千葉県大網白里町にある大里綜合管理は作業中の不注意で一人の大学生の命を奪ってしまった。社長の野老真理子さんは2度と同じ過ちを繰り返してはいけないと決意し、環境整備に取り組んだ。「気づく」訓練の結果、250超の地域貢献活動が生まれた。現在、大里綜合管理は地域になくてはならない存在として光彩を放っている。
■ゲスト
大里綜合管理株式会社代表取締役社長 野老真理子さん
■インタビュアー
旅するライター 山ノ堀正道
トップセールスマンのまま
37歳で社長を引き継ぐ
――今日は御社の危機管理等について話を伺います。まず創業と野老さんの入社の経緯から教えてください。
野老 この会社は今年46年目を迎えました。一昨年亡くなった母が創設しました。母は父と離婚したので得意の編み物を教えたり手芸の内職で生計を立てていました。それではとても子どもたちを学校へやれないと思い、母は一大決心をして、新聞広告で不動産会社が給料がいいと思って飛び込みました。母はその東京の会社でトップセールスマンになりましたが、やがて倒産してしまいました。
千葉の外房の物件が多かったので大網に転居して大里が生まれるわけです。ですからこの会社は私も含めた5人の兄弟姉妹が大学や高校を出るための手段としてできた会社です。母は正月もお盆も休みがないほど働きました。兄たちは出た大学の先々で就職していたので、私は母の働きを傍目で見て、好きなだけ勉強し好きなこともやらせてもらった3番目の長女としてこの会社へ就職しました。
母は子どもたちが卒業すれば会社を閉じるか、誰かに譲ろうと考えていたそうです。
でも私という娘が入社したことで会社をきちんと継続するためにはどうしたらいいかということを考えたようです。
当時、母は「不動産も建築も波がある。なお、不動産の場合、市街化調整区域とか法令上の制限がある。売り買いしていた土地の草刈りを1年間15,000円で受託する物件を増やして、会社を安定させたほうがいい」と入社したばかりの私に命題を与えました。私はその管理を増やすということで母と一緒に10年間仕事をさせいただきました。
――お母様からの世代交代は?
野老 母が64歳、私が37歳のときに行ないました。私は大学生のとき仕事や会社とは何かを学びました。一緒に働いてくれている社員やよりどころにしているお客さんのために会社はあるんだと思って社長になったときどんな会社にするのかいくつかのビジョンがありました。
本当に忙しかったけど自分に価値や自分に実力をつけなければお客さんに応えられないと思って社長になったとき月刊誌『近代中小企業』とカセット集『売上倍増』を何回も読んだり聴いたりして世の中の中小企業がどうなっているのか、いまうちの会社には何が必要かをイメージをふくらませ三つの大切なことを肝に据えました。
一つは会社の価値を決める社員さんたちを大切にしてのびのび働けるような仕組みを作ること。もう一つはここまでの暖簾の力を崩してはいけない。さらにもう一つは社長になって力を入れたのは社員教育で、売上げの1%を使うようにしています。
昔はコンサルタントに30万~40万円払って机上の勉強をしていましたが、今は違うことに使っています。社員が実力ややる気をもって事に当たらない限りこの会社は変えられらないと思っています。
会社の全体を作り上げるのではなくて、社員をよくする。それは23年間変わりません。もう一つは身内は2倍、3倍働いて当たり前なんだと思っていましたが、社員を年俸制にして1年に1回、社員と一緒に「去年はどんな風に頑張れた? 今年はどんな風に頑張りたい? あなたは何が勉強したい? いくらほしい?」といったことを交渉して、年俸を確定していっています。
社長就任時はバブルのイケイケどんどんでいろいろ仕事をしていて、当時の経営計画書の売上げ目標は8億7,000万円と書かれてある。その頃はトップセールスマンのまま社長になりましたから、そのトップセールスマンがいなくなったら会社の売上は落ちますから、トップセールスマンのまま社長になり、ダブルの仕事をしました。
社長になって初めてポケットベルを持たされたとき、負担でなく嬉しさと決意、必要とされているんだと思って、詩を書きました。と同時に社長就任と同時に年金や確定申告の勉強をするとともに無料のセミナーへ出席する過程で有料のセミナーも紹介されました。その勉強をする中で、会社の成長とともに自分も成長できるような社長になりたい、もう一つはいざというときに責任をとれる社長になりたいと思って勉強をしていました。
事故で大学生の命を奪い
毎週、浜松の実家へ通う
――大里さんは23年前に不幸な事故を起こされたのですね?
