんとあかんのちゃうか? ここで1番にならんと世界一になれへんというステップを設けるわけです。一所懸命に取り組んだらフランス留学のチャンスがやってきました。そのフランスの留学先はコンクールで世界一を輩出するためにトレーニングする大学でした。そこに留学が決まったということは、私の目標とする世界一に最短でぐぐっと近づいたわけです。絶対に獲れる、夢が叶うと信じていた矢先に病気になった。病気になったよりもフランス留学を断念した方で泣きました。
――海外を断念し国内で活動していた時に腸閉塞が破裂したとか?
さくらい 世界がダメで日本でも頑張ってはいけないのに張り切って、医師から「腸が細いので、5年間食事をしてはいけない」と言われながらサンドイッチを食べたことで破裂した。実際には入院中の破裂なので生きていますが、外であれば死んでいました。痛みもすごいし、あんな恐怖は初めて体験しました。その時は真っ赤なサイレンが音はしないけれどもクルクル回っているようで、死ぬのなら早く死にたいと思いました。
――一人暮らしでずっと閉じこもっていたのはこの時期ですか?
さくらい 最も閉じこもっていました。
二度目の手術が成功
閉じこもりをやめる
――私は25年前の阪神・淡路大震災の1週間後に業界誌の特派員として神戸に入りました。いずこも土煙が舞い、阪神高速道路の橋脚と橋桁が倒壊し、神戸市庁舎の6階部分が圧潰していて惨憺たる状況でした。その時、さくらいさんは?
さくらい 私は神戸駅の近くのマンションで独り暮らししていて被災しました。周りは大変なことになっていながらケガ一つなく無事でした。人の体って不思議ですね。地震が起きた後、室内にガラスの破片が散乱していたのに裸足で外へ出て行っても平気でした。それぐらい見えないパワーが体から出たのだろうと思います。1月なのに外も全然寒くなくて、みんな家の中から出て明るくなるまでうろうろしていました。先に行列ができているので何かなと思ったら公衆電話で、家に電話したいけどお金がないなーと呆然と立ち尽くしていたら、電話を終えた見知らぬ初老の人が私に10円玉を握らせてくれたので母へ電話することができました。実家の鈴蘭台は六甲山の裏手なので、「あまり揺れなくて花瓶が床へ落ちて割れた程度よ。早く帰っておいで」と言われました。
――三ノ宮駅から新神戸駅のラインに活断層が走っていて木造で地階がない建物は軒並み倒壊していました。そのような状況で神戸駅から鈴蘭台までどのように辿り着きましたか?
さくらい 三ノ宮や長田は活断層が縦にバシッと走っていましたが、その間の神戸駅から六甲山に行く有馬街道も無事で車にガソリンも入っていたので通行止めになる前に走行しました。電話ももう少し後だったら繋がらなかったと思います。
――車は渋滞していませんでしたか?
さくらい 混んでいませんでした。無事に着けて、両親の元気な顔も確認することができて安堵しました。それで、母親が淹れてくれた温かい珈琲を飲んだりして、ひもじい思いをしないですみました。
――その後は?
さくらい 最初は何があったかもわからないし、暫くしてライフラインが通じていきました。暖ったかい飲み物を飲みながらボーッとしてテレビを点けると燃え盛る神戸市内の映像と亡くなった方の名前がザーッと挙がってくるのを見た時の感覚がすごい不思議でした。自分は閉じこもっている時に病気がつらくてつらくて手術で死んでおけばよかったと思っても生きてしまっている。震災でもケガ一つせんかった。自分の中にモヤモヤとしたものが出てくるのです。生きていかなあかんなと考え始めたのが、その頃です。それでも簡単には生きていけなくて、ちょっとアルバイトをしては体調が悪くなって再発し、あかんわと思ってまた閉じこもったりしていました。
――閉じこもりが明けたのは?
さくらい 再発により2度目の皮膚瘻の手術をクローン病の外科医で東日本一と言われる神奈川県の横浜市立病院の杉田昭医師に執刀してもらいました。それから10年後、3度目の癒着した腸管に開いた孔を塞ぐ手術は、西日本一と言われる兵庫医科大学病院の池内浩基医師にお願いしました。
――転院が良かった?
