蝋燭経営ではとバスを
倒産の危機から救う

  1. 鄙のまれびとQ&A
marebito19

 東京観光の代名詞でレモンイエローを基調としたボディーの「はとバス」はかつて4年連続で年4~8億円の赤字、累損20億円、銀行からの借入金70億円となり倒産の危機に直面していた。が、東京都交通局長、東京都地下鉄建設専務を経てはとバスの社長に就任した宮端清次氏が人件費のカット等で経費を圧縮、サービスの充実で売上げ・利益を増大させ、初年度から経常黒字、4年間で累損を一掃し、銀行からの借入金を半減した。「リーダーは周りを明るく照らすために、我が身を削る蝋燭であれ」と説く宮端氏に改革の要諦を聞いた。

■ゲスト 
 元はとバス社長 宮端清次氏

■インタビュアー 
 旅するライター 山ノ堀正道

泥をかぶる覚悟で
はとバス社長へ

 ――私は前職で講演セミナーの講師を派遣する担当として10年間で全国延べ2,000件超のアテンドをさせていただきました。宮端さんとは約10年前に港区のマンションでお会いしたのが最初で、それから北は北海道から南は沖縄まで約200件の依頼をさせていただきました。実に約300人の講師陣の中で最も密なお付き合いでした。

 宮端 はとバスを2002年9月に退任し、その年に時事通信社の関連団体の一般社団法人内外情勢調査会での講演がきっかけとなりました。その後、各社から依頼が始まり、昨年9月に高齢で講演をやめるまで16年で1,500回近く講師を務めさせていただきました。その中でも山ノ堀さんにはまとまってご依頼いただき大変お世話になりました。講演後の懇親会では地方の中小企業のオーナーから「苦労して起こした会社なので東京で暮らしている息子に継いでもらいたい」といった事業承継の話が多かったですね。

 ――参加者は特に失敗例に興味を抱くと聞きましたが。

 宮端 確かに一番熱心に耳を傾けるのは成功例よりも失敗例です。懇親会の時に「成功例は要りません。本を読めばわかるし、コンサルタントからいくらでも情報が入ります。私達がお金を払って貴重な時間を費やして異業種の話に耳を傾けるのは失敗談です」と言われました。何を失敗して、そこからどう反省して、何をやって、結果どうなったかを経営者の皆さんはニーズとして欲しておられました。他人の失敗から何かを得ようとして講演を聴きに来ていらっしゃることがよくわかりました。

 ――都庁からの呼び出しで「はとバスへ行ってくれ」と言われた時、どう思いましたか?

 宮端 率直に言って嫌な感じがしました。というのが都庁の再就職は6年です。第三セクターの東京都地下鉄建設へ専務で行って4年経ち、あと2年余(2000年12月)で大江戸線の開業でした。僕はこれを成し遂げて仕事人生を終えようと思っていました。ところが都庁の交通局長が副知事に進言したのでしょう。副知事から電話があって登庁するように言われ、交通局長と面談した際に「都が筆頭株主のはとバスが4年連続の赤字です。このままみっともないことになったら大変です。交通局のOBで泥をかぶってくださる方を探しています。宮端さん行ってください。知事の意向も同様です」という話がありました。
 はとバスは不況のど真ん中で4年連続赤字ですから潰すにしても再建するにしても誰かが行って責任を取らないといけません。しかも平成10年が創立50周年なので節目の年に倒産させるわけにはいかない、お世話になった東京都から言われれば貧乏くじだと思っても引いて、一か八か取り組んで、場合によっては身を捨て汚名を着ようと覚悟しました。

社長就任前に
賃金カットを提案

 ――はとバスには1998年10月から2002年9月の4年間、社長を務められました。4年連続の経常赤字、銀行からの借入金70億円に向き合い、新役員を前に打ち出した「再建の基本方針」とは?