野老 もう当時のことを知る社員は私を入れてもう7人しかいません。私が社長に就任3年後の37歳のときの夕方だったと思います。私は上場企業したゴールドウインの監査室長(当時)の高木さんから経営の話を聴いていた最中に、会社から一報がありました。「うちの草刈りの現場の事故で一人の青年を撥ねました。その人の命が危ない」と。私は高木さんにありのままを伝えて、そこからタクシーを拾って何本か電話しました。
「当事者たちを集めておいたほうがいいですか?」「そうだね」
ひと通り対処し終わった後、混んでいたので2時間かけて帰ってきて、みんなが待っていてくれて、事情を聴きました。そのとき被害者の大学生が亡くなっていることを聞きました。車の中でいよいよ本番がきた、よーしというように思いました。何本か友人に電話をかけて、「一人の人を殺してしまったらしい。これから事に当たるから見ていてほしい」と言いました。誰かと繋がっていないと、そのことができなかったのだと思います。聞いた相手も驚いたと思いますが、自分がちゃんと胸の内を伝えたことで自分の中で覚悟が決まって、そこで「このことを黙っていたほうがいいですか?」との質問に「会った人、会った人に伝えること。なぜなら二度と過ちを起こしちゃいけないから」と伝えました。
病院に駆けつけて、そこには入ることができませんでした。千葉県警茂原警察署とやりとりしました。
「ご遺族の方に連絡しましたか?」「連絡してあります」「いつ頃、来ていただけますか?」「とにかくこっちに向かってくれると思います」「亡くなったということを伝えてくれましたか?」「まだ知らせていません」「私が知らせていいですか?」「お願いします」
被害者の実家の電話番号を聞いて、そこに電話して「申し訳ございません。あなたの息子さんの命を奪ってしまいました。早く来てくださいませんか?」と伝えました。その後、病院へ行って、ご遺体があるだろう玄関先のところで立ったままで浜松から駆けくれるご家族を待ちました。城西国際大学の先生や友達が入れ替わり立ち替わり出入りし、直立不動で誘導する際、「あなたはどなたですか?」と問われ、「加害者です」としか言えませんでした。
7月2日は本当に寒かったということを思い出します。おとうさんとおかあさんらしい人が来てくれたので「ご両親ですか?」と尋ねると「そうだ。あなたは誰ですか?」と聞かれたので「加害者です」と答えました。
会社に戻ってきて、みんなと話し合って、次の日でしょうか、みんなには「自分の仕事を頑張ってほしい、私は万難を排して事に立ち向かうから」と言いました。事故の内容は私どもが剪定した木が田んぼに落ちているのを引き上げるのにトラックの荷台にロープを引っ張ってそれをトラックの動力を使って吊り上げようとしていた、そのときの見張りが一人は田んぼのところ、一人はトラックの運転をしている。細いとはいえ農道を挟んで轢いた。そこへ大網グリーンゴルフへ通うバイト生がバイクで通り即死をさせた。そういう事故です。
翌日に浜松の実家へ行くと、「葬儀には参列してくれるな」と言われ、その通りだと思って事が治まるのを待ちました。お家には入れてくれませんでした。当然だろうと思います。私にも3人の子供がいます。他人様の手にかかって3人の子供が意に至らされたら許せないだろう。その反対側の最高責任者ですから。当時、私がいつもよりも忙しく動くもので子供から「お母さんが殺したんじゃないだろう? なんでお母さんのせいなんだ?」と言われ、「お母さんの会社はお母さんがやりたいことをお母さん一人ではできない。だからみんなに働いてもらってお母さんを手伝ってもらっている。だからその人がやった事故はお母さんの責任になる。お母さんがやったことと同じなんだよ」と伝えました。
私は人生で土下座の経験が4回あります。一つは会社のお客さんへ。もう一つは仲間の結婚を反対している親御さんに披露宴へ出てくださいということで。あとの二つは小栗くんの親御さんの前です。それしかできないからです。毎週毎週駆けつけていく私に「中へお入りください」という日が来て、お茶をご馳走になる。そこから「ちょっと気をつけてくれれば息子は死ななくてすんだ」と何度も何度も言われることをしっかりと聴く。そして「最悪なことをしてしまったけれど、こんな変な会社に殺されちゃったんだと思われないよう努力させてください」と約束しました。
事故を契機に環境整備で
「気づく」訓練を行なう
――ご遺族へのお見舞いや御社の改革については?
