沖縄・八重山諸島の西表島に海上交通しかない三十数人の集落「船浮」がある。ここで生まれ育った池田卓氏は小学生の時に習った八重山民謡を基にシンガーソングライターとなり、数々のヒット曲を生み出し、「船浮音祭り」を定着させてから郷里へ戻った。現在、歌手活動とともにじゃじゃまるツアーガイドや農業等に取り組んでいる。池田氏は「村の元気イコール学校の存続、若者の住む場所と仕事が必要」、そのために「自分のブランドよりも船浮ブランドを構築し、集落を維持していきたい」とビジョンを語る。
■ ゲスト
シンガーソングライター・竹富町観光大使 池田卓 氏
■ インタビュアー
旅するライター 山ノ堀正道
小学生2人に教職員6人の
西表島の奥地、船浮小中学校
――西表島は今回2度目の訪問です。前回は今年6月の早朝に白浜からカヤックで仲良川を上りサガリバナが水面に墜ちていく幻想的な光景に感動しました。その夜、寿司「初枝」で大将に「この島で一番の有名人は誰ですか?」と尋ねたら「池田卓さんです」と教わり、YouTubeで池田さんの歌を聴いたらどれも心に響きました。トリでご出演予定だった第9回南ぬ島まつりが台風10号の到来で中止となり残念です。今回は池田さんのご実家ふなうき荘に突然泊まれないかもしれないという事態で一時落ち込みました。
池田 それで「どうしても」と言われたのですね。母が家庭の事情で「民宿を閉めてでも行く」という話になりました。
――昨日、奥様に「卓さんはいらっしゃいますか?」と尋ねたら「夕方帰ってきます。明日はじゃじゃまるツアーの船長をします」と教えてもらったので「ぜひ参加させてください」とお願いしました。珊瑚礁スノーケルでの海中は絶景で、水落の滝での水行はとても気持ちが良かったです。取材の了解も事務所からすぐにOKをいただき大満足です。
池田 お役に立て良かったです。あの珊瑚礁は崎山湾・網取湾に生息しています。環境省の自然環境保全地域は全国15箇所あるのですが、海で認定されたのはここだけです。
――この船浮集落は西表島の中でも道路がないため白浜港から海上交通のみですね。住民はどのくらいいらっしゃるのですか?
池田 住民は30人、学校の先生が6人です。
――池田さんは竹富町立船浮小中学校で同級生がいなくて寂しくなかったですか?
池田 人間は生まれた場所が基準になります。僕からしたら1級上も2級上も姉の学年も1人しかいなくて、逆に複数いたりすると特別と思いました。隣の白浜小学校へ行っても同級生が3、4人だったので少ないのが当たり前という感じでした。
――小学校高学年から野球を始められたとか?
池田 野球部がないので4年生から壁当てと素振りを始めました。
――野球は9人でプレーするスポーツで壁当てと素振りだけだと上達が厳しいのでは?
池田 他校のみんなは少年野球でちゃんと基礎を教わっているので、相当練習しないと追いつけないと思って放課後の1日3時間、2、300球程度ひたすら投げ続けました。
――「神様、仏様、稲尾様」の稲尾和久投手(元西鉄ライオンズ)は艪を漕いで剛球投手になったと言われていますが。
池田 僕は艪を漕いだことはありませんが、山へ入ったり、何時間も泳いだりしたので、肩や足腰が強くなりました。中学3年生の時に1回ぐらいは沖縄県中学校総合体育大会で野球のユニフォームを着たいと思って船浦中学校へ転校したのです。そうしたらエースで4番の僕の球をキャッチャーが捕れなくて、同級生なのに本気でやっているのかと思いました。そこからワンマンが始まって、「僕は素振りと壁当てだけでやってきた。なんでお前らは恵まれた環境でこれだけしかできないのか?」と言いました。今僕は逆に「足りないことが育ててくれる」としゃべっています。オリンピックも環境で勝てるのであれば東京やニューヨークの選手ばかりが金メダルを獲得すると思うのです。ジャマイカやケニアの人達は、設備やサポートがない中で工夫したり、敗けてたまるか精神で頑張っているわけです。僕も足りないぐらいがちょうどいいと思っています。
――池田さんが船浦中学校へ転校したときは大変だったとか?
