レオナルド・ダ・ヴィンチやアントニオ・ガウディに憧れて建築家を目指した風見正三氏は、エベネザー・ハワードの「田園都市論」の今日的な意味を探るために、イギリスへ留学。東工大大学院にて学位取得し、同論文で学会賞を受賞、宮城大学の教授に就任した後、3.11に遭遇し、東日本大震災の被災地で復興まちづくりに邁進。津波被害にあった小学校を再建するプロジェクト「森の学校」で2017年グッドデザイン賞を獲得、世界から注目されている。グローカルを意識し、ガイア都市創造塾を設立。夢は「地球と共生できるコミュニティ、ガイアヴィレッジの実現」とのこと壮大だ。
■ゲスト
宮城大学理事・副学長・事業構想学群長、事業構想学研究科長、教授、都市計画家、ガイア都市創造塾塾長 風見正三氏
■インタビュアー
旅するライター 山ノ堀正道
都市と田園が融合する
田園都市論から都市計画へ
――風見先生は東日本大震災の復興まちづくりで世界的に名を馳せられました。まずは建築家を目指された動機からお願いします。
風見 建築家の役割はとても広く、私の専門は建築ではありますが、建築から発し、都市をデザインするという領域にまで広がっているため、都市計画家という職名の方が自らの仕事に適合していると感じています。まずは、私がなぜ建築・都市計画の分野を目指したかというお話から始めたいと思います。
私は将来どんな職業に就くか全くわからない頃から、絵を書くことが大好きで、幼い頃から、新聞に折り込まれていた広告の裏や白い紙を見つけてはひたすら描き続けていました。そのくらい絵を描くことにすごい閃きや衝動があったのです。絵を描いていると時間を忘れました。生家は萱葺屋根の古い大きい家でしたので、大工の棟梁が屋根の手入れに来ており、図面もないのに目の前で木を削ったりしながら家を建てていく姿を見て魅了され、人の住まいや暮らしを創造する仕事にとても惹かれ、大工になろうと思った時期もありました。その後、大学受験前に、数学がとても好きになって、数学と絵を描くことを掛け合わせて、建築という分野が浮かびあがりました。建築を通じて世の中に貢献したいと思い、大学では建築を専攻し、レオナルド・ダ・ヴィンチやアントニオ・ガウディに憧れて学びを深めていきました。大学時代に、建築のデザインも重要とは感じていましたが、より広い視野が必要になるまちづくりの分野に関心を抱くようになり、建築の集合体である都市をデザインしていく、都市というオーケストラを奏でるコンダクターを目指そうと決意をします。自分の造形によって、世の中を前進させ、より良いものに変えていける建築や都市計画の仕事を壮大であると感じました。
――大学の頃から建築の作品で数々の賞を受賞されました。
風見 幼い頃から絵が得意で絵画展等でたくさんの賞をいただき、大学でも設計製図の課題で最優秀賞を獲得し、ほとんどの作品が大学に保存されることになりましたが、デザインするだけでは自分が満たされないものがありました。デザインの講義や演習で、丸がいいとか四角がいいとか、という議論をしていく中で、その奥にある、なぜ、それが丸や四角であるべきなのかということがとても重要だと感じ、建築・都市の意味論や発展過程に関心が向き、「都市計画」という学問にたどりつきました。そして、約20年後に、その解説書を出版することになる、エベネザー・ハワードの「田園都市論」に出会い、「都市と田園は結婚しなければならない」というメッセージに感動し、都市と田園の融合モデルに都市の未来像を感じました。「都市計画」とは、こうした都市の理想像を構築していく学問であり、「田園都市論」はその原点といえる根幹の思想で、そこから、都市計画の分野に猛然と進んでいくことになります。
――大学卒業後、財団法人日本ダム協会研究部へ入所された理由は?
風見 都市計画の仕事を探していると様々な民間企業や研究所からいろいろな誘いがありましたが、研究職に興味があったことと、国の政策立案の現場を知りたいという思いから、当時の建設省の外郭団体に入り、ダム開発に伴う水源地域整備計画等に携わりました。日本全国のダムで水没した村落を調査し、生活再建対策や水源地域の振興整備計画を策定しました。また、同時に、東京湾横断道路、関西国際空港、関越導水(新潟の水を東京に送る水資源システムの開発)などの国家的なプロジェクトを推進する「JAPAIC(一般社団法人日本プロジェクト産業協議会)」が設立され、JAPAICの仕事を兼務しながら、国家的な都市開発プロジェクトを推進する機会を得ました。その当時は、「民間版ニューディール」という潮流が社会を動かしており、自民党政調会や経団連(日本経済団体連合会)、鋼材倶楽部、土工協(日本土木工業協会)といった団体が集まり国の未来を左右する大規模な社会資本整備の構想を立案していました。20代前半から、こうした当時の日本経済を動かしていた経済界の重鎮の方々に直接お会いして様々なお話を伺えた経験はその後の人生にとって大きな財産となりました。時代は、昭和から平成に変わる直前で、日本経済がまだ上昇の機運にあった時代に、日本の進路を左右する壮大な仕事に関われることに感動を覚えていました。
――そこでプロジェクト思考を身につけられたわけですね。
風見 現在、私は、宮城大学の「事業構想学群」の学群長をしており、この学群は英語で「プロジェクトデザイン」と訳されています。私の人生は、まさに、プロジェクトを創造するプロフェッショナルを目指した人生といえます。1980年代には、「マクロプロジェクト」や「マクロエンジニアリング」という分野も発展し、海外のプロジェクトや政府を超えた国際的なプロジェクトに携わる機会も増えていきました。私自身、学生の頃から、「田園都市論」の先見性に感動し、都市計画に傾注していったので、常に、壮大なスケールで未来を構想しデザインすることに興味があったわけです。
――現在、東京オリンピック新国立競技場を施工している大成建設に転職されたのは?
