一歩一歩培った結果の
日本サッカー殿堂入り

  1. 鄙のまれびとQ&A
鄙のまれびと 17

 19歳でサッカー日本代表入りを果たし、日本サッカーリーグ(JSL)の三菱重工監督時代に無敗の快進撃で東洋工業の連覇を阻止して初優勝を遂げ、日本代表監督を務めたのは、2015年に日本サッカー殿堂入りをした二宮寛氏だ。サッカーだけでなく欧州三菱自動車工業会長としても年間販売台数3,000台を22年間で30万台に飛躍的に伸ばした。二宮氏は一歩一歩培った結果という。店主を務めるカフェで半生を聞いた。

■ ゲスト 
  元サッカー日本代表監督・パッパニーニョ店主 二宮寛氏

■ インタビュアー 
  旅するライター 山ノ堀正道

一歩一歩培い育み前進した
世界8強ラグビー日本代表

 ――サッカーの話題に入る前にワールドカップで8強に入ったラグビーについて触れていただけないでしょうか?

 二宮 ラグビー日本代表が大変健闘しました。殆どの日本人が世界から一番遠いスポーツだと思っておられた。体格の差やヨーロッパとの経験上の違いがあると私も思っていたひとりです。私はサッカーだけでなく仕事も含めて行かなかった国がないぐらいでしたが、唯一行っていないニュージーランドに昨年たまたまワイフと一諸に足を運ぶ機会を得て、この国がラグビーで世界を圧倒している理由がよくわかりました。入国から出国まで約2週間、いろんなところで観光したりラグビーの練習や試合の風景を見たりして、嫌な思いをしたことが一度もありませんでした。ラグビーが強いというのは精神的な土台、人間的な素養が基盤になっていて、唯一残された素晴らしい国だと思いました。そこで老婆心ながらTPP(環太平洋パートナーシップ協定)でこういう国が商業主義に毒されなければいいなと心配して帰国しました。日本のラグビーが強くなりワールドカップの決勝トーナメントへ進むのは喜ばしいことですが、それと同時に日本国民が“ノーサイド”(試合が終われば自陣と敵陣のサイドはなくなり、勝った側も負けた側もない)のさわやかなスポーツの精神に学んでくれればいいなと思いました。

 ――サッカー日本代表が2022ワールでカップに向けてアジア2次予選で快進撃を続けています。元サッカー日本代表監督として、これまでの戦いを振り返っていかがですか?

 二宮 サッカーも技術的にうまくなってきているのは絶対に確かです。うまくなっているのだけど私達が現役だった5,60年前、それから私が監督を務めていた四十数年前の時代と比べて、世界との差がラグビー以上に土壌の広さや深さが縮まっていないと思います。それが何かということを日本のサッカーの選手達、指導者達が正しく目を向けていかないと期待倒れに終わってしまうようなことがあると思います。日本のマスコミのスポーツに対する取り上げ方が世界と比べて違うのも気になります。

 ――どの辺が違いますか?

 二宮 日本のマスコミやファンが持ち上げすぎです。なんかがあるとワーッとみんなでわっしょいわっしょい担ぐ。それを認識した時に進歩している面を大いに強調していただくのは結構なことですが、それゆえに世界がすぐそこに手に届くような報道は慎んでもらわなければいけないし、それ以上に日本の選手や協会の運営者、指導者がその点を正しく認識して地道な努力を積み重ねることをやっていかないと、オオカミ少年のようにまたかと言われることが起こりうるスポーツです。だからといって諦めるのではなくて今回のラグビーが示してくれているように選手が一体となってやる気を示せば夢も実現するところまで来ていることも事実です。私は何を言いたいかというと、日本のサッカー界の特に代表チームが過去20年間ワールドカップに出場し期待をされながらもう一歩踏み出せなかった理由をラグビーが示してくれていると思います。技術とか戦術でなく、国を代表して勝たなければいけないという強い気持ちがサッカーの代表選手にあればラグビーを再現できる可能性も大ありだと思います。あのラグビー日本代表が示してくれた指針はサッカー界全体に大きなカツを入れてくれる材料だったと思います。

 ――現在の日本代表は8人の若手選手がヨーロッパのクラブチームで活躍するなどインターナショナルです。十代の久保建英選手(スペイン・RCDマヨルカ)は緻密で伸び伸び物怖じしないプレーが光っていますが。