池田 中学校は教科ごとの担任制なので1学年なくなると先生が2人減るといって、地域も教育委員会も大問題だったようです。それを親父とお袋が奔走してくれたようで、「大丈夫みたいだ」と言ってくれました。今、船浮小中学校の生徒は井上くんとうちの娘の2人だけ、下にもうちの息子しかいないので子供は池田家にかかっている、その子を出すようなものです。当時を振り返ると怖ろしいことをしたなと思いますが、「みんな応援しているよ」と言ってくれたので「だったら嬉しいな」と言って口笛を吹いて出ていきました。成人式で帰ってきて、地域の人から大変だったことを初めて教わりました。
――公民館長兼PTA会長のお父さん、小学校教諭のお母さんがガードしてくれたと。
池田 息子のやりたいことを尊重し応援してくれました。
夏の甲子園連続準優勝の
沖縄水産高校野球部へ入部
――進学された沖縄水産高校は当時、県内一の野球強豪校だったのですか?
池田 そうです。4、50人ぐらいが11月の1日体験入学に呼ばれ、僕も学校を見たいと希望し参加しました。勉強をするのかと思ったら栽弘義監督(当時)が「授業はいいからグラウンドへ来い」と言われ、僕のバッテッィングやピッチングを見て、推薦で取ってくれました。栽監督は県内に1校しかない水産高校だと全県下から選手を集められるという理由で沖縄水産高校へ赴任したそうです。
――沖縄水産高校は平成2年に天理高校相手に0-1、平成3年に大阪桐蔭高校相手に8-13と2年連続の甲子園準優勝で涙を呑みました。あのとき「沖縄県の高校が甲子園で優勝して初めて沖縄県に戦後が訪れる」という言葉を聞きました。
池田 僕が小学校5、6年生の時です。そのテレビを見て野球を本格的にやりたい、沖縄水産高校へ行きたいと思いました。
――沖縄水産高校でもエースで4番ですか?
池田 いえいえ。沖縄全県からエースや4番が1学年に約50人、全学年で約150人が集まるので厳しかったです。僕がベンチ入りしたのは先輩達が出た2年の秋からです。沖縄水産高校で1年春から背番号をもらったのは上原晃投手(元ヤクルトスワローズ)と大城直也投手(元新日石ENEOS)の2人だけと言われています。
――池田さん達の高校時代の戦績は?
池田 僕の1つ上の学年は甲子園に春夏出場したのでアルプススタンドで応援しました。僕達の代は1年生大会や2年生の新人戦でも優勝しました。2年生の秋季九州大会では2回戦で敗け、ベスト4に入った浦添商業高校が春の甲子園へ行きました。春季県大会は浦添商業抜きで僕達が優勝し、彼らが帰ってきたときチャレンジマッチを15-0で勝ちました。夏の県大会の決勝で対戦したときは油断したのか3-7で敗けました。
――そのときのエースは?
池田 2年生エースの宮里康(元駒澤大学)です。他に1年生のときから投げていた大城と、後に甲子園で151キロをマークし松坂大輔と並んで当時高校生最速として脚光を浴びた新垣渚(元東京ヤクルトスワローズ)がいます。彼らにさっさと抜かれました。僕達が卒業した翌年も沖縄水産高校は甲子園へ出場しました。
歌手10周年と父親の還暦で
故郷へ戻り父親から教わる
――高校卒業後の進路は?
池田 九州の中でも野球のレベルが高いところへ行こうと思って沖縄国際大学へ進学しました。しかし19歳から野球熱が褪めて、歌をやりたいと思いました。
――小学校5年生から八重山民謡を習ったのですね?
池田 小学校の先生にクラブ活動で三線を教えてもらって賞を獲ろうと思い公民館で一所懸命練習しました。その先生が中学校1年生の時に転勤されて音楽を中断していました。
――19歳の時に西表島の芸能祭に参加したのがきっかけですか?