風見 一般財団法人日本ダム協会で研究員をしていた当時、ダムで水没する集落の人々の生活再建調査や水没する市町村が衰退しないための地域振興計画の策定、また、国の法律改正の仕事にも携わりました。生活再建調査では、移転者の一軒一軒に直接訪問し、そこで、ヒアリングを行ないながら改善策を提案していく仕事をしていました。ほとんどが山村ですので、一軒終わるとそこから遠くの山に光る家を目指し、峠を降りてまた登り、夜遅くまで移転者の声に耳を傾けていました。法律改正の仕事では、公共事業の施行に伴う公共補償基準要綱や損失補償基準要綱等、ダムを建造するときの水没の補償制度に関する様々な法律改正に関与しました。ダムで水没する鉄道があった場合、その機能をいかに補償するべきかという法律的な妥当性について研究したりしていました。このような仕事も大変やりがいがありましたが、法律の改正と実際の人々の生活の改善がかけ離れているように思え、自分は建築を学んできたので、実際の建築の現場で解決策を示し、地域の人達と対話をしながら、デザインを通してより具体的に世の中を良くしていけるのでは思うようになりました。
そうした時期に、ゼネコンの大成建設から声をかけていただき、ものづくりの現場に触れたくて入社しました。入社する際に、計画部門と設計部門のどちらか、進む道を選択できる幸運もいただきました。当時、国家的なプロジェクトの経験を通じて、国との繋がりが深かったことや都市計画の専門性を会社が高く評価してくれたからだと思います。時代は、まさに、好景気の中、建設市場は沸騰し、「造注産業」という言葉が生まれ、建設業は受注産業から仕事を創造していく産業に転換しつつあり、優秀な企画部門が必要でした。時代の要請もあり、そうした都市プランナーの専門家として会社に招かれ、全国のプロジェクトの企画を担当していく幸運を得ました。政策立案の場からものづくりに近い現場に移り、とても楽しかった時期でもあります。
ロンドン大学へ留学し
英国貴族の生活に触れる
――イギリスのロンドン大学に留学され、この期間もかなり受賞されていますね?
風見 第10回まちの活性化・都市デザイン競技の国土交通大臣賞をはじめ、多くの賞をいただきました。私にとっては、建築という職能から、個人としての成果を挙げることと会社としての業績を伸ばすことはほぼ一致していましたので、自らの研鑽をどんどん仕事に反映していくことができました。
――日本の建築物は木が多くて、ゼネコンはコンクリートですね。そういう中で石のロンドンで勉強しようと思われたのは?
風見 当時、私は、本社の中枢部門として創設されたプロジェクト推進部に集められ、東京臨海副都心の暫定利用コンペや全国の大規模プロジェクトの企画推進業務をしていました。東京臨海副都心の開発では、当時、ST街区と呼んでいた計画地を、三井物産、トヨタ自動車、電通等と企業連合を組んでコンペに応募し、当選を果たしました。これは、現在、パレットタウンとして多くの人々を集めています。この他にもたくさんの都市開発プロジェクトで具体的な成果を出すことができ、1991年には社費留学の機会を与えられ、英国に留学することができました。
留学先については、米国の名門校も視野にありましたが、大学時代に感動したハワードの「田園都市論」を研究したいという強い想いから、英国国立ロンドン大学大学院を受験することにしました。ロンドン大学はたくさんのカレッジの集合体で、私が進学を決めた「LSE (The London School of Economics and Political Science)」や「Imperial College of London」はノーベル賞を多数生み出している欧州のトップスクールのひとつで合格通知をもらうためには数々の難関を突破する必要がありました。当時、湾岸戦争が勃発した時期で、英国渡航も危ぶまれる時期であったことを懐かしく思います。あの頃、英国病に陥ったイギリスに学ぶものがあるのかと言う人もいましたが、都市計画の分野においては、イギリスにこそ、その原点があるということを上司にも熱く伝え、応援していただきました。
私にとって、こうして長年の夢であるハワードの研究が社費留学の機会を得ることによって急速に現実化することになりました。都市計画の原点を学ぶことは、これからの自分や日本にとって必ず役立つという確信がありました。LSEでは、ハワードの世界的な研究者であるピーター・ホール卿をはじめとする高名な教授陣と意見交換をする機会を得て、『Town and Country Planning Act. 1947』の成立過程や「都市を計画する」という概念を生み出した原点を見出すために英国各地を訪ねました。そして、憧れの英国に住むことは、その後の人生に大きな転換点をもたらしていきます。
――イギリスの約南半分はローマ帝国の時代を経験したことで、ローマへの憧憬と言いましょうか大英博物館もパンテオンを模していますね。
風見 ロンドンは大きな都市でとてもコスモポリタンですが、イギリスにとってはとても特殊な場所です。彼らの国は「スチュワードシップ」という精神があり、貴族が土地に仕えるように、人間は美しい自然を慈しみ奉仕しなければならないというが根本思想があります。英国では、貴族は自然の豊かなカントリーサイドに住み、街には仕事場を持っているのを理想としており、それを「カントリーサイドジェントルマン」と称して誇りに思っています。
イギリスの真髄は田園にあります。田園の力が都市を支えている。イギリスは田園の暮らしと都市の暮らしを上手に棲み分けているのです。ロンドンのコスモポリタンは田園を抱えているからこそ美しい。私は、そうしたイギリスの美しい田園と歴史を蓄えた都市の両立性に惹かれ、その根幹を知りたいと思っていました。
