妻の病名
連休明けなので出勤し、全体朝礼で妻が無事退院したことを話した。
部署打ち合わせ後、「K誌を追加で20部送付してほしい」との連絡があり、印刷会社営業部の安部博雅さんへ頭出しの納期を尋ねると、「あすです。ご不在のときに伝えました」とのこと。
電話を保留にしてスタッフへ確認するが、誰も聞いていないようだ。
ここで言い合っても埒が明かない。あすのK誌企画・編集会議と追加分だけは何としても間に合わせてほしいと依頼する。
午前中は資料作成や校正を行い、午後から原稿作成にとりかかる。気づくと社内はK誌編集室のトリオだけだ。原稿を8割方完成させ、21時に会社を退出。
K誌企画・編集会議は16時から岩野清志取締役(当時)の発声で9月号の反省から進めるが、11月号頭出しも机上に置いていたので、出席者から「この雑誌はまだ見ていない!」という声があがる。岩野取締役が「先ほど完成したばかりですから」とフォローする。
10月号の反省が終わると、わたしが11、12月号の台割案と平成8年度前半のスケジュール案の説明を行う。
会議が終了すると、親会社の菊田明信広報室長(当時)が、「いつもお世話になっているので」といって岩野取締役とわたしに懐石料理を馳走してくれた。
K誌や菊田室長が編集長の社内報の話で盛り上がり、料理が出尽くしたところでお開きとなる。
わたしの背広内ポケットには、借入金と三男の出産祝い金、入院見舞金があわせて224万円ある。このお金は死んでも離せない。
以前、松山空港で財布を紛失したことを思いだし、暑くても背広を一切脱がないで過ごす。
帰宅してからは現金をタンスの中へしまい、パン、パンと柏手をうつ。
翌日、妻の採血チェックがあり会社を休んで千葉大病院へ連れて行く。予約は10時だが、9時前後から駐車場が相当混み合うので、8時30分に着くよう家を出る。
皮膚科の外来受付へ行くと、妻が以前、産婦人科の同室で薔薇の花をいただいたことがある鈴木恵子さんが来ている。
「病院まで1時間半かかるので、家を6時半に出てきたよ。旦那さん、一緒に来てくれて優しいね」
大学病院は見立てがいいがとにかく時間を要する。
その日も、早くから受付をしていたのに、最初に呼ばれたのが10時30分で、予診と採血をして、その結果を待って本診。
次に会計受付をして支払い。薬の入手のために薬局を決めて申し込む。終了は13時前。
千葉市平川町(現・千葉市緑区平川町)九重で蕎麦とかつ丼を食べる。
その後、銀行にお金の一部を入金し、茂原市本納にある車のディーラーで外れているミッションオイルのネジを付けてもらう。
妻を車に残して、生保会社へ行く。妻の入院に伴う保険金の手続きを行うためだ。担当の矢尾陽子所長は休みで、代わりに受付の女性が面談してくれる。
「診断書の『約十年前から背中の皮膚腫瘍が……』という項目が告知義務に違反する可能性があり保険金が降りないかもしれません。年初に現在の保険へ切り替え時点で腫瘍の治療を知らされていないからです」
「診断書に『約十年前からの腫瘍』というのは間違いです。最初は良性のホクロで、腫瘍(悪性黒色種)と言われたのは、千葉大病院が初めてです。告知に関する規定は、1年前の時点でホクロが何に当たるかですが、ケガでも病気でもない。それまでの2度の切開は、ともに通院です。これらの事実を知ったうえで判断してください。なお、妻にはまだ正式な病名を知らせていないので、何かあったら会社へ電話をください」
車へ戻ると、妻が話しかけてくる。
「遅かったね、どうだった?」
「これから調査をすると言っていたから、少し時間がかかるね」
家では、すでに長女や長男が学校から帰っていて、長男が切り出す。
「きょうマウンテンバイクを買うんでしょ」
「じゃあ行こう。その代わり車に積めなかったらワンボックスカーが来る土曜日にしよう」
途中、長女をヤマハ音楽教室で降ろして、新しくオープンしたカインズホーム茂原店へ車を走らせる。
最初に自転車売り場へ行き、長男が選んだマウンテンバイクが車に積めることを確かめる。
ミルク、濡れないオムツ、泡盛なども購入し、いったん家へ帰って長男と荷物を降ろしてヤマハへ向かう。
授業は終了時間を過ぎても続いている。春日恵さんのお母さんから「奥さん、退院おめでとうございます」と言われる。たぶん「きょう迎えに行こうか? どうしよう?」という家への電話に、妻がでたのだろう。
授業が終わると、急いで運動会のお弁当用の食材を購入し、長女とともに帰宅する。
その夜、妻が病気について質す。
「背中の病名は何なの?」
「腫瘍だよ」
「この本(『家庭の医学』)には『黒色腫』というのがあるけれ、これじゃないの? 刺激を与えたりしたら膨れてくると書いてある。乳がんなどでも、妊娠すると膨れるとあるので、わたしも妊娠で膨れたのかな? これってガンなの?」
「(鋭い質問だなと思いつつ)妊娠したので千葉大へ行く決心をしたんだろう。早く退院できたから結果は良好だ。ポリープも腫瘍も、すべてガンの一種だよ。でもちゃんと医師の指示を守って養生していれば、大丈夫だから!」
初めての半告知だが、そろそろ少しずつ話しておかないといけない、そうしないと体に無理を強いるだろうからと思ってのことだ。
妻の反応が気になったが、動揺した気配がないので、わたしは胸をなでおろした。