被爆者として核兵器のない 世界のために最善を尽くす

  1. 鄙のまれびとQ&A
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 昭和20年(1945年)8月6日に広島、9日に長崎へ原子爆弾が投下され、多数の尊い命が喪われた。ゲストの藤森俊希氏は1歳4か月の時、広島で被爆し、広島市立第一高女1年生だった姉を亡くした。幼少期は病弱だったが、大学ではワンダーフォーゲル部に入部するなど年齢とともに健康を回復していった。現在は、長野県茅野市で暮らし、長野県原爆被害者の会で活躍。日本被団協事務局次長として国連等でもスピーチを行なった。被爆体験や核兵器の全面禁止と根絶を目的とする「核兵器禁止条約」などについて聞いた。

■ゲスト 
 日本原水爆被害者団体協議会事務局次長 藤森俊希 氏

■インタビュアー 
 旅するライター 山ノ堀正道

医師から死を宣告されるも
年齢と共に体力を回復する

 ――現在、長野県茅野市にお住まいなのはスキーを再開するためですか?

 藤森 学生時代にはワンダーフォーゲル部で体を鍛えていましたが、その後は仕事であまりできなくなって、身体が弱くなったのをなんとかしようということで、50歳の時からスキーを再開しました。本格的に滑りだしたのは茅野に移ってからです。

 ――広島の昭和20年(1945年)8月6日はどんな感じと聞かれていますか?

広島へ投下された原子爆弾

 藤森 私の家は広島市牛田町(現・東区牛田町)にあって祖父と両親、9人の子供の12人家族でした。私は末っ子です。父は箪笥など木工品を作る仕事をしていて弟子もいましたが、戦争が激しくなると若い人たちがみんな召集されて仕事ができなくなりました。それで当時の国鉄(現・JR)へ入って広島駅の近くに通っていました。8月6日を迎えて、その当時、未就学の兄2人、小学生の姉2人の4人が疎開していて、広島に残っていた8人が原爆に被爆しました。676人という市内で最も多くの原爆犠牲者を出した広島市立第一高等女学校1年生だった、4番目の姉は爆心地から400メートルのところで勤労奉仕していて命を落としました。両親はどこで何をしていたか知っていたので翌日から探しに行ったものの見つかりませんでした。被爆した人間は水を求めて川の中で亡くなった場合が多かったので何日も異臭が凄かったと当時の新聞等に書いてあります。その点、道路は写真で見る限り広島も長崎も綺麗でした。車や人の通行があるので早めに片づけたのではないでしょうか? 被爆者はその年14万人が亡くなりました。我が家の犠牲者は女学校1年生の姉でした。また、建物も全部焼かれて途方に暮れたそうですが、夏の時期は着るものがなくても寒くないのが不幸中の幸いでした。家族で8人が被爆し火傷したものの奇跡的に助かりました。家は燃え残った木々を集めて掘っ立て小屋を建てて、そこに12人のうち11人が暮らし始めた、というのが原爆の時の様子です。

 ――皆さん山へ逃げたそうですね?

 藤森 我が家だけではなくて牛田にいた人達の大半が山に上がってきたそうです。山といっても丘の上といった感じです。そのうち学校ができたりして私も小学校へ上がり、山へ入って遊んだりしました。

 ――その頃は1歳あまりで覚えていらっしゃらないと思うのですが、その後、お母様から当時の話をどう聞かれましたか?

 藤森 私が被爆した1歳4か月の頃、母は広島の医師から「この子は生き延びることはないだろう」と言われたそうです。毎年8月6日8時15分に一家で平和公園へ集まって慰霊をました。疎開をしていた私のすぐ上の2人の姉と2人の兄、そして赤子だった私には毎年、自らが体験した原爆の酷さを涙を流しながら語ってくれました。私は何年もそういう話を聴いてきたので、母親に「なんで苦しいのにそういう話をするのか?」と問うた時に「それは、あんたらを同じ目に遭わせたくないからだ!」と言ったことが私の中で一番、頭に残っています。それで原爆がなぜ起こったのかというようなことが小さいながらもいろいろ頭の中へ入っていきました。
 広島市立牛田小学校の低学年時は母親に背負われたり手を引かれて登校するようなすごくひ弱な子供でしたが、広島市立幟町中学校に進学して健康を取り戻し野球を始めました。

 ――高校野球はなさったんですか?