池田 砂浜芸能祭のステージに立って歌って気持ちよかったです。野球のピッチャーのような感じで、さらに目立つかもしれません。
――「島の人よ」のCDデビューになるのですね。
池田 18歳の高校3年生の時に甲子園の夢が破れて夏休みに帰って民謡を歌い、大学へ入学して祭りの時にオリジナル曲で歌おうと思って「島の人よ」を作詞・作曲しました。だから大学の後期は野球に力を入れていない感じです。もし18歳の時に野球でなく歌を選択していたら、いずれ船浮に帰ろうと思っていたので名護市にできたばかりの観光学科があって野球もすぐレギュラーになれる名桜大学を受験したかもしれません。
――「島の人よ」は沖縄の人達の心に訴える歌詞ですね。
池田 元々はデビューやCD化を考えていなくて、みんなに当てはまるようにも歌っていません。船浮の節祭り(旧暦10月に豊作への感謝と五穀豊穣、健康等を祈願)に漕ぎ手がいないので「サバニこいでみようじゃないか」という歌詞です。僕も本当は船浮の節祭りに帰ってきたかったのですが、野球部があって盆と正月ぐらいしか戻れませんでした。
――音楽でメジャーデビューし沖縄本島を起点に海外でも活動されましたね。
池田 平成17年(2005年)に「心色」で全国デビューするきっかけをいただきました。海外には20年(08年)シリア、ヨルダン、イエメンで「中東沖縄音楽公演」(メインボーカル)、21年(09年)アメリカ・カナダツアーでKACHIMBA4との共演、23年(11年)サウジアラビア「ジャナドリア祭」、チェコ、ドイツ「ミュージック&リズムス」、24年(12年)アメリカ、中国「ミュージック&リズムス」、ハワイ「沖縄フェスティバル」那覇太鼓との共演などでした。
――この間、平成19年(07年)に船浮での音楽イベント「船浮音祭り」を企画・プロデュースしたのを機に故郷へ帰ろうと思ったのですか?
池田 最初のCDが「島の人よ」、ファーストアルバムも「この島に咲きたくて」というタイトルで、「この島に芽生え、この島に散る」という歌詞です。両親へのメッセージでもあります。プロ野球選手に仮になったとしてもどんな形で帰るかと悩むよりも、歌手だったらこっちにいても続けられると思いました。だから20歳の頃に思い描いた通りです。もう少し本島で活動しようかとも思ったのですが、僕の歌手10周年と親父の還暦がいい機会だと思いました。親父に体力があるうちならいろいろ教えてもらえるので、このタイミングを逃したら厳しいと思いました。個人事務所だったときのマネージャーさんに「10周年で田舎へ帰りたいので平成22年(10年)、平成23年(11年)をピークにしたい」とお願いし了解を得ていました。「心色」のときメジャーと契約しなかったのは自分の権利は自分で持っていたいと思ったからです。メジャーに行っても自分の思うようにできなくてダメだったとき悔いしか残らない、それよりも自分で好きなように取り組めば納得がいくと思いました。
「船浮音祭り」を
毎年4月に開催
――お父さんが船浮海運と民宿ふなうき荘を経営されて、観光客も1日に1人とか2人、オフシーズンにはゼロの日も続くような状態で、帰京後の青写真をどう描きましたか?
池田 元々田舎としか思っていなかったのですが、外に出るとみんなから「自然や素朴な生活がいいな」と言われるし、絶対に西表島が注目されるときが来るというのはわかっていました。しかし跡継ぎと言われるのが嫌で何か一つ成功させて、それを持って帰りたいと思っていました。しかも今はインターネットがあるし発信力を上げたいです。旧暦6月に行なわれる豊年祭(その年の五穀豊穣に感謝し、来夏世の世果報を祈願)が元気になるためには観光だけでなく、「なうり世ばたぼらり(稔りの世をください)」という歌もあるので農業にも力を入れ、「船浮産」のコーヒーやミツバチのミツなどをブランド化し、民宿も母と代替わりしてちゃんと取り組もうと思います。
――島へ帰ってくる前に「船浮音祭り」を企画・プロデュースされました。
池田 船浮に帰ってからでは遅いので事務所のマネージャーさんと相談して那覇へいる間に新聞社やテレビ局などメディアの力も借りて、船浮音祭りを3、4年始めておこうと思いました。
――毎回、インパクトのあるミュージシャンを集めていますね?
池田 子供の頃、テレビに出演する人に出会う機会はなかなかないので、僕が知り合ったミュージシャンを年1組と決めて声を掛けています。
――毎年、500~600人集まるとか?