ハワードの「田園都市論」では、都市部の面積が400haに対して、農地は2000ha、人口は 32,000 人に保つことを提示しています。ハワードの思想は、まさに、都市を形成するためには5倍の田園が必要であるという「都市と田園の融合」を提示した画期的な都市モデルなのです。そして、都市システムとして、1世紀も前から、資源循環型、自給自足型、自立経営型の都市の重要性をハワードは提示していたのです。そして、その原点こそが、自然を大事にするイギリスという国家や風土にあるといえます。
イギリスは、産業革命で木をほとんど伐ってしまいましたが、そこから、彼らは森をつくり、自然を再生してきました。イギリス式の庭園は、自然への憧憬の念から、自然を模倣した技法を尊重しており、その中でも、「ワイルドガーデン」はイギリスの牧歌的な風景を模倣した庭として世界中から愛されています。それに対して、フランス式の庭園は、幾何学的な造形が多く取り入れられており、造園の技法も国によって様々です。
イギリスは、ローマ帝国の侵略の歴史を持っており、北部には、荒涼とした田園地帯に残る「ハドリアヌスの長城」など、その当時の痕跡がまだたくさん残っています。イングランド南西端のコンウォールや中央部のコッツウォルズ等の田園地帯も美しい田園風景が広がる場所です。そこには、シェークスピアの時代を感じさせる古典的なイギリスの暮らしが今も残っており、目を奪われるような美しさがあります。そして、このような贅沢なイギリスの暮らしの中で、そこには、何か人間の生きる力があるのではないか? 東京はこれでは無個性な都市になってしまうのではないか? 都市は反省をすべき時期にきているのではないか? といった思いが湧き上がってきました。
――なるほど、英国貴族の生活ですね?
風見 日本と英国は共通の理念をもっているところが多くあります。イギリスも騎士や貴族の歴史と伝統が基盤にあり、日本にも武士や皇族の歴史と伝統が培われています。豊かな農村地帯が何万石の藩を支えてきたわけです。そして、真のリーダーとは、いざという時に先頭を走って闘い、領民を守ることが美学とされていました。貴族の乗馬の文化や馬術を競い合うことも、そうした騎士道、武士道の美学が伝えられているのです。
――ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の務め)として英国貴族は第一次世界大戦時に率先して死にましたからね。
風見 そうです。それをイギリス人と話すと日本の武士道と彼らのナイト精神は近いものがあると言います。海外で武士道の話をするとすごく喜ばれます。国を守ることは、土地を守り、民を守ること、それが武士や騎士の義務であり、誇りであったという精神は、日本や英国の土地や自然を尊ぶ精神に影響を与えていると思っています。
学位と学会賞を取得し教授へ
「ナボナの三冠」と言われる
――学者を目指したのは東京工業大学の大学院博士課程に進まれてからですか?
風見 英国留学中の平成4年(1992年)に、幸運にも国連の地球サミットへロンドン大学の学生として参加することができ、「ロンドン宣言」をまとめる作業に加われました。その時の一番大きなテーマは「サスティナブルデベロップメント(持続可能な発展)」でした。会場では、地球温暖化、森林破壊、貧困、ジェンダー(男女の性差)など、人類が何をなすべきかについて世界中の専門家、市民が集まり様々な議論が行われていました。自分に何ができるかと真剣に考えた時、この持続可能な社会を実現するために、一度だけの人生、一民間の企業人としてだけではなく、学者として世の中を先頭に立って正しい方向へ導きたいという思いが心の底から湧き上がってきました。そして、ロンドンでの研究に没頭する生活がとても贅沢な日々で、学問こそ自分の目指す仕事だと確信しました。ロンドン郊外の住まいから歩ける「キューガーデンズ」という王立植物園にたくさんの専門書を抱えて散歩に出かけ、木々の下で文献に向かっていた研鑽の日々はまさに人生の宝といえる時間でした。
思えば、大学生として研究をスタートした18歳の頃から、1日も研究のことを考えない日はありませんでした。日々、何かを考え、文章を書いてきました。気がつけばもう40年間も毎日論文を書いてきているわけです。本当に、学問が好きなのです。勉強という作業ではなく、世界を考え、問いを考え、自ら解いていく、学問という世界に美学を感じました。そして、世界を変えていくことが自分の人生をかけて挑みたい道であると確信しました。そして、イギリス留学から帰国し、持続可能な発展を学べる学舎を調べ、東京大学都市工学科と東京工業大学社会工学科のどちらに進むか悩みましたが、運命の恩師である東工大の原科幸彦教授(現・名誉教授、千葉商科大学学長)にお会いし、大成建設の職務の責任も重くなり、大変忙しい時期でしたが、平成11年(1999年)に今こそ門下に入るべきだと思い、大岡山の研究室を訪ねた日のことは忘れません。
原科先生は環境アセスメントの世界的な権威で、そこでは、環境アセスメントや環境に配慮した計画をどう策定すべきか、また、政策をどう変えるべきかを学び、博士論文では、「都市の環境持続可能性指標の開発に関する研究」と題した学位論文を提出し、2007年の3月、博士課程を修了し、念願の博士となりました。ロンドン大学時代に、これからの研究テーマとして「持続可能な発展」を掲げた私にとって、都市の政策に役立つ持続可能性指標をつくることは大きな目標であり念願でした。博士号は学者にとって武道の免許皆伝ともいえる名誉ある称号であり、人生の大きな目標を実現できた感動の日でした。そして、それは、学者としての人生をスタートするパスポートでもあったわけです。