野老 私と主人の家族の外にもうひと家族増えた、4番目の子が亡くなったという風に考えて、できることをすべてを行なおうと思いました。会社としてお見舞い金100万円を持参し、その他のところを保険会社と遺族の方で話し合うと一人の命が4,600万円になると言われました。弟から「裁判に持って行くと違う金額になる」と助言されたので、親御さんのところへ行って「私を訴えてくれませんか? 裁判してくれませんか? 今度の事件は一人の命がかかった大きな事件なのです。私もなぜこんなことが起こったのかしっかりと裁判を通して明らかにしていきたいのです」といってお願いして裁判を起こしてもらいました。
民事事件と刑事事件になります。刑事事件の罰金刑は50万円で、これは当事者が払います。裁判官が被害者の親御さんに「加害者をどう思いますか?」と質問して、加害者のお母さんが「ありとあらゆることをしてもらっているのでこれ以上のことはありません」とおっしゃってくれました。私としてはうれしい。だけどそれが民事事件に影響を与えてしまいます。どれほど私が悪く、どれほど凄い事件だったかという風に立証していかなければいけないわけです。2年かかって示談だと加害者側が有利になるので、最終的には判決による決定にしました。そのプロセスの中でいろいろなことがありましたが、最後に裁判官の方が「普通『自分はこれだけ正しい。相手が間違っている』といった感じで裁判があるのだけど、今回の裁判は違った。相手を思いやっている」と言われました。私にとっては嬉しい発言でした。ふたりの弁護士さんも同じように言ってくださいました。
民事事件の判決は7,600万円、通常が4,600万円、その差3,000万円です。3,000万円あったらきっと違うことに使ってくれるかもしれないと思いました。裁判が結審し親御さんと会食した時に「あなたとこうじゃない出会いであればよかったのにね」と言われました。私はこれで一区切りが終わるんだ、後はずっと憎まれる側にならなければいけないと、ご遺族との縁を断ちました。これまで心の通ういろんな会話をしていたので、本当は将来にわたる人間関係になったかもしれないけれど、それはしちゃいけないと思いました。
もう一つ経営者としてやらなければいけないことは二度と同じ過ちを起こしてはいけないということです。なぜこの事故が起こったのか、なぜ見張りをつけなかったのか、なぜバイクが向かってくることを想像できなかったのか? 交通事故のすべてはあの時こうすればよかったと振り返ります。その瞬間に気づけないわけです。私はその瞬間に気づけなければ会社を再建してはいけないと思いました。その瞬間に気づくためにはどうしたらいいのだろうかと日々ずっと思い、会社へ来てくれる人に「こんな事故を起こしました。ぜひ気をつけてほしい」と自分の方からきちんと情報を出すといろんな情報がもらえました。
そんな中、自衛隊の人の話がとても印象的でした。「我々はピストルを毎日分解してもう一度組み立て直します。いざというときにちゃんと弾が出るために。テントを1センチも狂わないように張ります」と聴きました。その話から不動産業を経営しながら安全や命を守ることに対しての訓練を全くやってこなかった、その上で起こした事故だ、ならば気づく訓練を大里もはじめようと思ったわけです。その頃、社長業の勉強をいろいろしていたときに、挨拶や掃除などの環境整備で会社を蘇らせているという話をよく聴いていたので私も導入してみようと思いました。その頃は私も勇気がなくて1日30分、週に2回で1時間、月に4時間しようと決定するわけです。
当時、私は37歳です。年上の社員は誰も言うことを聞きません。「お客さんのところを訪問よりも仕事するよりも環境整備が大切なんだ」と言っても説得力がありません。でも私は亡くなった大学生の分まで生きるんだ、二度と事故を起こさないという決意が緩むことはありませんでした。社員からは「社長は事故のせいで物の怪が憑いた、変になった」と言われました。でも毎日毎日、綿棒や楊枝を持って棧の隙にある汚れを一個一個掃除をする。どんな環境整備かというと見開きの新聞紙分ぐらいを一生懸命磨く。そうすると新聞紙見開き分の掃除をしたところとしていないところを比べるとくっきり線が出ました。
やる前はみんなが「綺麗じゃないか、なんでこんなところを掃除する必要があるのか?」と思っていたところでもさらに掃除をするとやっていない分だけ汚れていると気づく。これが気づく訓練です。30分間ではっきりと気づくのです。それをやらなければ気づかない。その基準で周りを見渡すと、「あそこに埃がある、ここに蜘蛛の巣がある、これが綻びている、これが曲がっている」と気づくわけです。これを環境整備と称してすべての仕事に先んじてやる。それを徹底的にやることで気づいていく。これがいったい何のために必要なんだと半分以上の社員は思っていたと思います。
余談ですがその翌年の正月に大里は火災事故を起こしました。警察官が私の家に来て、「御社が建てた家が燃えています」と言われパトカーに乗り、道中で「死人はいません。ケガもありません」と聞いて、これで再生が効くと思いました。その頃の建築部は私の言うことを一切聞きませんでした。そこで事故が起こった。結果的に弁償することになりましたが、ここで社長の方針を通せると思いました。担当に「ちゃんとやっていないからこういうことになる。ちゃんとやってほしい」と言いました。それから建築部の担当は私の言うことを仕方なしに聞くようになりましたが、最終的には全員やめました。
「気づく」訓練の結果
250超の地域貢献が誕生
――掃除以外の環境整備についてはどんなことにチャレンジしましたか?