池田 もう少しいけそうな気もするのですが、石垣港から上原港の高速艇はともかく、上原―白浜間のバスがこれ以上追いつかないという問題があります。また、石垣港からの直行便を出したとしても船浮に停泊できる港がないのです。
――ここには宿泊のキャパがないので白浜や祖内、上原の宿が喜びますね。
池田 4月は「うりずん(潤い初め)」と言われて一番いい季節であるにも拘わらず、清明祭(墓参り)や新年度でみんな忙しく、島は閑散期なのです。
――昨夕、白浜港で定期船に乗ろうと思った時、船から降りてきたのは外国人ばかりで10人以上いました。
池田 船浮のイダの浜は国内ビーチのベスト10に選ばれました。外国のガイドブックにも「東洋1」と載ったみたいで外国人が大挙してやってくるようになりました。ただ、電話でしか受けていないじゃじゃまるツアーにも今日初めて外国人、スイス人のカップルが参加してくれました。
――そのスイス人カップルは「京都、飛騨高山を回ってきた」と言っていました。「じゃじゃまる」とは?
池田 母が西表島内の小学校への通勤に使っていた船です。当時、NHKテレビ『おかあさんといっしょ』のコーナーで放送された着ぐるみによる人形劇「にこにこ、ぷん」に、じゃじゃまる、ぴっころ、ぽろりがいて、小学生達も見る船だから「じゃじゃまる」に命名したそうです。
「15の春」で島を出るので
中学生になると自立させる
――これまで米蔵お父さんの背中を追いかけてきたとのことですが。
池田 親父の背中を見てかっこいい、こうなりたいと思って帰ってきたところもあるし、子供の時から憧れていました。外へ出てもどこかのお金持ちの社長がかっこいいと思えなくて、ミュージシャンの先輩方もそれはそれでかっこいいですが、オールマイティーで何でもできる島の大人には勝てません。
――お父さんは水道工事も電気工事もできて祭りでも一番に動かれるそうですね?
池田 誰かがやらざるをえないのであれば自分が動くという考え方で、それを楽しんでいるようです。そういうのを全部ひっくるめたらこういう離島に、失われた大切なものが全部残っているなと。逆を言えば不便だからこそ残っているのでしょうね。便利になってiPhoneやクレジットカードがあれば1人で生きていける世の中になってしまい、だからこそみんな寂しいというか繋がりもないので、人のために何かやれることが恵まれているとわかっているような感じです。
――ご両親は島に留まって欲しいという気持ちがあったからからでしょうか、一度も叱ったことがないそうですね?
池田 小学生までは毎日のように叱られていましたが、育て方がうまいと思います。「15の春」と言って離島・島嶼の子は高校入学と同時に独り立ちして自分で判断しなければいけません。小学校までに教わることを全部教わって、中学生になると「自分が決めたことは自分でやりなさい。お父さん、お母さんは応援するから」といきなり言い出したので病気になって死ぬのかなと思ったぐらいです。だから「転校したい」と言ったときも尊重してくれました。中学のときからやっていいことと悪いことぐらいわかっていながら流されることもあるのですが、逆に「お前は大人だから」と言われればしっかりしないといけないなとなるし、叱られないようにしようと生きました。高校へ入学するときに「一つだけ、人に迷惑をかけなければ何をやっても構わない」と言われて島を出されました。悪いことは人に迷惑をかけます。「あれもこれもやるな」と言われれば反抗したかもしれませんが、一つぐらいなら守ろうかと思いました。厳しいと言われる離島・島嶼の環境が、こういう効果的な育て方になったのだと思います。
――お母さんはどうでしたか?
池田 母も小学校までは「部屋の掃除をしないと何もさせん。自分のことは自分でやりなさい」と言いました。しかし中学生になるとピタッとやみました。
――学校での敏子先生は?
池田 やっちゃいけないこととか学校の方が厳しかったです。
――「おばあちゃんの唄」がグッときますね。
池田 干立に住んでいた母方の祖母の要素が大きいのですが、父方の祖母もこっちへいたし、保育所がなかったので託児してくれた仲立という姓のおじいちゃんおばあちゃんも含まれています。
――「にいに」と呼ぶ従兄さんはロシアの大学を出てガイドをされていますね?
池田 船浮にはそういう人が多いです。みんな都会や海外を目指していくけど、最後はここしかないと思って戻ってきます。父も「都会も一度は見てみよ」と言いました。これだけ離島・島嶼がたくさんあってみんな都会がいいなと思っていますが、ここ船浮が最高だと広めていきたいですね。本でも書いて。
民宿がしっかりしないと
船浮に観光客が増えない
――2人のお子さんにはどのように育って欲しいですか?
