30.結婚指輪とステージⅢ

  1. 朝飯前の朝飯

結婚指輪とステージⅢ

 2階のFAXに着信があったのでゲラの校正を行い、会社へ電話で修正を指示。

 土曜にもかかわらず、部下の両主任が奮闘してくれている。「申し訳ないが、よろしく」と声をかける。

 この間、左薬指にはめていた結婚指輪がないことに気づく。

   長女・長男が半ドンで帰宅すると、昼食をとらせて千葉大病院へ向かう。きのう車を停めた場所へ落ちていないことを確認し、警備室で遺失物について尋ねるが不明。

 妻の病室で、子どもたちが大騒ぎをしていると、田川一真医師が回診に見える。

「ご主人、よろしかったらお話が……」

「はいお願いします」

 皮膚科治療室で説明を受ける。

「先日の手術の結果は、右のリンパ節のなかにガンが転移していると思われるものが2個みつかりました。背中の腫瘍の大きさと色(黒)、リンパ節に2か所転移していたことで、ステージⅢが確定しました。過去5年間のデータを基にステージⅢの場合、向こう5年間の生存率は5割です」

「患部と関所のリンパ節を除去していただきながら、どうして5割なのですか?」

「リンパ節へ行くと、血液から全身に流れている確率が非常に高いからです」

 これまでせっかく順調にきたのに、いったいどういうことだろう。指輪をなくしたことで運も尽きたのかと急に体から力が抜けていく。

 病室へ戻ると、心の準備がないまま、妻から質問を受ける。

「どうだった?」

 いつもであれば、心で泣きながら、顔は笑うという役者になりきり芝居を演じるところだが、きょうに限ってそれができない。暗い表情で力なく答えてしまう。

「経過は順調のようだよ」

 救いは、子どもたちの無邪気にはしゃぐ姿だ。

 わたしは、なぜか明るく振る舞うことができず、その場から立ち去りたくなり、「そろそろ帰るよ」ときりだす。

 長女は妻に「売店へ行こう。散歩しよう」と時間延ばしを提案。わたしは「売店はダメだ。地下1階ならいい」と答える。

 地下の人工池前に立ち、群れをなして泳ぐ鯉をながめる。1匹若鮎のように跳びはねる鯉がいて、子どもたちは「スゴい!」と歓声をあげる。

 妻は長男と手をとりなごりを惜しんでいるが、わたしは再度「帰ろう」と告げる。妻も寂しそうだが、振り切って行くことにする。

 帰宅し、母にきょうの報告をする。

「指輪がなくなった。妻ももう駄目なんかなぁ」

「あなたは迷信など信じない人間と思っていたが、意外と古くさいんだねえ」

「自分のことだったらこだわらない。死のうが生きようが構わない。しかし、妻がいないと4人の子どもたちはどうなる? おれひとりじゃとても面倒みきれない。父親は不在でもいいが、母親は欠かせない!」

「両方必要なんよ。あんたが死んでも、たちまち困るでしょう」

「おれが逝ったら生命保険で当面なんとかなる。とにかく子どもたちには母親の愛情が大切なんだ!」

 再び沈痛な面持ちになる。

「だからわたしも毎日、自らのいのちを削り、『娘(嫁)を助けてください』と祈っとるんよ」

「妻が退院しても完全復帰は望めないので、お袋さんにも引き続きがんばってもらわなければならん。それから、この前、妻が『こんなこともあるから、やっぱりお父さんお母さんと同居したほうがいいね』と言っていた」

 わたしが岡山市内か倉敷市内の会社へ転職するか起業しての同居を切り出す。

「やめてくれ。食べ物や価値観が違ってうまくいかない家が多いのを、あんた知らんのか? 老人がいまさら新しい土地へ移ってもダメよ」

「いまおやじがやっている地区連絡協議会の会長職などは新天地でもやればいい」

「あんたねー、どの土地にも役職に就きたいひとは山のようにおるんよ」

 母はおやじに従っているように見えてなかなかの頑固者なんだと改めて気付く。

 妻がこんなことになり、わたしも岡山市内であれば最初に勤めた会社の関係などで、友人知人も多く、いま以上にいいだろう。

 だが、むかし岡山の会社の営業で陽の当たる道を歩いてきたといっても、これから飛び込みセールスだと気力・体力がついていかないし、総務・経理は向いていない。田舎だと自分の価値は半減する。妻に共稼ぎを強いることもできない現状だ。

 当分のあいだ田舎には帰れないなと翻意する。

 義母に加藤佳寿夫専務(当時)の話と田川医師から聞いた検査結果を電話で伝えると反撃を食らう。

「本当にガンなの?!」

「リンパ節に転移していなくても、血液の流れで死亡した人もいるそうです。会社の上司の、医師の息子さんからは『生存は難しいだろう。奥さんはこの世で徳をいっぱい積んできたので、逝ってしまうのかもしれない。奥さんは宗教心がないのであれば、ちょっとうろたえるかもしれない』、田川医師からは『千葉大病院のほかに千葉県がんセンターにも行っており、足に悪性黒色腫(メラノーマ)ができて闘病している患者さんを担当している。その人は男性だが、奥さんは女性なので告知しないほうがいいだろう』と言われました」

 いつもはわたしがしゃべる倍以上返す義母が、その日は口数が少ない。

 結婚指輪をなくしたことで妻の最悪の場合を述べたのが義母の癇に障ったのかもしれない。

「おれだって妻にはいつまでも元気でいてほしいという気持ちは変わらない」と言いたかった。

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