野老 毎日毎日の掃除で引き出しの中にボールペンが2本あったら1本なくなってもわからないということに気づきました。片方ではものを大事にしようと言っているのにそれが景品のボールペンだったりするとなおさらです。引き出しのボールペンは同色同種類の1本しか入れないことにして、それに名前を付けることにしました。「野老真理子」と名前がついていたら「あの人のペンだ。返さなければ」となるわけです。スチール机の2段目3段目はものをしまうところではなくお客様からの預かり物であるはずの書類や仕事など問題が隠されるところだとわかって使用禁止にしました。一つ一つ決定される度に社員はなんでそこまでしなければいけないのだと思ったことでしょう。
気づくという訓練が生み出した危険へのいろんな気づきは対処しなければそのままになってしまいます。この会社は上下で200坪ですが、ゴミ箱はフロアに1個のみです。お客さんから見て必要ないゴミ箱は取っ払おうという議論が飛び交いました。毎日毎日の環境整備で改善されたことは千以上あると思います。すべての棚や引き出しが決定され積み上がっていき、モノを探す時間が決定的になくなりました。普通の経営者であれば余った時間を更に売上増大に繋げようとするのだと思いますが、私は地域の声に気づきました。
私達が2階でご飯を作ったり食べているとお客さんが「いいね大里さんはみんなでご飯をつくって食べられて」と話をされました。私達は気づく訓練をしているのでこの方はお料理が好きなんだなと思ってワンデーシェフのレストランができました。創業30周年の時にピアノを置きました。ご近所の方から「いいわね大里さんはピアノがあって」と言われました。よくよく聞くと「娘さんが音大を出たのに音楽の職業につけなかった」というので「もったいない。弾きたい人と聴きたい人をマッチングしたい」と思ったわけです。
手芸が得意な人から「公民館は販売をする人間には貸してくれない」と言われて日頃使わない会議室を開放してハンズフリーのスペースにしました。そういう一人一人との出会いと気づく訓練が基になっていろいろなものが生み出されました。話をして仕事になるかお金になるかでなく私達にできることなのか大切なことなのかで判断してやりとりして生み出される。これが我が社の特徴です。今の新入社員には最初から本業と250の地域貢献を併せ持つ会社ですから覚悟が問われます。知らないで入った人には結構なプレッシャーと思いますが何とか頑張ってくれています。今も不思議なことにその地域で出会った人が社員になってくれているので募集がいりません。大里の大きな特徴の一つは先んじて毎日掃除を行う会社、気づく訓練としてこれはこれからもあり続けると思います。うちの会社の社員の4割は6割ぐらいの力でしっかりと本業で黒字にしてくれ残りの4割でコンサートの呼びかけやカレーライスを作ってくれたりしています。私達はこの環境整備を諦めないで徹底してやり続けることで250を超える地域活動が誕生したのが大きかったです。
――「危機管理の日」について教えてください。
野老 追悼文を読み上げ、事故を振り返り、安全に対して考えるきっかけにしようと思って毎年主に6月に開催しています。最初は社員対象でしたが、そのうち取引先にも声を掛けました。追悼文は全23通あります。過去の追悼文を読んだら、それぞれこの会社の成長記録になっていることがわかります。