 藤森 やっていないです。私、幟町中学野球部の3年時にキャプテンで、それをみんな知っているから広島県立基町高校に入学して「藤森、野球部に入れ」と言ってみんなに誘われました。しかし兄二人が大学へ進学したので、私も同様に大学へ行くために勉強が必要だと思ったのと、高校で野球をするには体力的に自信がありませんでした。高校の図書館では原爆の本もよく読んで、原爆によっていかに私達が酷い目に遭ったのかということも少しずつ理解できるようになりました。

 ――それで早稲田大学の理工学部へ入学されるわけですね?

 藤森 ええ。大学ではワンダーフォーゲル部で夏は山へ登り、冬にスキーを行ないました。そういう過程の中で身体も少しずつ強くなってきました。

 ――原爆の語り部はいつから始められたのですか?

 藤森 私も被爆者だということは知っていました。原爆で命を落とされた人が多数いたことも承知していましたが、大学ではそのことについてあまり勉強しませんでした。実際に原爆や被曝についての具体的な活動を真剣にやるようになったのは、私が長野に転居してからです。

長野県への転居に伴い
被爆体験を話すことに

 ――日本原爆被爆者団体協議会(被団協)に入られたきっかけは?

 藤森 広島出身で長野県原爆被害者の会会長(当時)の前座良明さんという方が長野県松本市にお住まいでした。中国戦線で負った火傷のために背中はケロイド状に大きくえぐれ、広島で静養しているときに被爆し、晩年は胃がんや大腸がんを患い満身創痍の中、日本被団協草創期から被爆者運動に取り組んだとのことです。残念なことに平成21年(2009年)11月、88歳で永眠されました。その前座さんから平成18年(2006年)2006年に電話があって「藤森さん被爆者だそうだけど。若いのだから手伝ってほしい」と言われ、若いのっていったら変ですが、62歳の私を育てて原爆被害者の会について後事を託そうと思われたのでしょう。
 前座さんは42歳の時、松本の信州大学の門の前に学生用の食堂「ピカドン」を開業され、息子さんが跡を継がれています。親戚などと店の名前をどうするかという話をしていたら、親戚の子が「いつも言っている“ピカドン”にしたらどう?」と言って、「それはいいな」となって看板を掲げると、周りの人から批判されたそうです。それでも絶対にやめなかった。2階に集会場を設けて原爆の恐ろしさを話したりして学生達からもよく慕われていました。その人がそれこそ日本被団協結成の時に長野から広島まで行ったり懸命に力を尽くした方でもあります。

 ――長野で最初に原爆の話をされた経緯は?

 藤森 前座さんが小海町の村長さんとやりとりしながら小学校で話をすることになりました。小海町というと、私が住んでいる茅野市湖東とは八ヶ岳の麓の反対側です。ここで話をするために原爆のいろんな資料を集めました。今では小学校や中学校で話すよりも高校が多いです。長野県内の高校生の修学旅行先が広島や長崎ではなくなったものの平和教育は大事だからということだそうです。あちこちに呼ばれて話をするというのは大変やりがいがあります。今は、前座さんの息子さん、被爆2世の前座明司さんが長野県被爆者の会の副会長を務めてくれています。

国連核兵器禁止条約採択前に
核兵器のない世界を訴える

 ――平成28年(2016年)5月27日にアメリカのオバマ大統領が被爆地の広島を訪問し平和祈念資料館を訪ね慰霊碑に献花したり、「核兵器のない世界に」という所感を述べたりして、この辺から潮が変わってきましたか?