さくらい 良かったです。私はお医者さんというのは絶対的存在と思っていたし、それまでずーっと良くしてくれた病院を裏切るような形で転院して行くのはやってはいけないことのように思っていたのです。それを同じ病気の人達や看護師さんや周りの人達が「専門医にちゃんと診てもらう方がいい」と助言してくれたのです。その時の神戸の主治医も「関東へ行って日本一の治療を受けて来なさい」と温かく送り出してくれました。私は閉じこもりだから友達もいなかったし、自分に日本一の治療が受けられるとは思ってもいませんでした。それでも送り出してくれた主治医に応えないといけないと思って横浜で母も姉も来られない中、たった一人で手術を受けました。その時、執刀医には「途中で死んでもええから手術をしてください」とお願いました。あの頃、持ち前の根性みたいなものがもう一回出てきたのかなと思いました。病気もずっとこんなんやけど生きるしかないと。人を頼って頼っていても始まらへんと思って神戸へ帰ってくる新幹線はすごく清々しかったです。なんとかして働こうと希望に燃えていた。
高校生を前に
フルート復活
――7年間の社会からの閉じこもりを解いたのですか?
さくらい 7年間というのはフルートや音楽と離れてからなのでまだです。ここから社会復帰をしていくことになりました。
――社会復帰とは?
さくらい 鴻池祥肇さん(故人・元参院議員・元防災相)の事務所等でアルバイトとして働かせてもらいました。
――鴻池財閥の一族で人はすこぶるいいのに、ついつい口が滑る傾向がありました。
さくらい そうそう。でもいい方です。大変お世話になりました。
――フルート復活のきっかけは?
さくらい 私が神戸の情報誌の表紙に「元フルーティストが病気と闘い、アルバイトをしながら頑張っている」という記事を載せてもらいました。その時の友達が母親の大橋節子先生(現・IPU環太平洋大学学長、学校法人創志学園副理事長)という方に「こんな人がおるねん」と言って話してくれました。その情報誌を見た大橋先生は「この子は絶対に夢を持って生きていくはずや」と言ってくれたそうです。大橋先生は表現教育によるレジリエンス(精神的回復力)強化や不登校の学校回帰の権威で、神戸元町に本部がある創志学園でいつも高校生のことを考えていて、閉じこもりだった私のことも気に掛けてくださったのだと思います。お会いした時、「あなた本当はフルートを吹きたいのでしょう?」とズバッと本質を突いてこられ、芦屋市立ルナホールで高校生を前に20分ほど時間をもらったので、「少年時代」という曲を吹いたりトークしました。
――創志学園は岡山ではないのですか?
さくらい 岡山の創志学園高校は硬式野球部が強いところでしょ。私が公演したのは広域通信制の創志学園クラーク記念国際高校です。本部は北海道深川市で、芦屋にもキャンパスがあります。クラーク記念国際高校硬式野球部の佐々木啓司監督は駒大岩見沢高校時代に甲子園へ12回導いた名伯楽です。創志学園高校とダブルで甲子園出場を果たすのを楽しみにしています。
――校長はプロスキーヤーで登山家の三浦雄一郎さんですね。
さくらい そうそう。大橋先生が「うちで働きなさい」と言ってくださって、芦屋キャンパスで1年間、音楽の講師を務め、その後、大橋先生のもとで企画のお手伝いをしました。雄一郎さんが70歳でエベレスト登頂の時は生徒や財団に向けて情報を発信する仕事に就いたので、それから仲良くしてもらっています。あの方、平生でも5キロのウエイトを装着して歩いていらっしゃって、私に「君は5キロは無理だろうから1キロを付けて歩いたらいいよ」と言われました。
――私は雄一郎さんに3回、次男の豪太さんに2回、講演を依頼したことがあります。
さくらい 最近は雄一郎さんにも長女の恵美里さんにもお会いしていません。鴻池さんのお葬式の日に当時の秘書さん達が大勢議員になっていて、「頑張ってるんやー」と言ってくださいました。その後、私を応援してくれていて生きてきた時間が無駄ではなかったのだなと思って嬉しいです。
――さくらいさんは縁を活かす方ですね。
さくらい そのことを意識はしていませんが、大体何年かごとにお会いする方が多いです。不思議ですね。
「先生の夢は何?」に
触発され独り立ちする
――35歳で結婚し49歳で離婚されました。
さくらい 離婚は「自分の人生を生きたかった」というのが大半の理由です。すごくいい夫で、私の一番しんどい時を支えてくれ、14年も一緒にいたけど、離婚の4年ぐらい前から思い悩むようになりました。ある小学校の講演会で2年生の男児が「先生の夢は何?」と聞きに来てくれたことがきっかけです。私の目をすごい開かせてくれました。講演会で「夢を諦めなかったら叶うよ」「あなた達の夢は何?」と言っている私に「先生の夢は何?」と尋ねられたのに答えられない私が夢をみんなに語っているのはおかしいと思った。私はずっと先を見て考えたりするタイプで、彼は今のことが中心です。そこら辺がずれ始め、最終的には歩く道、生き方の二人の路線が大きく違ってきたのです。
――旧姓に戻って活動するようになりました。おじいさんの櫻井庄五郎氏は戦前の沖縄県那覇市内で手広くサクライ洋品店を経営されていたとか?