この会社には年間3万人の人たちが出入りしています。その90%が建築現場や草刈りといった本業とは違う、レストランへ食べに来たり、ギャラリーを見に来たり、コンサートを聴きに来たり、会社をする見学したいという人たちです。その方たちにも大里の気持ちを汲んでもらい、その先で活動してもらいたいという思いがあって、今年の「危機管理の日」には多数参加してもらいました。
『今年の追悼文』
あれから23年、まもなく24回目の命日がきます。
22歳だったあなたは生きていれば46歳、仕事ではキャリアを積んで部下たちを指導し、家庭では大事に育てた子供達の成人を、奥様やお母様とともに喜び、地域の課題も率先して取り組んで、どこからも、頼りにされたであろうと想像します。
その計り知れない可能性や、幸せを、我が社の一瞬の緩みで、全て奪ってしまったこと、あなたの無念や家族の悲しみを、その命の重みや罪の深さを受け止めようと、今日は総勢100名以上の人が参加してくれました。
23年経ってもなお、あの日のことは、冷たい空気とともに鮮明に思い出されます。
あなたの遺体の前で何時間も立ち尽くしたときは、真夏だというのに震えるくらい寒かったこと。
「ちょっとお気をつけてくれれば息子は死ななかった!」と繰り返すお母様の言葉を、涙を流しながら床に頭をこすりつけて聞いたときのこと。
22歳卒業真近、就職先が決まり、彼女がいて、浜松では障害者のお父さんと内職であなたを育てたおかあさんが待っていたことなどなど。
あなたがいた確かな証として私の記憶にしっかりと刻まれています。
そしてあなたの大事な命を、私の命にかけて意味あるものにすること、あなたがここ大里で亡くなった理由を、必ずや大里で答えを出していくこと、そう決めて取り組んできた23年でもありました。
事故の翌年に初めて開催した経営計画発表会は、終始涙で言葉が出ず、気づく訓練として始めた環境整備は、様々な経過を経て、どちらも今を支える大里の大きな原動力になっています。
当時37歳だった私も60歳になります。
来年社長というバトンを、三代目に渡すつもりです。
社長業3年目で、この事故であなたと出会い、それ以降の23年間、私は2人分大里で生きると決め、それが勇気や励ましとなり、迷わず悩まず諦めず、様々な改革や努力につなげることができました。
あなたの命を背負ったからできたことだと思っています。
環境整備も経営計画発表会も、そこから導き出された地域活動も様々な業務改善も、どれもが今の大里や地域の彩りになって、社の発展を支えてくれています。
だから、あなたのおかげで、あなたの命を丸ごと飲み込んだおかげで、今の大里になれたことを深く感じるのです。
あなたと縁がなかったらどんな大里になっていたのかと振り返ると、大里はあなたそのものだと思えてならないのです。
あなたがやりたかったこと、必要だと思ったことを、これからも私たちの中で、大里の中でやり続けながら1人の命の大きさやかけがえなさを、私たちを通して知らせ続けてほしいと願っています。
あなたのかけがえのない命を忘れることのないように、また、あなたの使命が大里にあったと言えるように、私たちはこれからも心して大事に取り組んでいきます。
毎年開催してきた「危機管理の日」がこれからも永遠に、参加する人たちの安全の源になるようにどうか応援してほしいと、願っています。
2019年 6月12日 大里綜合管理株式会社 代表取締役社長 野老真理子
東日本大震災の被災地での教訓は
他人のせいにしないで動くこと
――東日本大震災の発生直後から支援を続けてきたのですね?