 二宮 それも問題です。若手の選手がヨーロッパで育っている。日本の過去の主力の選手もヨーロッパのクラブチームの経験者が殆どということからもすごく大きな誤解を生んでいます。例えば野球に話を転嫁してみましょう。今、日本シリーズの日本一を賭けてセントラル・リーグの東京読売巨人軍とパシフィック・リーグの西武ライオンズが戦っていますが、1軍と2軍を行ったり来たりしている選手だけで勝てますか? サッカーがそういう状態です。ヨーロッパでレギュラーとして定着していた選手がいましたか? 少し前だと長谷部誠選手(ドイツ・フランクフルト)、今だと吉田麻也選手(イングランド・サウサンプトン)、長友佑都選手(トルコ・ガラタサライ)等を除くと1、2軍を行ったり来たりです。そういう選手を集めて世界と戦って勝てますか? ヨーロッパへ行くだけで水戸黄門の紋所がすべてと思っている。名刺よりも実力です。そこを正しく理解しないといけない。
 先ほど言われた久保選手もFCバルセロナ・ラ・マシアで育ったのを日本代表に入れているわけです。日本の指導体制ですが、名刺を作って「ヨーロッパへ行って頑張ってこい」が通じるサッカーの世界ではないのです。サッカー以外のスポーツでも日本人で世界1、2を争うような日本の選手がいますか? 例えば野球の大谷翔平選手(アメリカ・ロサンゼルスエンゼルス)、フィギアの羽生結弦選手(全日本空輸/カナダ・クリケットクラブ)、テニスの錦織圭選手(日清食品/アメリカ・フロリダ在住)や大坂なおみ選手(日清食品/アメリカ・フロリダ)も全員、誰に頼ることもなく自分で羽ばたいてポジションを勝ち取ったわけです。スポーツというのは本来そういうもので、サッカーやラグビーみたいな集団のスポーツであればあるほど個人の特徴が浮き彫りにされてこないといけません。
 組織をこのテーブルで例えて言うなら綺麗なお皿、立派なカメラ、おいしいコーヒーもなければいけない。当然です。一つひとつが浮き彫りになればこのテーブルは光り輝く。コーヒーがおいしければまたここへ座ろうかと思う。個の特徴がまず強調されなければいけない。だけどテーブルとして機能するには調和が取れてないといけない。それが入ってきてここへ座ろうと思ったのは、このテーブルが何となく輝いていたわけでしょう。綺麗な皿も何もないテーブルだと誰でも違う方へ座るでしょう。そういうもので一人ひとりが強くなければいけない。それとこのテーブルでお皿だけに目がいってはいけない。だけどそれがないとテーブルとしてスケールの大きさが出てこないじゃないですか? みんなよそへ出て行っちゃう。それを調和をしてくテーブルでなければいけない。そこにハーモナイズというか、調和が必要になってくる。そこが良きチームとしての指導、組織としてのリーダーはそういうところに目を向けていないとタダの個で終わってしまいます。そういうところをラグビー日本代表が立派に示してくれたと僕は見ていて思います。日本人が勝った負けたでなく、そこに目を向ければどうでしょうかとスポーツの先輩として思います。

 ――ラグビーは4年前に比べて1次リーグでトライ数が9から13、得点が98から115、失点が100から62、タックル数が84%から88.4%と軒並み上がりました。これは個もチームワークも共に向上したからではないでしょうか?

 二宮 ラグビー日本代表は選手一人ひとりの心構えとそれをチームとして一体感を出そうという両面が選手一人ひとりの精進に繋がったと思うし、もしかしたらその気持ちで昔からやっていた選手達が自分の技量をさらに高め、戦術をより鮮明なものにしたかもしれない。そういう面での進歩はあったと思います。だけど一人ひとりの能力がそんなに急に上がるようなことはありません。十代ならともかく平均年齢が24、5歳だとすると、どんなスポーツでも個の能力や戦術を高めることはもうトゥレイトです。おそらく22、3歳までに伸びが止まります。それをどういう場で活用するかタイミングの問題というのがスポーツの世界でものすごく大事なことです。そういう機に応じた自分のカードをパッと出したりするのを見たらこの選手こんな能力が高まったと思うかもしれないけど、それはその選手の昔からの履歴を知っていればあーあいつそんなことをやったなと。だけどそれはみんな指導者が教えたものじゃなく選手が身につけたものです。
 僕は指導者ができることはほんと鼻くそみたいなものだと思います。よく「あいつは俺が育てた」とかいろんなことを言います。元巨人軍打撃コーチの荒川博さんが「自分が王貞治選手の一本足打法を教えた。巨人が定宿にしていた広島の旅館の畳を変えさせた」と言いました。でもあれは荒川さんではなくて王選手が自身で確立したのです。もちろん助言はしたでしょう。王さんとは同年代ですからよくわかります。