建設会社の管理職として極めて多忙な時期で本当に大変でしたが、原科先生が素晴らしいタイミングで「何をやっているんだ」と叱咤激励してくれて、在学期間が8年のところ、7年半という半年の在学期間を残してようやく学位を取れ、幸運にも、その学位を構成している論文が2006年度の日本不動産学会学会賞(論文賞)に輝き、同時に、宮城大学の教授就任が決定し、原科先生から「学位と学会賞を取り、教授に就任して、ナボナ(お菓子のホームラン王)の三冠だ」と言っていただいたことが今でも嬉しい思い出です。日本不動産学会は日本学術会議の一員として長い歴史を持つ由緒ある学会ですが、数ある学会賞の中でも、毎年受賞者が出ない、難関の論文賞をいただけたことは本当に大変な栄誉で、この受賞は学者としての自信に繋がったとともに大きな節目の出来事となりました。
「森の学校」の子供達は
不登校ゼロ、残食率ゼロ
――宮城大学は県立大学ながら私学の多摩大学と校風が似ていますね? 実際に学生を指導してみてどうですか?
風見 大学教授という仕事は、大学からそのまま大学院の修士、博士課程と進んでアカデミズムの世界へ入るのが一般的で、一度、企業等に就職してしまうとなかなか大学へ戻るチャンスがありません。大学を出て社会人となり、また、大学に戻るチャンスを得ることは大変な幸運であり、まさに、天の導きと日々感謝しています。
自分は学問と実学の両輪で走ってきましたので、事業構想学部はまさにそのキャリアに合致しており、運命を感じました。教育と研究、社会貢献がすべて繋がり、自分の夢がどんどん実現していきました。大学教授は、牧師や医師のような、「職能」と呼ばれるもので、人を正しき道に導く、社会に貢献し、それこそが自分の成し遂げたい仕事だと感じていました。大学での学生との議論や指導の時間も尊いですし、人を導くという仕事はとても大きな責任があり、生きがいを感じています。
宮城大学は公立大学ですが、初代学長の野田一夫先生が「世界一美しいキャンパス」をつくることを提唱し、社会のイノベーションを起こす人材育成を目指したことから、東京の私立大学にあるような先進的な校風も持っていると思います。「事業構想学」という学問も野田初代学長が「地域から世界を変える」といったビジョンを掲げ、そのフラッグとなる学部として創設した日本で唯一の独創的な学部でした。野田先生は、その後、多摩大学も創設に関与され、学長に就任されておりますので、宮城大学と多摩大学は似ているところも多くあると思います。
多摩大学は経営情報学部事業構想学科、宮城大学が事業構想学部といった名称になっているのも、野田先生の創設した大学としての共通点といえます。宮城大学の事業構想学群では、様々な領域における事業構想のノウハウやプロジェクトの実現手法について学ぶ場となっており、私は、その中で、専門である、都市計画、地域計画、コミュニティビジネスについて事業構想学部の教授就任以来教えています。
――宮城大学教授就任3年後の平成23年(2011年)3月11日に東日本大震災が起こりました。
風見 「3.11」の大震災は忘れることはできない人生の大きな衝撃でした。前日の夕方まで、大崎市都市計画審議会の会長として、震災に備えよというメッセージを投げかけていました。震災が起きた際に、新しく仮設住宅を建てるのではなく、空き家を素早く転換できる仕組みを創設する必要性を説いていた翌日に大震災が起きたわけです。その翌日も沿岸部で会議が入っていたのですが、その会議が急にキャンセルとなり、私は偶然にも大震災の前日の夕方に東京に向かい、東京で被災することになりました。
大震災が起きた日、東京でテレビを見て、そこで暮らし仕事をしていた街がありえない大津波に流されていくのを見て立ち尽くすしかありませんでした。これは信じがたい大変なことが起きたということだけは脳裏に刻まれていきました。もし、あの日、会議がキャンセルされなかったら、もし、あの日、南三陸町の庁舎で会議をしていたら、もうこの世にいなかったかもしれないという思いがこみ上げました。防災庁舎の周囲で渋滞にあった自動車が波に押し流されていく映像を見て、多くの命が一瞬で失われていく悲惨な光景と、その中に、自分もいたかもしれないという思いで胸が押しつぶされそうになりました。多くの学生も連絡が取れなくなり、その安否の確認で夜を徹して情報収集を行なっていました。
早く仙台に戻って残された仲間と共に復興に身を捧げようと思いましたが、東北自動車道も東北新幹線も止まり、安全な帰路も確保されず、仙台に帰ることもままならない日々が続きました。東京で自分にできることは何かを考え、東京から東北に救済物資を送る情報活動を進め、できるかぎりの支援活動を進めていました。そんな時、私がアースデイ仙台を顧問として活動をはじめていたことから、3月14日、東京の渋谷で、アースデイ東京実行委員長のC.W.ニコルさんと共に世界へ向けて支援要請の緊急声明を出すことになりました。
仙台に戻ると、南三陸町等の被災自治体の依頼で様々な復興活動に携わっていきました。その中で、大震災前から、市民協働のまちづくりについて指導を行なっていた東松島市の担当者から、津波で流された小学校の再建を手伝ってくれという要請があり、大震災からまだ数ヵ月後でしたが、研究室のメンバーと現地に入り、「森の学校」のプロジェクトがスタートすることになります。私は学校教育の専門家ではありませんでしたが、協働のまちづくり、市民参加のまちづくりの専門家として、失われた学校の再建を地域の人々と共に進めていくことができると思い、この仕事を引き受けました。何より、被災したこどもたちの未来に少しでも具体的な希望の光を灯したかったのです。この「森の学校」のプロジェクトが自分の運命を大きく変えていくことになります。3.11は、私の生涯の中で、何をなすべきなのか、とても大きな天命と出会った日となりました。
――東松島市の森の学校は森に囲まれた木の校舎でとても素晴らしい環境ですね。どんな経緯で実現したのですか?