 宮端 はとバスは6月決算で1998年9月の株主総会から責任を持ってやってほしいという内示です。話があったのが7月の終わりで正式には株主総会での就任ですから準備が2カ月しかありません。はとバスの当時の社長に「内示を受けています。事前に勉強したいので責任者2、3人から話を聞かせてください」と言って了解を取り、JTB出身の専務、プロパーの総務部長、経理部長に地下鉄建設へ来てもらい、「赤字の中身や見通し、悪い情報をすべて教えてください」と言ってヒヤリングしました。

 子会社のはとバス旅行の損失は10億円余で清算する話になっていました。ホテル事業と不動産は合計で4億円の黒字でしたが、肝心のバス事業が大赤字で黒字を食い潰して4年連続の赤字になっていたわけです。おまけに子会社のシーライン東京の借金も膨大です。経営者の一員である専務と担当の総務部長、経理部長に「僕が社長になってからでは第1四半期が終わってしまうので抜本的な対策を講じなければいけません。どうするつもりですか?」と尋ねても返事がないので「クビ切りはしません。人件費55億円の賃金カットをお願いします。私の考えは全社員基本給1割カットです。それでは社員は納得しないでしょうから社長の私は3割、専務以下役員は2割のカットです。9月の給料から実施できるように明日にでもはとバスで社長以下役員に新社長の意向を伝え、8月中に臨時取締役会を開いてください。私は時期を見て労働組合の委員長に会います」ということにしました。

 ――反発はなかったですか?

 宮端 もちろんありました。ホテル従業員から文句が出ました。「なんでバスのシワ寄せで我々まで賃金カットをされるのか?」と。これに対しては「はとバスのグループなのだからいずれバス事業へ転勤するかもしれない。ホテルは昭和40年代の始めにバスが儲かっていた時代に設立した。あなた達が今いるのはバスがあるからだ」と説明しました。オールはとバスのみんなでカバーしようということなのでホテルだけ外したらそこで問題になります。1人の運転手からは「俺たちは言われた通り汗水垂らして毎日働いています。なんで経営者の失敗を我々がかぶらなければいけないのですか? 管理職や事務社員が責任を取ってください」と迫られました。

 ――宮端さんは就任されたばかりで負債の責任はないはずです。特に前任者の時代の4年間が大きかったのでは?

 宮端 「私には関係ない」と言ったらお終いです。「たとえ前任者の時代であろうと10年前であろうと、私も社長となった以上は、同じ経営者として重く受け止めます」と申し上げました。労働組合の委員長とも会って「実際はこういうことです。このままでは潰れてしまう。潰れたら元も子もない。悪いけど乗務員も含めて賃金カットに協力してほしい」と言って頭を下げました。委員長は賛成しないまでもNOとは言わなかったです。その時言われた条件は「社員を大事にしてください。2度とこういうことはしないでください」でした。ということは2年連続で賃金カットはできません。800人の社員に2,000人の家族がいます。その人達を路頭に迷わすことはできないと考える労働組合の委員長は経営者と一緒です。彼を経営陣に加えたいと思ったぐらいです。後で「なんで反対しなかったの?」と尋ねると「都市交(日本都市交通労働組合、2013年6月より自治労と統合)というバスや地下鉄など交通事業全体の横の繋がりから倒産等の情報を持っています」とのことでした。

定期観光バスで
ツアーにも自費参加

 ――社長就任挨拶で「来年6月の決算時に黒字にできなければ、責任を取って社長以下役員は総退陣します」との発言は役員にもすごいインパクトでしたね。

 宮端 社長は赤字であれば辞めるのは当たり前です。他の役員については任期で退任してもらうということです。JTB出身の専務が「はとバスのトータルとして経常5,000万円黒字でV字回復の端緒とするために連判状を作ろう」と言い出して、社長以下役員全員で署名捺印しました。はとバスとして年間4、5億円の赤字で、子会社も含めれば8億円ですが、賃金カットを行なえば通年で約5億円近く浮きます。あと経費の削減について赤字路線を切りました。

 ――それまで赤字路線を放置していたのは?

 宮端 その当時、北海道拓殖銀行や山一證券等が倒産していましたが、いずれ景気が好転すればなんとかなると甘く予想していたのでしょう。

 ――「目標はシンプルに」ということで「経営方針3カ条」を打ち出した理由は?