 ――確かに一本足はタイミングが取りづらく、それをマスターするのは本人ですね。

 二宮 日本ハムファイターズの栗山英樹監督は「大谷選手を自分がドラフト会議で連れてきて、ここまで育てた」と言ってもおかしくない人です。でもそんなこと聞いたことないです。そういう意味で栗山監督は立派な指導者だと思います。静かに様子を見守るのが指導者です。イチロー(アメリカ・シアトルマリナーズ特別補佐兼インストラクター)だっていろいろヒントやチャンスを与えてくれた人がいたとしても、彼がメジャーで活躍したというのは本人の力以外にないです。羽生選手も大坂選手もバトミントンの桃田賢斗選手(NTT東日本)も世界を制している選手は全部自分であの地位を積み上げた。
 日本人に一番欠けている精神は“培う”ことです。“育む”でもあります。培うとは飛躍ではないです。一歩一歩を着実に積み重ねていく。それがスポーツの選手に一番大切なことです。それを4年間でやったのが今回のラグビー日本代表です。コーチを頼りにするのでなく、選手一人ひとりが自ら判断する。それが“ONE TEAM(ワンチーム)”、個の力でなくで調和させるように一本の柱にしてやっていこうぜというものです。日本人がラグビーとかスポーツとして見るだけでなく、日本人の心を変える大切なことをやってくれました。嬉しい限りです。

 ――ラグビー日本代表の田村優選手はジェイミー・ジョセフヘッドコーチに「誰も勝つとは思っていない。誰も接戦になるとは思っていない。誰も僕らがどれだけ犠牲にしてきたかわからない。信じているのは僕達だけ」というメッセージを送り、本当にその通りになりました。培うために「今年だけでも240日の合宿で、世界一の練習量を課してきた」とのことです。

 二宮 本当でしょう。だってそれぐらいの気持ちでやらなかったら。ラグビーの世界だってサッカーほど底辺が広くないからサッカーとは状況が違うのかもしれないけど、あのラグビーの世界であれだけのことは並大抵のことではできません。体格だって約半数の外国人が日本国籍を取得したり、移住してやっているわけだけど、日本のチームの腿やふくらはぎの太さは一朝一夕にして、ましてや成人した人間が4年間で特別に大きくなるわけではありません。まだまだこれからの課題でしょうが、この4年間もさらに桜のジャージで半歩ずつ前進してくれればと思います。

バイスバイラー監督と出会い
三菱初優勝、黄金時代を築く

 ――二宮さんは子供時代をどう過ごされましたか? それと数あるスポーツの中でサッカーを始められた理由は?

 二宮 私の親父は三菱銀行の外国為替の担当者として若い頃からニューヨークやロンドンなど海外勤務をしていました。私と13、4歳が離れている兄は子供時代にロンドンで近所の子供達とサッカーを始め、東大の第二工学部(略称:二工)で航空機の開発に携わっていたので兵役に取られなくて、戦後サッカーと両立させて関東大学リーグで東大最後の優勝時キャプテンでした。私は両親と共に1948年に満州から帰国すると、東大の練習や合宿に付いていって当時の学生と一緒にサッカーの練習をしました。それもつかの間、父親が国内の店舗を広げるチームのリーダーとして日本全国に赴任すると、兄や姉達とは別に私だけ父の勤務先に付いて半年ごとに転居しました。そのため小学校3~5年生の時、満州で学校へ殆ど行っていなくて、帰国してそのまま6年生になりました。小学校の3年間と中学の3年間のし、高校から慶應へ入って、そのまま大学へ行きました。サッカーの現役時代にNHKラジオ「私の秘密」から「6年間で11回転校について聞きたい」との出演要請を断りました。今、いじめやあおり運転などろくでもないことが日本の社会を覆っていますが、私ぐらいみんなのいじめのターゲットになってもおかしくない人間ですが、産まれ墜ちてから学校時代、スポーツを通じて、80も半ばに近づいているのだけどいじめを受けた経験がないのです。他人とのいざこざも経験したことがありません。