風見 東松島市は東日本大震災で市街地の大部分が津波に呑み込まれ、甚大なる被害を受けました。沿岸部に位置する野蒜小学校も大津波に呑み込まれました。東松島市教育委員会はこの失われた小学校を安全な高台に移転し再建する震災復興事業に取りかかることになりました。この時、私が携わっていた市民協働のまちづくりの責任者が偶然にも教育委員会の次長に異動しており、「こどもたちのために津波で流された学校づくりに協力して欲しい」と相談されました。私は、震災復興計画の策定も重要ですが、具体的な希望の可視化が必要と考えていましたので、すぐ、この要請を受けて、風見研究室のメンバーと共に現地にボランティアで入りました。アースデイ東京の記者会見で共に震災復興を進めようと約束していたニコルさんにも協力を要請しました。ニコルさんは長野県信濃町で「アファンの森」という森林再生活動を進めており、この長野の森に被災したこどもたちを招く企画を進めました。
被災したこどもたちにとってまず必要なのは「心の復興」だと感じていたのです。悲しい思い出を抱えたこどもたちは、森の中でその経験を語りはじめ、森のワークショップで笑顔が戻ってきました。美しい森の中でこどもたちが命を吹き返してきたのです。森は凄い力を持ってる。森には心も体も再生する力があると確信しました。そこから、「森の学校」というコンセプトが浮かび上がってきたのです。
東松島市は被災した野蒜小学校と宮戸小学校を統合する計画を発表し、高台に新校舎の建設を決定しました。私は、東松島市が設置した教育復興検討委員会にメンバーとして入り、学校の構想・計画を策定することになり、その後、正式に、宮城大学風見研究室として東松島市から業務委託を受けて、宮野森小学校の基本構想・基本計画を策定することになりました。設計者はコンペティションで選定することになり、シーラカンスK&H株式会社の工藤和美先生と地元の設計事務所に設計業務を依頼することになりました。私が、森の学校のイメージスケッチを描き、それらを実現するためのコミュニティデザインや学校のデザインコンセプトを策定し、建築家と共に「森の学校」のビジョンを実現していきました。さらに、そのビジョンを具現化するために、アファンの森財団や様々な専門家に協力していただき、計画段階からの環境アセスメントを実施し、森の学校にふさわしい敷地の選定から、コンクリート建築と木造建築の比較検討、学校の機能計画、設計条件の設定、ランドスケープのイメージ、教育プログラムまでをとりまとめました。
森づくりの専門家のニコルさんには、学校の後背地の森をこどもたちの学びや憩いの森とする「復興の森」の整備を推進いただきました。「森の学校」プロジェクトは、震災復興に向けて、こどもたちの希望の可視化を目指したプロジェクトです。大震災で傷ついたこどもたちの心を癒すため、森の大切な生態系である谷戸をそのまま残すことにこだわり、森と校舎の一体感を生みだす敷地と建築のデザインが実現しました。そして、さらに重要なことは、「森の学校」が公立学校であるということです。そのことは、この学校が全国に広がる可能性を持っているということを示唆しています。
森の学校の挑戦は、こどもたちや教員、地域の住民の方々とワークショップを重ね、学校の構想から実現まで対話と協働によって進めていくという「コミュニティデザイン」のプロセスを実現していったことです。当時、高台移転によって森が削られていくことは避けらない事態となっており、私は専門である「エコロジカルプランニング」という環境調査に基づく地域計画手法を用いて、できる限り現存する自然を残しながら敷地をデザインしていくことを提言しました。自然を破壊する敷地計画ではなく、自然を尊重する敷地計画と建築デザインを生み出し、森と一体化した完全木造の学校を再建することに全力を投入しました。それらの挑戦は、NHK「クローズアップ現代」NHKワールドの「TOMORROW」等で放映していただきました。
――木造建築の森の学校について行政等からの理解は?