さくらい そうそう。祖母の家が那覇で大きな商売をしていて、その流れで洋品店を興したらしいです。
――神戸へ移ったのはどうしてですか?
さくらい 戦時中に沖縄が空襲を受けて祖父は家族と大金を船に乗せて四国を目指すと、他の船は全部魚雷で沈められました。それを眺めながら鳴門の親戚を頼るのですが、敗戦翌年の1946年の新円切替で持っていた紙幣が突然紙屑になってしまったショックで脳梗塞になりました。父は日本郵船に入社して神戸で暮らすようになりサラリーマンとして家計を支え、そこへ嫁いだ母が祖父の面倒を見たわけです。
――お父さんから那覇や鳴門時代の話を聞きましたか?
さくらい 父が全く話をしてくれないので聞いていません。全国で講演をさせてもらった中で戦没者追悼式典の講師として声を掛けられました。戦後20年経って産まれたからしゃべれないと思ったのですが「とにかく話してください」と言われ、母に「何か知らん?」と尋ねたら祖父の話がいっぱい出てきたのです。初めて聞いてびっくりしました。その後、沖縄へ講演で行った時、琉球新報社の記者の方にそんな話をしたら「おじいさんは那覇商工会議所の会頭をしていたらしくて検索したら一発で出てきますよ」と言われました。その時、父親の友達や「あなたのおじいさんの会社で働いていた」と言う方とかいろいろな人が会いに来てくれてビックリしました。
――櫻井姓に戻って、おじいさんのためにもV字回復しないといけませんね。
さくらい V字回復したいのですが難しかった。自分で選んだはずなのに孤独で非常につらかったです。いろんな思い出が頭を巡るのです。思い出ってこんなにつらいのかというぐらい。自分が大事にしていることが崩れていってしまうような。それでも「人生を変えるなら住む場所を変えて、時間を変えて、付き合う人を変えて」と言うじゃないですか。だから前を向いて生きようと思って神戸から淀川を越えて大阪に引っ越しました。知り合いがいない大阪へ来て右も左もわからなくて、これからどうしていこうかと思って押し潰されそうになりました。それでも自分の人生を生きたい、夢を持って生きたいというのがあるから後ろには戻りませんでした。
オカリナ教室で
吹けると楽しい
――夢の実現に向かって、まず何を着手しましたか?
さくらい まず友達にホームページを立ち上げてもらってオカリナ教室「リーナ★リーナ」を開始しました。でも、始めたはいいけど生徒さんは誰もいません。友達が私が困っているだろうと思ってちょこちょこ習ってくれて、申し訳ないなーという思いでした。その中で私は「オカリナ教室の生徒さんを100人にする」という目標だけは決めていました。すぐ100人になりましたが、1回目はなかなか上手くいかず崩壊してやめていく人が多かった。その後、内容を見直して月1回にすると生徒さんからも「楽しい、楽しい。待ち遠しい」と言っていただくようになりました。さらにYouTubeに動画を載せたら再生数がものすごいことになり生徒さんが「さくらいさんを見に行きたい」となって生徒さんが急増しました。
――オカリナは素人でも簡単に吹けるのですか?
さくらい 習わなくても吹けますが、フーフーフーフーと雑音です。それがフルートと同じできちっと上手に吹けばいい音が出ます。1、2回だけでも教わったら全然違います。私は「月1回のレッスンで吹けるようになります」と言っていますし、吹けるようになった方はめちゃ楽しそうに帰って行かれます。「リーナ★リーナ」は発表会もしていて私よりも年長の人達が衣装を準備し、コスプレあり、ダンスありと楽しんでいます。自分の枠ってあるじゃないですか? 恥ずかしいとか。そういうのが全部取れます。オカリナでそれをやれたら施設を慰問したり、自分でライブを開いたり、何でもできるのです。「先生、オカリナを始めて人生が変わった。楽しい~」とみんな言ってくれます。私もそれを聞くのが楽しみです。現在、大阪と兵庫と奈良で8教室を開講しています。
――オンライン教室は?