 ――大学2年生の時、サッカーの日本代表選手に選ばれたのですね。

 二宮 幸運なことに、天皇杯を賭けた全日本選手権に慶應のOBと現役の混成で出場して優勝し、私が現役で唯一の選手としてまぐれ当たりみたいに活躍して代表チームに選抜されるきっかけになりました。その後、代表チームが日中国交正常化への布石を打つために日本のサッカーチームが中国遠征を戦後初めて行なったのです。スポーツでは卓球のピンポン外交よりも先でした。そのチームのメンバーに選ばれて、中国遠征したのが私の日本代表選手としてのデビューでした。北京の大運道場で毛沢東主席や周恩来首相が見守る中、10万人の大観衆の前で試合を行ないました。

 ――Jリーグ初代キャプテンの川淵三郎さんと同年ぐらいですか?

 二宮 川淵くんは年は同じですが、彼は早稲田大学へ入学するのに2年浪人しています。代表選手に私がいる時に入ってきて何度か一緒に試合をしたことがあります。

 ――就職先として1959年に三菱重工を選ばれた動機は?

 二宮 当時、日立製作所のサッカー部監督が慶應大学サッカー部OBの松岡巌さん(後に副社長)で大学3年生の時から話をもらって行く気になっていたのです。当時は父が亡くなり、兄姉も結婚して家を出ていた関係で母親と二人きりで、それまでああしろこうしろと言われたことがなかったのですが、初めて「日立へ行く」と話した時に「(父が三菱銀行、兄が三菱商事なので)とにかく三菱にしてほしい」と言われ三菱重工へ入りました。当時、朝鮮戦争特需のイケイケどんどんで好況の会社ではあったのだけど、先輩の意に背くようなことをして嫌な思い出の一つです。

 ――三菱でもサッカーで活躍し、兼任監督をされました。後半シーズンは専任監督で

 二宮 それも私が何をやったというのではなくて、やったのは選手です。

 ――個の集合に火を付けたのは監督の力です。

 二宮 私が強いてやったのは「中途半端なことなら日本リーグを脱退して職場へ戻ろう。やるんなら優勝してプロ化を目指すぐらいな気持ちで取り組もう」と言ったぐらいです。当時の三菱重工の社長は「牧田天皇」「横紙破り」「赤鬼のオマキ」と言われた豪腕の牧田與一郎さんです。社内で牧田さんにものが言える人がいなかった。僕は監督を命じられた時、社長と社長室で対峙して「どうやったら勝てるんだ?」という話からいろいろな提案をしたところ、同席していた勤労担当の副社長や労務部長に「二宮の出す要求を全部実現してやれ」と言ってくれました。それもすべて選手あっての話で、自分ひとりで大見得切れる話ではありません。それだけのことをやってもらえればきちっと結果を残せる選手がバックにいたから大口を叩けました。それを選手が意を決してやってくれたというのが今のJリーグの浦和レッズに繋がったひとつの歴史への第一歩だと思います。

 ――その時、牧田社長には「サラリーマン選手達の待遇改善、具体的には15:00勤務(やがては午前中勤務)、夜行列車を新幹線に、日本初の南米遠征や若手の海外留学、人工芝グラウンド、医療チームの設置など」を提案されたのですね。

 二宮 それは前提条件です。「17時の終礼からボールが見えないようなところで体だけ動かすような程度のことならやめた方がいい」と申し上げたわけです。

 ――翌年、ドイツへ単身渡ろうと思い立ったのは?