野老 地域の人達との一緒になってやれることをやってきました。そのときに小栗君のお母さんから「まだまだ悲しさは癒えないけど、周りからは忘れなさいと言われている。あなたが頑張ってくれていることもテレビを見て知っている」という手紙をもらいました。一人の命を見つめ背負い続けてきてどれぐらい大きなものか意識してずっときていますので、あの大きな揺れとともに2万人以上の人が亡くなったことをどう受け止めたらいいのかということに繋がるわけです。
大きな揺れの時、私は大網駅にいました。会社へ帰ったときに社員達が颯爽と出かけていって5つの交差点へ行って交通整理をしていました。後で「土気(千葉市)は渋滞していたけど大網はスムーズだった。大里さんのおかげだ」と言われ褒めてくださる方もいました。その瞬間に役に立つことができたことを私はうれしく思っています。その年は「その瞬間に何ができる。その瞬間にどう役に立つ」という会社の大方針を立てていて、ある社員が私に「今年度の方針の締めくくりになるかもしれませんね」と言ってくれました。
夜になってみんなを呼び集めて女性の社員さんがおにぎりを握ってくれて、「有事の日々が始まるよ」と言ったのを覚えています。四国の友人は東京駅で震災に遭遇し、「大里に行けばなんとかなるだろう」と言って大学生二人を連れてきました。地域のボランティアのOさんもMさんと一緒に出勤してきました。大里に来れば何らかのお手伝いができる。交通整理を始める際も当社だけでなくご近所の企業の方達も参加してくれました。
月曜日にはチラシを撒いて物資を集めたら、その物資がことのほか早く集まって、「出発を早めよう」といって3月16日に3台のトラックに荷物を乗せて被災地へ向かいました。福島県の飯舘村では放射能の問題があるから白い防御服を来ていこうといって現地に向かったところ避難所では普通の格好ということで脱いだりました。「集めたものを詰め込んで持参しました。入り用だったらどうぞ」と言って何回も何回も輸送しました。
大網のガソリンスタンドは長蛇の列でしたが、役場と郵便局と大里の車だけ裏でガソリンを満タンにしてくれました。大里の車を満タンにすればきっと役に立つだろうということでした。近所の人を通して「野菜を届けてほしい」「ガソリンがほしい」と言われて届けたこともありました。避難者のためにアパートも斡旋しました。その当時は当社の社員も地域の人達も何かやれることをやろうということで燃えていました。私自身も1週間に3回も4回も陸前高田を往復したことがあります。とにかく地域のみんなに現地を見せなければ、そして現地を見せたら必ずや動きが始まるだろう、と思いました。
その頃は「被災地に行ってはいけない、体制ができていないから」と言われていましたが、それに惑わされることなく、現地の人に迷惑をかけないで、たくさんの人達を運びました。何をすべきかある程度のノウハウがあったからです。バスを新車に買い換えようと思っていたところだったので、そのまま1台増やして2台にしました。
宮城県の石巻市立大川小学校では3姉妹が一度に亡くなりました。ご遺族が「姉が二人の妹を抱えて死んでいた」と淡々と話してくれました。「何かしてほしいことはありませんか?」と尋ねたら「雛人形を飾ってやりたい」と言われたので知り合いの朝日新聞の記者が千葉版に書いてくれて80組の雛壇を3台のトラックで大川小学校へ運びました。避難所では背中をさすって「ご家族はどうですか?」と尋ねると「主人がまだ見つからない」、手のひらをマッサージしていると「子供が死んじゃったの」と言われました。
1人の命の大きさを抱えてきた私にとって2万人の命から何を学べというのか? これに答えを出さなければいけないと思って、2つの教訓を導きました。四方八方を海に囲まれて自然の恩恵を豊かに受けて暮らしを立ててきたのが日本です。北のロシアや南のベトナム等と比べると四季があり綺麗な川の水があり河口には魚がありこれで生計を立てて日本という国が成り立っています。でも豊かだからこそ自然の怖さを先輩達は覚悟して生きてきました。ここより先に家を建てるな、こういう碑の前に家が建ち並んで、そこで一網打尽に命を奪われました。豊かさだからこそ反対の怖さを覚悟する。確率の問題で亡くなった。ならば私達にもその時期が来るだろう。覚悟して精一杯生きろよ。万が一を想定してできる準備はしておこうよということです。これに今の人達は政府のせいにしたり役所のせいにしたり他人のせいにしたりするのを今一度戒めなければならない。これが2万人の命が私に伝えたかったことだろうと覚悟したわけです。