さくらい 子育てや介護、病気だったり様々な理由で家から出にくい人、近くに教室がない、習いに行く時間がない人達のために友達に頼んでオンライン教室のプログラムを組んでもらったら日本全国に留まらずマレーシアからも習いに来てくれるようになりました。1カ月に1回、オンラインの茶話会を開いて、皆さんの近況を聞いたり、オカリナについて話したりしています。そこに来るのは、最初は操作も慣れず、失敗を繰り返しながら、それでも頑張ってオンラインの授業を受けられている方達です。
――オンラインサロンのような感じで新しい趣味作りにも役立っていますね。
さくらい そうです。ただオカリナを吹けるようになるよりも、それをどこで使うかが重要です。「ただ吹けるだけではつまらないでしょ。例えば、クリスマス会でケーキの前に『きよしこの夜』を吹くだけでもみんなを喜ばせられる。間違えてもいいからオカリナをちょこっと披露したらどう?」と言って登場シーンを増やすよう提案しています。
――季節ごとの持ち曲があればいいですね。
さくらい そうそう。いろいろ使える。今すごく楽しいです。
――さくらいさんの名前で資格を付与したら生徒も励みになると思います。「教えている人、誰?」となるし、二次的、三次的な広がりが出てきます。
さくらい リーナ★リーナで検討します。
3,000人の講演で
出版の夢が叶う
――オカリナ教室が定着して以降の夢は?
さくらい オカリナ教室の合間に私の夢は何だろうと考えた時に本を出版したいと思って、山ノ堀さんに相談しました。
――さくらいさんから「2017年4月20日に京都国際会館で3,000人の講演が決まったので本を出したい。その会場で本を紹介したら買ってもらえる」という話だったと思います。私は「さくらいさんはフジテレビ『アンビリーバボー』等に出演して、新聞や雑誌にも多数取り上げられている。講演(公演)力もあるから自費出版ではもったいない。商業出版で間違いなく大丈夫ですよ」と言って出版コーディネーターのアップルシード・エージェンシー(鬼塚忠社長)を紹介しました。
さくらい その3,000人の講演会の前から本を出したいという夢はずっとありました。テレビ局から出演のオファーがあっても、出版社から「本を出しましょう」という話にはならないし、私は本なんて出せる人じゃないと思っていたのです。出版がどうしたらいいか全くわからなかったのを、山ノ堀さんが急に夢の扉をバンバンバンと開いてくれました。
――最初、アップルシード・エージェンシー主催の大阪のセミナーを受講されましたね。
さくらい そのときは受けたけど自信がなくて名刺だけもらってすごすご帰りました。でも3,000人の講演の日程が迫ってきて、アップルシード・エージェンシーの宮原陽介さんへ「間に合うか間に合わないかだけ判断してください」と電話したら「間に合うかな?」と考え始めて「日程がギリギリなので、今やらんと無理ですよ。明日、東京へ来られますか?」という話になって「行きます」と答えました。
――宮原さんが最初に打診したSBクリエイティブで決まりましたね。
さくらい 宮原さんが多くの出版社に投げかけてくれて、3社が手を挙げてくれて、SBクリエイティブさんが「すぐに話を通します!」と言ってくれました。
――企画書がしっかりしていたのと、聴衆3,000人やオカリナ教室等がありマーケティング的に行けると踏んだのでしょう。他社から転籍して間もない編集者だったとか?
さくらい そうです。とても有能な女性に担当してもらい『あしたを生きることば』を上梓することができおかげで夢が一つ叶いました。本の中には皆さんからの励ましの言葉を鏤めています。
――3,000人の講演会は大成功で本も売れましたね。
さくらい 保険会社のすごい会の講演会の講師で、あり得ないです。私の友人の青木茂さんも保険業界にいて、「謙虚に生きや。4月の講演会、楽しみにしているで。一番いい席で聴くよ」と言ってくれたのに2月に亡くなられました。私は講演会の舞台の上に立って「本当はここに友達も話を聴いてくれるはずでした」という話をしたらみんな号泣です。
――講演終了後はスタンディングオーベーションだったとか?
さくらい すごかったです。業界でも指折りの方達ですから。
――行きたかったなー!
さくらい あの講演は山ノ堀さんにも視聴して欲しかったです。
――同業者というのはライバルでかつ理解者という複雑な関係です。しかも故人の呼びかけで自分もいつかは死期が訪れるということもあって琴線に触れたのでしょうか?