 二宮 当時、ドイツのサッカーが世界の頂点でした。私が選手時代に教わったこともある「日本のサッカーの父」と言われるデットマール・クラマーさんに会いに行ったらFIFA(国際サッカー連盟)の仕事で不在でした。

 ――ボルシアメンヘングラードバッハ(ボルシアMG)の練習を見たのですね。

 二宮 ドイツのデュッセルドルフ支店を通してボルシアMGを紹介されました。戦後のドイツを襲った2月の大寒波で気温も零下10度以下、芝のグラウンドがアイススケート場のように凍っていました。不思議なことに僕は子供の頃、満州で暮らしたので耐えられたんでしょう。午前も午後も観客が誰もいないところでずっと眺めていたら10日後に監督のへネス・バイスバイラーから「昼飯を一緒に食べよう」と言われました。その後、「今日から我が家へ泊まれ」と言われても「ありがとうございます」とはいくら図々しくてもなかなか言えないですよね。だけど子供の頃から新しい土地に行っても嫌な気持ちをしたことが一度もなかったのでホテルをキャンセルしてありがたく受け入れることにしました。それから40日間寝食を共にしたのですが、不思議な出会いでした。
 後でバイスバイラーに「どうして言葉を掛けてくれたのか?」と尋ねても明快な答えをもらったことはないのですが、「お前と俺とは黙っていても気持ちが通じ合う」と一回言われたことがあります。人間関係は夫婦にしても何にしても理屈とかでなく本当に心の通じ合う相手は世の中にいるものです。不思議な感じがするのですが、世の中にはそういう人間関係は存在するし、それを大事にしていくことが肝要だと思います。

 ――バイスバイラー監督は何を指導し、二宮さんはどんな点が学びになりましたか?

 二宮 「こうしろ」とか「ああしろ」とか何も教わっていません。ケルンの自宅で「指導者を目ざすなら、日常生活から“ありのままの私”を見るべき」と言われただけです。要するに自己開発をする気持ちを促していくだけです。ドイツにマイスター制度があります。職人の姿の背中を見て自分で学べということです。僕の人生を変えてくれたのはバイスバイラー監督だと思っています。それは事実です。僕の人間を分解していくとたどり着くのはバイスバイラー監督の生き様です。それは教わったと言うよりも僕の身となり血となっています。バイスバイラーは私のことをドイツで紹介する時、「俺の息子のヒロシだ」と言って紹介してくれます。僕の親父は前述の通り早世していて、国籍は違えどもサッカーで形成してくれた父親だということです。

 二宮 「こうしろ」とか「ああしろ」とか何も教わっていません。ケルンの自宅で「指導者を目ざすなら、日常生活から“ありのままの私”を見るべき」と言われただけです。要するに自己開発をする気持ちを促していくだけです。ドイツにマイスター制度があります。職人の姿の背中を見て自分で学べということです。僕の人生を変えてくれたのはバイスバイラー監督だと思っています。それは事実です。僕の人間を分解していくとたどり着くのはバイスバイラー監督の生き様です。それは教わったと言うよりも僕の身となり血となっています。バイスバイラーは私のことをドイツで紹介する時、「俺の息子のヒロシだ」と言って紹介してくれます。僕の親父は前述の通り早世していて、国籍は違えどもサッカーで形成してくれた父親だということです。

 ――三菱重工はDF片山洋、GK横山謙三、FW杉山隆一、MF森孝慈という4人の日本代表選手が海外経験も豊富でしたが、若手と開きがありました。それで二宮監督(当時)は若手を武者修行させて開きを埋めようと考えたのですね?

 二宮 バイスバイラーは私が帰国する時、「全体像を見た時に何をどうしたらいいかを考えて、年に2、3回、若い選手を何人か連れて来い」と言ってくれました。それで若手を3~4人ずつボルシアMGのプロチームに入れて一緒に練習させてもらいました。お金を一円も払わないで支援していただいたのは本当にありがたいことです。

 ――その結果、日本リーグ優勝2回、天皇杯2回など輝かしい成績を残されました。

 二宮 長沼健監督の時代のサッカー日本代表には三菱重工から補欠も含めて13人も選手を送り込みました。

 ――「良い選手である前に、良い人間であれ」と人間教育も説いたのですね。

 二宮 頭をラグビーだけに使ったらスポーツの選手だけでやっている時はそれでいいかもしれないけど、スポーツをやるのは長い人生の中の修行の一コマです。将来、立派な社員として、ただ単に仕事だけをしている人間よりももっと強固な人材を会社へ送るために、今はサッカーをやらせてくださいというのが社長にお願いした趣旨です。だからサッカーをしているだけではいい社員になれるはずがないので、練習後に社内のいろんな人に来ていただいて講師を務めてもらいました。そうすると会社で半日しかいなくても「頑張れよ」と声を掛けていただくし、勉強になることも言ってくださるし、会社からかけ離れた存在にならないような配慮をするというのが大きな目的です。

 ――全日本の代表監督就任時、「荒れ野に1人放り出されたような気分。種まきから始める決意」で代表監督を引き受けられました。どんな改革を行ないましたか?