池田 明るい子であればと思っています。上の娘はお利口ですよ。1人でも文句を言わないでいつもにこにこよく笑うし。
――船浮小中学校の9年間を背負って立つわけですね?
池田 学校も小規模校の特性を活かして教育の仕方を考えてくれるので、隣の学校へ行く合同学習を楽しみにしています。
――児童生徒が少ないとリーダーシップもとれますね。
池田 高学年になったら児童会長、生徒会長を経験するので町の代表としてもステージに立って挨拶するのが当たり前で緊張しません。そういうところから僕もマウンド度胸がついたのかもしれません。
――国策としては小規模校の統廃合の方向ですが、小中学校はどうすれば残ると思いますか?
池田 船浮に関しては海が隔てているというか海に守られています。海がなかったら「小学校は白浜、中学校は船浦へ車で行きなさい」と言って統廃合の標的ですね。海があるおかげで「船浮は残さないといけない。白浜は道路で繋がっているから隣の中学校へ行けば大丈夫だ」となる。子供達にとっては一緒になって大勢の方がわいわいガヤガヤ楽しいかもしれないけれど、今日のツアーで見た網取にしても崎山にしても学校がなくなって廃村になりました。だから村の元気イコール学校の存続というのを船浮の人は重々わかっているのです。そのためには若い人達の住む場所と魅力のある仕事の確保が必要ですね。あと外の人が何かを始めようと思ったら「よそ者が金儲けをしようとしている」と言われて難しいのです。だから僕がやっていくしかないと思っています。
ツアーも最初は全部自分がやっていたのですが、いまはどうにかして人に任せたいと思って1人雇いました。本当はじゃじゃまる4艇でガイドを4人雇って「卓ツアー」と銘打てばもっと儲かるでしょうが、僕の名前でなく船浮の名前で人が集まるようにしなければと思っています。
母の民宿の考えは電話でお客さんを取りたいということなので人を雇わないで自分が可能なときにだけお客さんを入れるわけです。今、宣伝してもお客さんが来られないのが普通なので、「行きたい」とおっしゃれば「ようこそ」と言わないといけない。僕は民宿がしっかりしないと船浮に観光客が増えないと思っています。宿があって初めて3泊してみよう4泊してみようとなって、「ツアーもできますよ」「1日はエステやマッサージができますよ」となります。山ノ堀さんに泊まっていただいた部屋も古いので改築して強力なWi-Fiを引きフリースペースにして本をいっぱい並べてゆっくりしてもらえたらと思っています。
――「学校があるから地域が残った」「若い人に魅力のある仕事場が必要だ」の言葉が良かったですね。
池田 「青年会」も島の人間は3人しかいないので後の4~5人は学校の先生です。船浮は離島・島嶼の僻地で希望が少なくほぼ新任です。着任した段階で地域に溶け込めるようにということで「船浮音祭り」も4月の第3土曜日に実施しています。4月に何回も集まって打ち合わせや打ち上げで、仲良くなったら1年間が充実して過ごせるだろうということです。3月だったら全く意味ないですね。離任される先生も「初めて来てすぐあんなに働かされるとは思わなかったけど、あの祭りのおかげで楽しかった」と言われます。
プロフィール
池田卓(いけだ・すぐる)氏
昭和54年(1979年)5月24日、西表島にある人口約40人の船浮という小さな集落で生まれ育つ。学年が1人だったため、雨の日は楽器が友達替わり。小学5年生から八重山民謡を習い始める。19歳の夏、島の芸能祭に参加したのをきっかけに本格的に音楽活動を開始。平成12年(2000年)10月10日に「島の人よ」でCDデビュー。この曲が天気予報のBGMに起用され脚光を浴びる。2005年には「心色」で全国デビュー。ベストアルバムや八重山民謡アルバムを含め、これまで11枚のCDを発表。平成19年(2007年)より、故郷・船浮にて音楽イベント「船浮音祭り」を企画・プロデュース。平成20年(2008年)以降は中東や欧米、アジア地域での海外ライブにも出演、活動の幅をさらに広げている。平成23年(2011年)、10周年と父親の還暦を機に里帰り。実家のふなうき荘やツアーガイド、米や珈琲などを育てながら、船浮を拠点にライブ・祭り・イベントと全国で活動する傍ら、ラジオパーソナリティーや講演活動、執筆、声優、俳優など、多方面で活躍中。平成26年(2014年)より竹富町観光大使を現任。