 藤森 私は違う見方をしています。オバマ大統領の演説を広島のテレビで見て、私は怒り心頭に発しました。だって、原爆は人殺しの爆弾です。「71年前の晴れた朝、空から死が降ってきて世界が一変しました。閃光が広がり火の海がこの町を破壊しました。そして、人類が自分自身を破壊する手段を手に入れたことを示したのです。……」から始まる所感には、原爆が大量殺人兵器ということと、「私(アメリカ)には関係ないけどこういうことがありました」といった喋り方に聞こえたからです。オバマ大統領はそれまで平和に対する理解が深くこれまでいろいろ取り組んできただけに、広島で喋る内容ではないということです。

 ――詫びがなかったということですね

 藤森 そう。アメリカの責任を多少なりとも口にするべきだと思いました。もちろん、被爆者の中にも「よく広島へ来て、よく所感を述べてくれた」という声があるのも承知しています。

 ――同年12月23日に国連の核兵器禁止条約が採択されたのは画期的なことですね。

 藤森 今はまだ23か国しか出していません。50か国が批准書を提出しないと発効しないのです。今年9月の総会の最初に批准書が出て、50の半分の25を超える国が出てくるのではないかと思っています。

 ――国連で藤森さんは日本被団協の事務局次長として「同じ地獄を誰にも再現させぬ」という証言をされ、すごい拍手だったそうですね。何を述べられましたか?

国連総会本会議場

 藤森 私達は会議そのものは核兵器禁止条約を作るためだと承知していました。それを被爆者がどんな体験をしたかということと、それを乗り越えて核兵器のない世界のために国連の会議で力を合わせて取り組んでほしいという話をしました。

 ――それはかなり訴求力があったわけですね?

 藤森 そうですね。私の家族を含め原爆によって命を落とした者が多数いるということを被爆者自身が語ったことで受け止め方が違ったのだと思います。

ICANのノーベル平和賞受賞
サーロー節子氏の演説に拍手

 ――平成29年(2017年)12月10日、ノーベル平和賞に国際NGO核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)が受賞した時にオスロへ行かれたのですね?

 藤森 オスロから来てくれということで呼ばれました。渡航費用は、ICAN国際運営委員でピースボート共同代表の川崎哲さんが「被爆者がノーベル平和賞のために呼ばれているのでみんなでお金を出して行かせよう」と呼びかけ、あっという間にお金を集めてくれたので、私達はノーベル平和賞の授賞式の場に参加することができました。その授賞式では、ノーベル平和賞を議論する5人のうちの責任者の弁護士の女性とICAN事務局長の女性、それからソーロー節子さんという広島の被爆者の3人が演説しました。そういう意味では世界的にも女性が力を尽くしているという印象の授賞式になったと思いながら列席しました。ノルウェーのエレナ・ソルベルグ首相の顔もあり、彼女は1回も拍手しなかったということで新聞で叩かれました。ノルウェーは首相が労働党のイェンス・ストルテンベルグ首相が退陣して保守党のに政権交代が行なわれたわけです。私にはちょっと理解できないのが、ストルテンベルグ氏は首相のとき一所懸命平和のために働いていたのに、北大西洋条約機構(NATO)の事務総長に就任した途端に変節したのです。

 ――NATOに取り込まれたわけですね?

 藤森 そう。ノルウェー自体の核兵器についての対応が大きく変わりました。核兵器禁止条約の批准書もまだ国連に出していません。ところがノルウェーの国民は「それはいけない。間違いだ」といって一所懸命に取り組んでいます。ノーベル平和賞についても、さっき言ったように女性の平和活動家が受賞するように努力している弁護士もいたり、ノルウェーもなかなか複雑です。

 ――なるほど。背景がよく理解できました。

 藤森 そういうことがありながらも、ノルウェーは一所懸命やっているわけです。それで今年8月にノルウェーで核兵器廃絶の行事があって私に一言メッセージを送るようにと依頼が来ていて書いて送る予定です。

 ――サーロー節子さんの受賞スピーチがすごくよかったと評判でした。

 藤森 すごい中身で、かつわかりやすく鋭く発言していて相当なものだと思いました。本当に涙が出そうな感じの演説でした。 

 ――無傷の被爆ピアノにオスロの2万人の市民が耳を傾けたとありました。

 藤森 あれは広島から運んでオスロの会場へ持って行きました。あれにはものすごい人数が関わり莫大な費用がかかったと思います。そのコンサートもノーベル平和賞のために行ないました。

 ――被曝の写真展等は併設されたのですか?