  二宮 オリンピックメキシコ大会銅メダル時代の主力がエースの釜本邦茂のみという状態でした。そこで代表候補選手をブンレスリーガの複数のクラブに預ける分散合宿、練習着の統一、食事の改善、代表選手であることの喜びと重みの自覚等を促しました。

 ――奥寺康彦選手(当時・古河電工)のケルン移籍の橋渡しもされたとか?

 二宮 私が日本代表の監督をしている時、バイスバイラーが当時監督を務めていたケルンで合宿の機会をつくってくれました。そのとき目にとまってチャンスを得たわけです。彼はドイツのケルン、ヘルタ・ベルリン、ブレーメンで9年間ほど活躍しました。

三菱ヨーロッパ20年で
年間3,000台が30万台へ

 ――日本代表監督をやめて、三菱重工から三菱自動車に移籍したのですね。

 二宮 私がサッカーの代表チームの監督を辞めて仕事に戻ってサッカー協会から一切手を引いたのも、選手に言い出したことの範を垂れようと思ったからです。移籍したというよりも、三菱の自動車は重工の自動車部で製造・販売していたのが僕が代表チームの監督を辞める前に自動車部を分離独立したのです。自動車を販売する以上は本場のヨーロッパへ輸出できるような体制にしなければいけない、そのために拠点を設けようということで、サッカーでヨーロッパと長い繋がりがあるから私を欧州三菱自動車工業の責任者にという路線が敷かれました。

 ――三菱の自動車はヨーロッパではなじみがなかったですよね。

 二宮 販売していた国もオランダ、ベルギー、イギリス、ドイツの4カ国で年間3,000台に届かないような状況でした。私が日本へ帰国する時にはヨーロッパだけじゃなく中近東も含めて30万台になりました。当時、三菱自動車の国内とアメリカとヨーロッパの中で、ヨーロッパが最大の市場になりました。それも会長である私が何をしたではなくて全面委任した各国の有能なパートナーが頑張ってくれました。業績が好転したのは彼らのおかげです。私はいい人に巡り会う強運の持ち主です。

 ――癌で夭折した先妻の父親は三菱自動車水島工場のブレーキを製造していました。ブレーキ以外の協力工場で働く社員も家族も乗る車はすべてスリーダイヤモンドでした。

 二宮 当時、水島工場はスクーターや三輪車でしたが、今は軽自動車やRVRを製造しています。

 ――ヨーロッパには何年いらしたのですか?

 二宮 私は1976年から1998年ですから22、3年、家族は約10年です。本拠地はオランダ、ドイツ、オランダでした。ドイツは自動車の性能を確かめるのに有効で、販売台数が圧倒的に多かったわけです。オランダは政府から「現地生産をするなら戻して欲しい」と言われたからです。

 ――帰国後の2年間は?

 二宮 本社の海外調達本部長と言われて帰ってきて、世界中で自動車を生産していたのを統括しました。

カフェ「パッパニーニョ」開店
盟友ベッケンバウアーが命名

 ――2000年に三菱自動車を退職しカフェ「パッパニーニョ」を開いたのは?

 二宮 私はサッカーをやめたときも三菱自動車を退職したときも決断したら行動が早いです。日本人がもう少しゆとりのある生活をするようにということでカフェを始めました。

 ――コーヒーを初めて飲んだのはいつですか?

 二宮 19歳の時に中国遠征後、メルボルンオリンピックの準備のための遠征のメンバーにも選ばれて初めてヨーロッパの土を踏みました。その時に初めて南回りで30数時間掛けてローマにたどり着いてみんなと一緒に食事をして飲んだのが最初です。それから1日10杯程度飲んでいるので、私が日本人でコーヒーを一番多く飲んでいると思います。

 ――なぜ葉山ですか?