風見 当初、木造建築への課題が山積する中で、木造については断念することになるかの分岐点も多々ありました。しかし、森の学校への理解が進むにつれて、東松島市の教育委員会、先生方、保護者の皆様の支持も得られて、最後は、当時の阿部秀保市長の英断と市議会の協力によって、森の学校は実現することになります。木造は、コスト的に鉄筋コンクリートよりも多少高くなる面はありますが、法隆寺が長い歴史を持つように、みんなで維持管理をすれば長期的なライフサイクルコストは抑えられるのです。
森の学校の名称には、宮戸・野蒜の名前を残しつつ新しい学校像への思いが込められ「宮野森小学校」に決まりました。旧野蒜小学校6年生は震災の年の4月に入学以来、仮教室や仮設校舎で学校生活を送ってきたことから、東松島市はこどもたちに新しい校舎で学ぶ期間を与えたいと考え計画を進めてきました。そして、新しい「森の学校」は、予定より少し遅れましたが、約6年の歳月をかけて、平成29年(2017年)1月に完成しました。
――実際に森の学校、宮野森小学校に対する評判は?
風見 木は生きているので、我々を癒し助けてくれるし、交信もできます。森の学校の後背地にある森には、ツリーハウスや様々な森の遊び場も設置され、こどもたちは日々本当に楽しそうに遊んでいます。そういう素晴らしい環境で育ったこどもたちの変化が既に現れてきています。本格的な調査はこれからですが、現在、宮野森小学校の不登校はゼロ、残食率もゼロになってきているという報告があります。自然豊かな校舎の中で、いじめもなくなってきていると聞いています。そして、校舎や校庭もゴミひとつなく磨かれて美しく保たれていました。校長先生からは、こどもたちが本当に大切に使っているとお話いただきました。学校をつくる過程から、こどもたちの思いが学校に込められることによって、学校は愛に満ちていきます。「森の学校」の実現までの物語がこどもたちの心にも息づき、学校がみんなの愛される場所になっていることを嬉しく思います。
――森の学校で2017年度グッドデザイン賞を受賞され感慨深かったと思うのですが。
風見 森の学校をつくる過程において、グッドデザイン賞を目指そうと思ったことはないのですが、グッドデザイン賞に応募してはどうかというアドバイスをいただき、地域のみんなとつくってきた「森の学校」のプロセスを広く知ってほしいという思いから応募しました。グッドデザイン賞というと、プロダクト(工業製品)のデザインと思われるかと思いますが、最近は、社会の仕組みをデザインするというアプローチも対象となっており、地域と共に学校を構想・計画・実現していくという「コミュニティデザイン」の仕組みについて賞をいただきました。専門家の代表は私ですが、大震災を乗り越えてきたこどもたち、教員や保護者、地域の方々、行政の担当者、全国から支援いただいた方々、大震災を乗り越えてきたすべての仲間と共にいただいた勲章だと思っています。
――南三陸町における復興計画の策定や大崎市等でも様々な取り組みをされました。
風見 南三陸は甚大な被害で、復興計画もいろんなテレビで放映されました。私はその震災復興計画の策定に際して、地元の漁業や農林業の人達を集めてワークショップを行なうファシリテーターのリーダーとして関わり、みんなの言葉を引き出し、その言葉を尊重し、そのまま報告書に導入することに力を注ぎました。多くの震災復興計画の場合、報告書は専門家によって書かれ、市民の言葉は参考程度にしか残りません。私は、被災地で津波を乗り越えた漁師の方々や住民の目の光や思いに触れて、この想いこそ震災復興計画の中に残さなければならないと強く思ったのです。
大崎市は、仙台北部にある内陸都市で、沿岸部から被災で避難し、そのまま定住する方も多くいました。私は、都市計画審議会、総合計画審議会、中心市街地震災まちづくり委員会の会長として、伊藤康志市長と二人三脚で、内陸がまず復興することで沿岸の被災地を支援し、沿岸部と内陸部が連携していく「内陸型復興モデル」を共に提言し推進してきました。大崎市も内陸では最大規模の激震で、大きな被害を受けましたが、沿岸部の壊滅的な状況を再生するには時間がかかるので、まずは自らのまちを再生し、共に復興を遂げていこうという政策を掲げました。震災によってたくさんの仲間を失い、辛い思いもしましたが、それでも明日はやってくる、そして、未来は自分でつくれるということを、同志と共に実現していきたいという思いからここまで歩んできました。そして、震災復興から発する持続可能な未来を創造していくことを自分の天命として決意してきた日々でした。
グローカルに思想や理論を共有し
実践のためガイア都市創造塾設立
――2016年にガイア都市創造塾を設立されたのはアースデイ仙台の延長でしょうか?