 宮端 新役員で頭をひねって、①お客様第一主義、②現場重点主義、③収益確保至上主義――を決めました。お客様第一主義はバス事業部、ホテル事業部も含めてみんなで原点に返りお客様の期待に応え信頼を回復して、「もう一遍乗ってやろう、利用してやろう」と言っていただくようにすることです。結論的にはみんなでお客様が何を欲し何の不満を持っておられるかを考え、信頼や支持を獲得するためにサービスの質を上げる。その担い手は社員です。運転手の安全運転であり、ガイドの懸命なサービスなのです。

 ――社長自ら朝一番で現場へ行って乗務員の名前を呼んで奮い立たせ、お客様にご挨拶されたようですね。

 宮端 かき入れ時には4時半に起床し5時に自宅を出て5時半に最寄り駅から電車に乗って6時半に浜松町駅へ着いて、浜松町バスターミナルで7時から8時半出発まで30台ほどへ乗り込んでお客様に「社長でございます。本日はご利用いただきましてありがとうございます。乗務員一同、安全運転とサービスに努めます。どうかよろしくお願いします」とわずか10秒の挨拶です。次に乗務員に「運転手さん」「ガイドさん」と言わないで名札を見て「鈴木さん、田中さん、きょう1日頑張ってくれよ」と言って見送ります。次から次へ来るバスを全車見送ります。最盛期は提携している他社バスも借り上げているので乗り込むと「あなた何者ですか?」と尋ねられるので「はとバスの社長です。今日はよろしく頼むよ」と応えると「社長が私達にも頭を下げてくださった」と言って感激してくれました。浜松町を8時半に終わったらすぐ東京駅のバス乗り場で9時から11時まで定期観光がずらっと並んでいます。声はかれるし足下ふらふらで運転手から「社長、大丈夫ですか?」と言われました。

 ――乗務員は喜ぶし鼓舞できたでしょうね。

 宮端 半分は乗務員に向けてです。僕が労働組合を通じて「運転手も朝出発する時に『おはようございます』でも『今日はありがとうございます』でも何でもいいからお客様へ挨拶するように」と言っても「俺達の本来業務ではないからやらない」と言って聞かない人間がいたのです。それが社長自らマイクを持って挨拶すると次第に自分達もやらざるを得ないようになっていきました。

 ――奥様と一緒に自費でツアーに参加されたとか?

 宮端 初年度から土日中心に月2、3回参加しました。一泊も日帰りもあります。僕は一番後ろへ座って乗客の動向を見るのです。ガイドがマイクで話している時、寝ているとかしゃべっているとか。食事の時、一緒に食べていると本音が出るのです。「まずい」とか「天麩羅が冷えている」とか。その際メモをして担当者に「すぐ改善するように」と電話で指示しました。

 ――それってほぼ365日働いていることになりませんか?

 宮端 その時はできる限りベストを尽くして赤字が出たら翌年9月におさらばという気持ちが半分ありました。結果的には4年務めることになりましたが。

 ――ツアーにお付き合いする奥さんも大変でしたね。

 宮端 嫌がって、嫌がって。でも男ひとりではダメなのです。夫婦で乗るからお客様に気付かれないのです。

サービスの質と
合理化を追求

 ――組織図を逆ピラミッドにされた理由はなんですか?

 宮端 お客様第一主義と言っている以上、一番上にお客様、その下へお客様とダイレクトに接する乗務員や営業、それを支える社員、幹部社員、役員と続き、一番下へ社長がこなければいけません。都の交通局でも私が次長の時代から実施していたことです。

 ――「末端」「業者」「生き残り」をNGワードにしたのは?