 二宮 ワイフの元銀行員の祖父が、友人と葉山に御用邸ができた後に別荘地として購入しました。この奥に若狭藩の別邸を東京から移築して義祖父母が住んでいました。我々はヨーロッパから帰国してからここで起居しています。

 ――今、若狭藩の別邸は?

 二宮 よく映画のロケで使っていただいたのですが、古いので取り壊しました。カフェ旧館の建物は昔、義父母の親戚が住んでいました。

 ――「パッパニーニョ」の名前の由来は?

 二宮 盟友のフランツ・ベッケンバウアーが来日した時に相談したら「パッパニーニョがいいじゃないか?」と勧めてくれました。パッパがお父さん、ニーニョが少年という意味です。

 ――なんといっても現在の日本代表選手がヨーロッパで堂々と勇躍できているのは、二宮さんがサッカー指導者としてドイツの組織的攻撃サッカーに学び日本サッカー界を変革し、ヨーロッパへの道をつくられたからではないかと思います。

 二宮 今、ヨーロッパで活躍している選手やレギュラーになっていなくても向こうのプロのチームに入ってやれるようになったというのはすごくいいことだと思うのだけど、それは選手自身の力で私の個人的な支援と関わりがあるかどうかわかりません。流れのきっかけぐらいをつくった程度でしょう。

 ――今度、生まれた時もサッカーをされますか?

 二宮 僕は人生を振り返ってみると、サッカーに没頭するまでの20年、その後のサッカーに没頭した20年、ビジネスマンとしての20年、カフェも気がついたら20年が経ちました。それぞれ全く違った20年ですが、それぞれ充実した20年だったと思います。満州で戦後苦労したのも、サッカーで汗を流したのも、ヨーロッパで仕事に没頭したのも、カフェで明け暮れたのも、すべて私の人生です。

 それぞれが比較できない充実した20年だったと思います。それが繋がって80数年になりました。それぞれを思い出してみると、嫌なことよりもいいことしかないのです。いい思い出は何かというと、それぞれの人との関わりです。人との関わりの中でそれぞれに区切りのある20年が送れたのはよかったと思います。私にとってどれをとっても充実していたので、「サッカーですか?」と尋ねられても「サッカーです」とはなかなか答えられません。

 ――2015年に日本サッカー殿堂入りを果たされました。

 二宮 そういうのは全部後追いです。私の過去の履歴とかを皆さんがその期間に華々しい評価があったわけでもなんでもないけど、それが20年、40年経った後で効いてくる。評価されるように意識してやったわけではないし、現実こんなことがあったかなと記憶にとどめていただけるようになるためには短期間では評価が出てこないと思うのです。だから一歩一歩培うことです。私の人生なにと言われたら、一歩どころか半歩ぐらいです。それを休まないで今日に続いてきたというのが、今日の私の姿です。その間に巡り会った人達に助けられながら後押ししていただきながら半歩ずつ前進した結果だと思います。

プロフィール

二宮寛(にのみや・ひろし)氏

1937年2月13日、東京生まれ。1956年度、慶應BRBで出場した天皇杯全日本選手権で優勝。大学在学中の1957年に日本代表デビューし、1961年までに38試合に出場、14得点を挙げた。1959年から新三菱重工(1964年から三菱重工/浦和レッズの前身)でプレーし、FWとして活躍。1967年から9シーズン三菱の監督を務め(1967、68年度は選手兼任)、日本サッカーリーグ(JSL)の最多勝率60.1%、最多連続無敗記録26(1968~70年度)を打ち立てるなど、三菱の黄金時代を築いた。1968年、単身でドイツに渡り、名将ヘネス・バイスバイラーに学び、ドイツサッカーとのパイプを構築。1969年度、東洋工業の連覇を阻止し、JSL初優勝を果たす。1971年度天皇杯初優勝、1973年度にはJSL1部と天皇杯の二冠を達成。1976年に日本代表監督に就任。1978年、三菱重工から分離独立した三菱自動車工業へ移籍し、欧州三菱自動車工業会長、海外調達本部長を務める。2000年からカフェ「パッパニーニョ」を経営。2015年、第12回日本サッカー殿堂入り。

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