 藤森 それはノルウェーの海のすぐ近くの建物があって毎年の受賞者を1年間展示することになっています。

 ――被団協はバチカンにも訪問されたとか?

 藤森 それはそう私ではなくて女性の被爆者が行きました。その人は英語の先生で英語で会話ができるのです。

 ――ローマ法王はなんとおっしゃったのです?

 藤森 フランシスコ法王は原爆投下後の長崎で、亡くなった幼児を背負う「焼き場に立つ少年」の写真がいいということになって、その複製を寄付すると、ものすごく感動されたようです。それでフランシスコ法王は今年11月に広島や長崎を訪問される予定です。

核兵器不拡散条約運用検討会議で
アメリカの国会議員と手を携える

 ――今後、被爆者がどんどん少なくなっていきます。日本が被爆国だった、アメリカと戦争していたという認識すらも希薄になる中で日本や被団協の方向性は?

 藤森 核兵器禁止条約を、できれば2020年までに実効あるものにするために力を入れて取り組まなければいけない。毎年厚生労働省が被爆者の数を発表しますが、平成31年(2019年)3月末現在の被爆者数は145,844人です。毎年10,000人ほど減少しているので14年後には誰もいなくなる勘定です。原爆のことを知らない人が圧倒的に多い中で、世界全体で核兵器がなくてもお互いに平和な世界にできるというところにもっていきたいです。
 アメリカ、ロシア、中国などは大国です。そこが核兵器を持って小国を威嚇をするので、そのまま放っておくわけにはいかない。他の爆弾その他については禁止しているものはいくつもあるのだけど本来ならば一番早くやらなければいけない核兵器については5つの大国がそれを維持しようとしているということについてなんとかしないといけない。基本はみんなが努力して作った核兵器禁止条約を実効あるものにすることが最も重要だと思います。私達も被爆者として命ある限り核兵器のない世界を作るために最善の努力を尽くそうと思って取り組んでいるところです。

 ――戦争体験者が少なくなってくると若い人に頑張ってもらう必要がありますね。福岡県の高校3年生の古賀野々華さんは長崎に投下された原子爆弾に使われたプルトニウムが生産されたアメリカ西部ワシントン州リッチランドの高校へ留学して、その高校のロゴマークにキノコ雲のデザインが使われていることに対して校内動画に出演し「自分にとってのキノコ雲は犠牲になった人と今の平和を心に刻むものです。キノコ雲の下にいたのは兵士ではなく市民でした。罪のない人達の命を奪うことを誇りに感じるべきでしょうか?」と自分の意見を述べたところ、地元紙などが報じるなど大きな反響を呼んだそうです。

 藤森 その通りだと思います。トランプ大統領自身が「核兵器の数を世界一に増やす」と発言する一方、アメリカの国会議員は核兵器のない世界を作るべきだと発言し署名しています。私達はこの人達と連携しようと思っています。もう一つは、来年2020年核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議があります。そこで私達被爆者もアメリカに行って世界の人達に訴え、今言ったアメリカの国会議員の人達と手を携えていたいと思っています。

プロフィール

藤森俊希(ふじもり・としき)氏

昭和19年(1944年)、広島市生まれ。1歳4か月の時に、家族7人とともに被爆。4番目の姉が犠牲に。早稲田大理工学部在学中に東京で就職。定年後、「田舎に住みたい」という夫人の希望で「スキーができて、アユ釣りが楽しめる」長野県茅野市に転居。平成22年(2010年)に長野県原爆被害者の会会長、平成24年(2012年)から日本原爆被爆者団体協議会(被団協)事務局次長に就任。各地で自らの被爆体験を語っている。

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