 宮端 知識を意識化することによって初めて態度や行動が変わります。部下のことを「末端」という上司がいたので叱正しましたが、逆三角形の組織図だと先端になるのです。業者という言葉のニュアンスは「下」で「業者を呼びつける」などになりますが、「お取引先」にすれば対等の大切な関係になるわけです。危機的な状況で生き残りを賭けても生き残れないので、勝ち残らないとダメということです。

 ――営業本部を浜松町から平和島の本社に戻したのも英断ですね。

 宮端 赤字にも拘わらず浜松町の駅から少し離れたビルの1フロアを借りて、ダイヤを組んだりお客様と面談したりしていました。2年目で黒字の見通しも立ってきたので2億円かけて本社へプレハブを新築し、食堂と運転手・ガイドの控え室にしてロッカーを新調すると運転手もガイドも意気に感じてくれました。乗務員がいたところへ営業本部を入れようとして「本社の社屋へ戻ってきてください、我々と一緒に仕事をしましょう」と言ったらJR大森駅からバスで通うことになりみんな反対です。喜ぶ人間はいません。「浜松町でないと仕事ができない。お客様と接触するから」と言うので「浜松町のバスセンターの一部屋へ応接セットを置くからそこでお客様と接触してください」と言いました。それが社員の意識改革というか、その後のはとバスの社員の行動に影響したと思います。

 ――宮端さんが社長車を返上し電車とバスで通勤するなど率先垂範される姿を見ると、営業本部も有無が言えなかったわけですね。

 宮端 社長専用車と社用車が2台あったのを社用車1台にしました。日中、用がある時は社長も他の役員も予約をして使うわけです。合わせて社長室を廃止して大部屋の役員室へ移り、風通しを良くしました。社長室はみんなに使えと言ったのに使いませんでした。

 ――お客様第一主義を徹底しながら経費削減を進める中、「主催旅行で出すお茶がまずくなった」と指摘されすぐに改善されたとか?

 宮端 社長就任後すぐに、バスガイドの班長会へ僕と常務のバス事業本部長が出席しました。その席で「あなたが社長になってから車内で出すお茶の質が落ちてお客様から『まずい』と指摘されました。私達は毎日肩身の狭い思いをしています」という問題提起があって、隣のバス事業本部長とやりとりしました。「どういうことですか?」「社長が『生きるか死ぬかだから経費の節減をしろ』とおっしゃったのでいつも静岡県牧之原から取り寄せていた茶の葉の質を落としました」「それで年間どれだけの節約になるの?」「10万円か15万円程度でしょう」。これは僕のミスです。社員は何でもかんでも経費削減していたのですが、「お客様に直結するサービスの質を落としたらダメですよ」と条件を付けるのを忘れていたのです。これは社長の責任なので役員や社員を責められません。僕はガイドに謝って「すぐ取り替えるので心を込めてお客様にお茶を入れてください」と言いました。このことが僕のはとバスでの原点です。
 合理化も大事だけど、やってはいけないことがある。サービスの質を落としてはダメだ。むしろこういう時にこそサービスの質を上げてみたらどうか? サービスの質を上げることによって売上げと利益が増える。発想の転換です。何でもかんでもマイナスであればじり貧になります。安かろう悪かろうになれば終わりです。この方向転換は初年度の11月に行ないました。

 ――乗務員からの投書を集める「お帰り箱」の効果は?

 宮端 この箱には「お帰りなさい。お疲れさま」という意味と「社長に直訴すれば必ず返事が帰ってくる」という期待が含まれています。ネーミングは社員が考えてくれました。口頭で「改善提案を出してくれ」と言っても出てこないので社長に直訴できる機会を作りました。「合理化ばかり押しつけながら、サービス向上と言われても無理です」「私達は先が見えずとても不安です」といった僕を暗に非難する内容を始め、「あの運転手は運転が乱暴だ」「セクハラまがいのことを言う」といったガイドからの訴えもありました。これについては運転手本人に注意したり、班長を通じて指導してもらうなどの対応を取りました。投書には僕がすべて目を通し返事を書きました。署名がある場合は本人に返事を書き、匿名の場合は「こういう案件がありました。それについては……」というように僕が書いた原稿を基に所轄部長の意見を添えて掲示板に貼り出して応えました。

 ――1期目が3億6300万円の経常黒字になると社員に種々の還元をされましたね。

 宮端 全社員へ一律1万円の商品券を感謝の手紙を添えて贈りました。ささやかな金額ですが、「すべての社員を平等に扱ってくれて嬉しかった」という声もありました。バスの新車は1台5,000万円でしたが10台購入し優秀な運転手に担当させました。これはお客様サービスの一環でもあります。

 ――それらの結果、2002年の退任時には4年連続経常利益の黒字、20億円の累損一掃、銀行からの借入金70億円をほぼ半減して退任されました。「もう2年やってください」という声が出たのでは?