と同時に被災地へ200回近く行っていますから最初は避難所だった、次は仮設住宅、その次は復興住宅、こういうところを時系列に見てきてわかったことがあります。あの瞬間に「自衛隊を待とう」「区長さんがなにか指示してくれるはずだ」「誰かが助けてくれるはずだ」と言って時を待った人と、「木を集めて火を焚こう」「ガソリンを集めて車を動かそう」と言ってやれることをやった人達とで行く末が全く違うものになったことがわかりました。それぞれ行った先々で交流がありますから「何か手伝えることがあったら言ってね」と言ったら「ヤッケがほしい」「パソコンがほしい」といって呼びかけに応じたところは復興のできあがり方が全く違うわけです。その瞬間にやれることをやった人達と人のせいにして他力本願になった人との積み上げの違いが歴然としたものになるということを目の当たりにしました。
だからいずれ起こるであろうこの地域の万が一の時に覚悟して生きることと準備すること。そして万が一なった時にメソメソしないでやれることはやるんだぞ、動くんだぞという人を増やすことがいい再建に繋がると2万人の命が私に教えてくれたことだと気づきました。そしてせっせせっせとバスに乗ってもらって夜出発して朝着いて昼間ボランティアを行なってきたわけです。これは大きな教訓で、消えることがない褪せることがないと私は今も思っています。ですから読者の皆さんも同じように覚悟してくれたらいいなと思っています。いずれ死ぬんですから。そのときは覚悟して潔く。もし生が残っていたとしたら残されているものを全部使って復活復興するのです。
「自ら発電」のラジオ体操等で
震災前の電力使用の8割削減
――福島第一原子力発電所の事故に伴う大里さんの取り組みは朝日新聞「天声人語」等でも報じられました。
野老 私達は被災地に行く際に必ず福島県を通ります。大きく深呼吸をして息を止めたまま宮城県や岩手県に行くわけにはいきません。でも、汚染が何も変わっていなくて車で通っているうちに景色が変わるわけです。綺麗な家並みだったところが草ぼうぼうになり田んぼにセイタカアワダチソウや柳が生え、動物が死んでいて、そして未だに4万人を超える人達が故郷へ帰ることができないわけです。自然災害だけなら生きているからと立ち上がることができます。でも、戻ってはいけない。これをどう消化するのか?
私は正直に言いますと、友人達が「原発は危ない」と言っても、政府が「大事」、東電が「大丈夫」と言うから正しいと思っていました。でも、その私の責任でこれだけ大勢の人達を苦しめ未だに帰ることができない、「おまえどう責任をとるんだ」と突きつけられたとき、答えを出さなければいけません。自然災害でなく人間が起こした事故です。きちんと分析して反省して正さないといけないというのが、原発についての私の考えです。
国会の前で赤い旗を振って「原発を止めろ」と言ったり、一所懸命に駅頭でみんなに呼びかける人もいます。いろんなやり方がある。でも私は一人一人がその側に立たないといけないと思いました。
このことについては原発が受け持つ電気が全体の使用量の3割だと聞いたのでこの会社で3割削減しようと言って社員も同意して頑張ってくれました。1年経って3割の電気使用量を削減し7割で済むようになったとき大飯原発が稼働しました。大飯原発の稼働の理由は「電気が足りない」でした。私は自分達は自分達が受け持った3割を減らしたのに何で足りないのだろうと自問しました。もう一つは自分に何が足りなくて稼働させてしまったのだろうと思いました。すると答えが見つかりました。平均3割というのが電気がないと人の命が救えない病院、電気がないと人の命が助けられない警察や自衛隊、電気がないと生産できない工場、こういうものを併せ持って平均3割というのは誰かが引き受けなければ3割を減らすことができないわけです。
私はそんなことまで考えが及びませんでした。2年目の会社方針で7割になった電気使用量をその半分に減らそう、つまり35%に落とそうと決めるわけです。社員は「えーっ」と言いました。でもトップダウンです。仕方ない。嫌々ながらでもそのための努力が始まりました。毎週毎週行われていた節電の会議はいつしか社員の提案で朝に行なうようになりました。そんな改善を積み上げてきてトータルで38.7%まで下がったときレストランから「社長、もうやめましょう。お客さんに迷惑かけるから」という声が聞こえましたが、「諦めないよ。いま諦めたら原発は必要だという側に立つことになるから」という話をしたときに被災地から越してきた社員が「私達の気持ちをわかってくれてありがとうございます」と言ってくれました。