風見 幼い頃から美しい田園で育ち、東京で様々な仕事を経験し、森の学校を実現していった系譜は、まさに、田園都市につながっていると感じます。我々を支えてくれている自然や地球に対して、我々はこのままでいいのかという思いが常にありました。建設会社では様々なまちづくりに携わり、自然を尊重したエコロジカルプランニングの思想に共感し、環境共生のまちづくりに向けた企業変革を実現してきました。世界が環境の時代に向かっている中、自分自身が地球をもっと愛し、地球を大切にする人たちとの繋がりが足りていないと感じていました。また、社会で活躍している人々の中にも、本当は環境に配慮した仕事に就きたいのに歩み出せない人がいることも感じました。私が大成建設に入社した時代には、地球環境への意識はまだ遅れていましたが、まちづくりの部門を創設する必要性を提言し、ついには、持続可能な都市づくりを推進する「まちづくりグループ」という部門が創設され、私がリーダーになりました。
今、皆さんが愛する地球を守ろうとするなら、自分たちの身近な場所を「地球規模で考え、地域視点で行動する」という「グローカル」な視点から変えていく仕組みをつくっていくことが重要です。そして、そのためには、そうした思想や理論を共有し実践していく場が必要だと考えました。つまり、同志を持つということです。同じ志を持った仲間と世界を変えていこうする議論や行動をはじめることがとても重要であると思ったのです。世界を変えていくと言うと大袈裟のように感じるかもしれませんが、スティーブ・ジョブスも、学生時代に生み出したひとつのアイデアが世界を変えると予感し、それを信じ続け、「自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが本当に世界を変えているのだから」という言葉を残しているように、それを実行し、世界を変えました。世界をより良いものにすることにためらいはいらない、失敗を恐れず行動していけば必ずゴールに達する、という信念が私にもありました。ガイア都市創造塾はそんな思いから生まれた、自らの本当にやりたいことを見つけ、そこから、世界を変えていく社会事業を起こしていくための立志塾であり経営塾です。
ガイア都市創造塾は第3期で約200名に到達し、2019年10月で第4期を迎えます。ガイア都市創造塾は、学ぶだけでなく、そこから様々な社会事業を起ち上げ、それらを連鎖することで、ガイアホールディングス(企業連合体)を構築していくことが目標です。現在、その構想は、私が思った以上に急速に進展し、多様な人材が生態系のように息づきはじめています。人のつながりもまさに生態系であり、いずれ自己創生をしていくレベルに達するでしょう。
ガイア都市創造塾が目指すビジョンは、地球上に広がっていく志が光となり、光と光が繋がって地球を照らしていくイメージです。21世紀は、ガイア思想によって世界が結ばれ、地球規模の愛と知のネットワークがつくられていく時代になるでしょう。地球のために少しでも良いことを始めたいという人を助けていきたいと思っています。自らの社会を良くしたいという思いを持たない人はいないでしょう。その意味では、ガイア都市創造塾はとても身近な塾といえるのです。
都市創造というと壮大のように感じるかもしれませんが、本当は、こどもたちの未来をどうしたいのか、目の前の川や緑地、建物や道路はどうあるべきかということなのです。そうした社会の変化に対して、地球や地域の未来を思い、行政にどう提言すればいいか、仕事を通していかに具体的に行動していくべきかを考えることが「ガイア的な都市創造」という視点です。皆さんの住み働く街も、誰かが計画を立て、維持管理をしています。そんな社会という存在をより良いものにするために、それぞれの専門を生かし、地球に貢献する仕事を実現してほしいのです。そして、それこそが、地球を美しい星に変えていく鍵となるのです。
――ロラン島を意識されたのは森の学校をつくってからですか?
風見 そもそもの発端は、大震災の3.11で、デンマーク王国が東松島市にとても献身的な支援を行なっていただき、両国の交流が始まったことにあります。そんな中、ロラン島在住のニールセン北村朋子さんと「日本とデンマークはどう繋がっていくべきか?」といった議論を行なってきました。私が「森の学校」を実現しようとしていることを知り、朋子さんからロラン島には素晴らしい森の幼稚園があることを紹介していただきました。震災から生まれたご縁が、森の学校を実現していく中で、現実のものとなっていったわけです。
――長野県の伊那市立伊那小学校は教科書を使用しない学校ということで有名です。森の学校もいかがでしょう? これを推進するためには担任の力量が必要ですが。
風見 人間にとって必要な情報は本の中だけには納まっていないといってよいでしょう。私も経験や体験を通じて学んでいくということがとても重要だと思っています。森の学校も主要教科だけではなく全教科を森の中で行なうことに挑戦していきます。これまでの固定観念や規定で知を伝えるのではなく、自然や社会の実践的な場で、現実との接点を多く持つことによって本当の学びを提供することが重要と考えていますので、森の学校と伊那小学校とは通じるものがあると思います。森の学校に赴任したいという先生方も増えていると聞いています。これからは、教員の意識も変化していく時期がきているといえるでしょう。
――図画や図工の時間も45分で切られたら早い子はできても遅い子はいつも中途半端で終わってしまいます。午前中ずっと絵を描き、終わった子は体育をやったり、自由度を広げていくのも一考では?