さくらい 優秀な方達ばかりが「こうやったら成績が挙がる」と言って頑張っている中で急にグッときたのだと思います。その後、青木さんのおかげで本の販売コーナーに行列ができて500冊が完売となりました。私でなく青木さんの力です。
グラミー賞を
獲りに行く
――でっかい夢を披露いただけますか?
さくらい 私の最初の夢は本を出版することでした。山ノ堀さんに道筋を与えてもらって出版できたら夢が達成して終わってしまった。ではCDを出そうと思ってクラウドファンディングで呼びかけたら十数時間で達成したのです。CDを一緒に製作していたプロデューサーが一つの夢を叶えてパッションダウンしシュンとなっている私をずっと見ていて、「もっとでかい夢を持て。『オカリナの世界を変える』と言うて新しいアルバムを作っているのだからグラミー賞ぐらい狙えよ」と言ってくれました。
そのとき私は無理に決まっていると思ったのですが、「オカリナという笛ならチャンスをつかめるかも」と閃いたのです。「オカリナを吹いている人は多いけど、まだメジャーじゃない。そこにロックなオカリナを流し込んだらかっこいいじゃん、面白いんちゃうん」ということで妄想になっていくのです。そこから講演会等に出て「私の夢はグラミー賞です」と言い出したら「この人、ぶっ飛んでいる」となった。それが1年ぐらい前の話でそうそう動かなかったのが、最近になって大阪の経営者さんが20人ぐらい集まって応援団を結成してくれ、「世界で頑張りたいという人は多いけど、グラミー賞を狙っている人間はおらんしおもろいから手伝ったる」「頑張れや」「できることは何でも協力したる。ただし、アメリカへの架け橋はよう見つけられんので自分で探してや」と言ってくれました。大きな夢の旗を立てれば、ものすご吸引力があるのです。
――グラミー賞の日本人受賞者と言えばオノ・ヨーコさん、坂本龍一さん、小澤征爾さん、喜多郎さんといった世界で活躍する方々ですね?
さくらい そのシンセサイザー奏者の喜多郎さんと偶然にもお会いする機会があって、グラミー賞について尋ねたら「想いは必ず叶う」と言ってくれはったのです。もう一人はアメリカ在住邦人の音響エンジニア、グラミー賞を受賞されている八木禎治さんとメール交換し、「アメリカへ来られることがあれば連絡ください。一度会いましょう」という話になりました。1年前には「アホちゃうか?」と思われていた夢が、「とにかくアメリカへ上陸したらなんとかなるはずや」「根拠は全くないけどやるねん」ということになっています。面白いでしょ。もし私がグラミー賞を獲れたら、「私の生き様自体、夢は叶えられる」と言える。あの小学校2年生の男の子が目の前に来たら「夢は間違いなく叶うよ」と言ってあげられるのです。
別件で「ニューヨークのカーネギーホールでコンサートをやらん?」という話も出ています。オカリナの生徒さんによると「向こうで集客をしてくれる人がいる」と言うのです。私が動かなくてもみんなが動いてくださるような体勢に少しずつなってきたなと思っています。ありがたいことです。
――グラミー賞に向けた夢の日付は?
さくらい 3年計画を立てました。2020年はベースキャンプづくり、21年はアメリカ進出、22年はチャレンジ、そんな感じです。
――2020アカデミー賞の作品賞は韓国映画の『パラサイト 半地下生活』が初めて英語以外で受賞しました。しかも監督賞、脚本賞、国際映画賞を含めて4部門の獲得です。グラミー賞にとっても追い風ではないでしょうか?
さくらい 俄然、元気が出てきました。頑張ります。
プロフィール
さくらいりょうこ氏
兵庫県神戸市生まれ。幼少期からピアノをはじめ、小学生でリコーダーと出合う。笛を吹く楽しさを覚え、中学生でフルートを学ぶ。大阪音楽大学卒業後、全国で演奏活動を展開。将来を期待されるが、在学中に発病した厚生省指定難病「クローン病」の悪化で演奏活動を断念。7年間の閉じこもりを経て、社会復帰とともに音楽活動を再開、講演も始める。これまで1,500回、35万人以上の前で演奏とトークを行う。オカリナ教室「リーナ★リーナ」、オンラインオカリナ教室も開講。クラウドファンンディングでアルバム「パワーオカリナ」を制作。フジテレビ「奇跡体験アンビリーバボー」、テレビ東京「生きるを伝える」、日本テレビ「24時間テレビ」などで取り上げられている。著書は『あしたを生きることば』(SBクリエイティブ)がある。