その彼女は福島第一原発から1キロのところに家族で自動車修理工場をやっていて爆発と共に着の身着のまま9人で身寄りもない大網に辿り着き家を斡旋することを通して大里のパートになり、胸の内にどんなにつらい思いを抱えながら平時でいる。その彼女がその一言を言ったとき、「そうだそうだ。私達はこの人の苦しみを責任をとって二度のそんなことのないように」と決めたはずなのにちょっとした苦しさやつらさでひっくり返してしまう。「ダメだよね。ちゃんとやろう」ということでもう一度やり直すことにしました。
そのとき「1センチの改革がなければ1ミリの改革が残っている」とみんなに言いました。つまり私達が30分の自主停電をしていたのを35分にすることはできるだろう。100ある項目を全部見直して少しずつ取り組み直しをしました。そうしたら2年目が終わるとき使用トータルを32.7%に下げることができました。今は20%です。この事故がなかったら私は10%の削減とてムリという側の人間だったと思います。しかし目の前に2万人の命があって帰還できなくて苦しんでいる人がいて、その前に自分が出さなくてはいけない、自分が背中に背負うということはそういうことだと思っています。
今は「会社としてビニールをなくしていこう、もうビニールを買うことはないだろう、ガソリンを3割減らしていこう、いくらかでも未来の子供達のために有限の資源を残そうね」ということがみんなで当たり前のように話せる会社になりました。私達はやればできるということ、正しいことを積み上げていけば思いのほか違う、福が入ってくるということがわかりました。例えば冬、当社はエアコンを使いません。その人に当てる暖かい飲み物、膝掛け、小さなストーブを用意し、「ご不便をかけます。寒い思いをさせてすみません」と語ると、「そんなことないですよ」という言葉が返ってきます。
1時間に1回、「自ら発電」という名前をつけて体操をしています。トータルで1日30分間ラジオ体操すると仕事をしながら健康体を得られます。夏もエアコンがないです。摂氏33度でもステテコのようなものを履いて裸足で仕事をします。お客さんには扇風機と冷たいおしぼりを用意します。意識朦朧の中で仕事をして、何を得たかというと、このすさまじい暑さに耐え抜く丈夫な体になりました。もっと大きなことを言えば8割節電するということは、8割分のお金が浮き、その浮いたお金を違うことに使えるということです。「8割分もっと働け」でなく、いい会社になったということが、私が東日本大震災で教わったことで、これを大事にしていきたいと思います。
来春の世代交代後も意思を
積み上げてくれると信じる
――来年3月末に世代交代をされるとか?
野老 私も還暦になりましたので長男へバトンを渡します。その前に「危機管理の日」がどうして起こったか、どうしてここまでやり続けようとしているのか、この大本を後継者や社員にちゃんと知っていてほしい。その命にしっかりと向き合って、もしその命があれば総理大臣になって世の中の課題を解決してくれたかもしれないと思って、ありとあらゆる可能性を断ち切ってしまった責任をみんなでとることを通して、私達が2倍生きる3倍生きることでいろんなことができるということをしっかり知って欲しいのです。
吹けば飛ぶような小さな会社の大里が「世の中全体の課題を解決する側に立っているのではないか?」といろいろなオピニオンリーダーが発言してくれています。私自身もこの会社が各町に10社ぐらいずつあったら孤立して人を刺す側になる人達を防げるかもしれないというように思っています。
この会社がこれから果たす役割は大きいと思います。多くの社員は、私達が一からつくってきたのとは違って途中から入ってきているので、合唱でいうと今何も見ないで歌える歌が私は30曲あっても、それを一遍に全部歌えないことは充分承知しています。しかし30曲歌うために近づいてほしい。この会社の歴史、積み上げてきたことを知って、私達と一緒に努力してほしいと思って、「危機管理の日」を1年間を振り返る日にしてほしいと思います。あの事故の日からこうしておけば良かったの言葉をなくそうと思ってやってきました。消えない景色、歴史、恥じない私や会社であると思っています。バトンを継ぐみんながどうかその思いを受けて積み上げてくれると信じています。
プロフィール
野老真理子(ところ・まりこ)さん
昭和34年(1959年)東京都江戸川区生まれ。昭和60年(1985年)淑徳大学社会福祉学部卒業後、母親が設立した大里綜合管理に入社。平成6年(94年)代表取締役社長に就任。平成20年(2008年)千葉県男女共同参画推進事業所表彰(奨励賞)、平成22年(10年)内閣府特命担当大臣(少子化対策)表彰、地域づくり総務大臣表彰(個人表彰)。厚生労働省社会保障審議会「生活困窮者の生活支援の在り方に関する特別部会」委員、NHK関東甲信越地方放送番組審議会委員等歴任。テレビ東京「カンブリア宮殿」(2015.11)等へ出演。