風見 全くその通りですね。時間に区切られて次々と様々な教科をこなしていく方法では、優れた才能を開花させる壁となってしまうことも多々あると思います。発明家のエジソンや相対性理論を生み出した科学者のアインシュタインは好きなことに熱中しすぎて学校時代の成績が悪く先生を困らせる存在であったことはよく知られています。たくさんのイマジネーションが溢れてくるこどもたちには大好きなことを心ゆくまで集中させてあげる贅沢な学びの時間を与えてあげたいと願っています。
世界の均衡を取り戻すために
大いなる仕事を成し遂げていく
――映画鑑賞がお好きと伺いました。
風見 先日、ジブリ作品の「ゲド戦記」を久しぶりに鑑賞し、自分の天命を示唆するメッセージがあったことを発見しました。映画「ゲド戦記」はアーシュラ・K・ル=グウィンのファンタジー小説である『ゲド戦記』を基本において、宮崎駿氏の長男・宮崎吾朗監督が指揮したアニメーション作品です。この映画は、世界は均衡が保たれており、その均衡を人間が崩した時に、大賢人のハイタカがアレン、テルーとともに、それを取り戻していくという物語です。この映画を見ながら、これからの我が道もハイタカのように、世界の均衡を取り戻すために大いなる仕事を成し遂げていくことを予感しました。この作品の公開日は、平成18年(2006年)7月26日です。この年の夏は、大学教授になるための準備として、博士論文をまとめ出した大きな挑戦の始まりの時であり、翌年3月には多大なる難関を乗り越えて、奇跡的なタイミングで博士号を取得し、7月には宮城大学への就任が決定しました。まさに、時代の転換点に、自らの道を予感し、覚悟を促す、運命的な映画となりました。
私にとって、宮崎駿監督の作品は、自然との共生や人間としての尊厳を学ぶ教科書です。「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」は、私の思想や仕事にも大きく影響を与えました。その思想的な結実である「ガイア都市創造塾」も宮崎駿監督の思想から学ばせていただいたものが多くあります。私自身、これからは、社会改革のための人材育成や様々なガイアプロジェクトを進めていくとともに、舞台や映画、アニメーション等のアート作品を通じて、世界に向けて「人はどう生きるべきか?」「地球といかに共生していくか?」といった命題に対する道筋を示していきたいと思っています。
これからは自らの天命を全うするとともに、その哲学や方法論を広く伝えるための時間を取りたいと思っています。人はそれぞれ光る才能を持ちながら、その生かし方を知らずにこの世を去ります。一人でも多くの人が自らの才能に気づき、その力によって世界に貢献していく豊かな人生を選択してほしいと願っています。それは、人が本来の命や才能を生かすことで、その人自身の幸福や世界全体の幸福に繋がると信じているからです。
――最後に今後の夢や抱負をお願いします。
風見 大学教授の仕事としては、教育、研究、地域貢献をこれからも関与していくと共に、大学経営や日本の高等教育の在り方についても提言し改革を進めていきたいと思っています。また、志塾として創設したガイア都市創造塾では、社会をより良いものしたいと決意する同志を育て、社会事業を通じて世界を変える結社を起こしていきたいと思っています。そして、森の学校から発する天命としては、人間の基盤形成に大きな影響を与える幼児教育や義務教育の分野の改革にも取り組み、幼稚園から生涯教育を含めた人生の包括的な教育の在り方や地球的な人材育成について挑んでいきたいと思います。
日本は大震災によって世界中から注目を受けることになりました。私も震災復興に携わり、森の学校の実現によって世界から注目をいただき、様々な国の方々と繋がりを持つことができました。この大震災の教訓を未来に継承し、これからの人類が忘れてはならない地球との共生、ガイアの思想を世界に広めていくことが私の大きな使命であると感じています。その道程の中で、まだまだ、様々な対立や乗り越えるべき壁もあると思いますが、ダ・ビンチやスティーブ・ジョブスもそうであったように、常に自分の思い描くビジョンを世界に提示し、それを実現するための方法論を生み出していきたいと思います。どんな課題も世界中の人々が方法論を持って集まることで解決していきます。私はそのための出会う場所をつくることにさらに力を注いでいきます。そして、そうしたビジョンの共通する人達が共に住み、仕事をなしていく住処を創造していきます。
私はそれを「ガイアヴィレッジ」と名付けていますが、これから、地球と共に暮らせるコミュニティのモデルを実現していきます。それは、日本だけでなく、アジア、ヨーロッパにも展開していきます。このチャレンジは我々の分身をつくることであり、世界の様々な地域でその土地独自のコミュニティができていく。そして、それは底辺で繋がっている。本来、地球の様々な生命はひとつであり、我々はすべて繋がっているということを思い出す必要があります。私はそれを「ワンネス」と呼んでいますが、この「すべてはひとつ」というコンセプトこそが世界を幸福に導いていく大きな原動力になります。
地球自身が本来ひとつの命であり、みんながつながっている。その真理にみんなが気づいていく時、社会は均衡を取り戻し、持続可能な幸福社会が実現していきます。これから、こうしたモデル都市、モデルヴィレッジを創造していきます。もちろん、これからも教育現場で人材育成は行なっていきますが、地球で生きる多様な生命が尊ばれ、人々が永続的に住み続けられる空間をデザインし、それをみんなで実現していくムーブメントを起こしていくこと、それが私のこれからの大きな目標であり果たしたい夢です。そして、その基盤となるガイアの思想やビジョンを物語や映画を通して世界に広めるとともに、地球も人類も輝かせる壮大なガイアプロジェクトを世界中の同志と共に進めていこうと決意しています。
プロフィール
風見正三(かざみ・しょうぞう)氏
昭和35年(1960年)茨城県生まれ。日本大学大学院修了後、財団法人日本ダム協会研究部、大成建設株式会社にて全国の都市開発やまちづくり等に従事。英国ロンドン大学大学院にて都市地域計画学修士、経営学修士(MBA)を取得し、東京工業大学大学院にて博士号を取得。宮城大学事業構想学部教授就任後は、全国の自治体の政策支援や持続可能なまちづくりに従事。東日本大震災以降は南三陸町や大崎市等をはじめとした様々な被災地の震災復興計画に携わる。東松島市では被災した小学校を「森の学校」として再建する復興事業に取り組み、2017年のグッドデザイン賞を受賞。現在、宮城大学教授、事業構想学群長、事業構想学研究科長、2019年からは、宮城大学理事・副学長(研究・産学地域連携担当)に就任するとともに、2016年からガイア都市創造塾塾長を務める。