 宮端 都庁の再就職の内規でいったら65歳までなので6年です。僕は地下鉄建設で4年やっていますから、はとバスは2年で終わりの筈でした。だけど赤字から黒字への再建途上ということで例外的にしてくれたわけです。

 ――現場は惜しみますよね。

 宮端 それはどうかわかりません。その後、都庁から社長が来ますから。

 ――たすき掛けであれば次はJTBでは?

 宮端 当時の都の交通局長が「筆頭株主として都庁が責任を持ってやりたいからこれからはNo.1の代表取締役社長を都庁から、No.2の代表取締役専務をJTBから」というルールに変えました。僕は本当はプロパーが社長になるべきだと思います。そうしないと社員のモラール(士気)が上がりません。後輩には「代表取締役をもう1人プロパーから出して東京都とJTBの3人にして、将来はプロパーが社長になって東京都もJTBも社外取締役として監視する体制にしてほしい」と申し送りしましたが、東京都もJTBもやらないです。再就職先の貴重なポストですからね。

リーダーは周りを明るく照らし
我が身を削る蝋燭であれ

 ――大阪の商家のご出身ながら東京に骨を埋めようと思った理由は?

 宮端 姉の、海軍出身の夫(義兄)が家業を継いでくれました。僕は商売に向かないので親も息子だと潰されると思ったのかもしれません。大学4年の時、民間企業の内定時に「酒の飲めないやつは使いものにならない」と言われて大学院へ進んで公務員になりました。

 ――リーダシップについては都庁時代に聴いた井深大さん(ソニーファウンダー・元会長)の講演が刺激になったとか?

 宮端 井深さんが社長から会長になったばかりの時、私も管理職として勉強しようと思い朝日新聞社主催の講演会に参加しました。質疑応答の時間となり前に座っていた女性が「失礼ですが、今の話はよくわかりませんでした。私のような主婦にもわかるようにもう一度話してもらえませんか?」と質問しました。これに井深さんは「ただ今は失礼しました。私が社長時代に最新鋭設備の厚木工場を建てて、国内だけでなく海外からも大勢の見学者が来るのにトイレの落書きがありした。工場長には厳しく注意しました。工場長が徹底するよう通知を出したのに一向に改善されませんでした。仕方ないと諦めていた矢先に『落書きがなくなりました。パートで来てもらっているトイレ掃除のおばさんが蒲鉾板2、3枚に<落書きをしないでください。ここは私の神聖な職場です>と書いてトイレの窓へ置いたらピタッとやみました』と報告がありました。そのとき私は初めてリーダシップとは何かがわかりました。今までリーダシップは上から下への指導力、統率力だと思っていましたが、あるときは右から左、下から上へ向かう場合があるのです。それ以来、リーダシップを『影響力』だということにしました」と述べられました。

 ――リーダー論についてはどのようにお考えですか?

 宮端 はとバスの社長は精神的にもとても大変でした。かつて私は、リーダーは「偉い」者だと思っていましたが、社長になって初めて「つらい」ものだということがわかりました。本人はつらいけれど、周りの人から「偉い」と言わせるのがリーダーです。課長、部長、局長、社長というポジションに就いている人は、ヘッドシップ(権限)を持っています。権限を持っているがゆえに、周りからちやほやされます。そうすると自分は偉いと錯覚してしまう。リーダーは蝋燭のようなものです。周りを明るく照らすために、我が身を削らなければならないのです。

 ――いいお話ですね。都庁時代に一番印象的なご経験は?

 宮端 僕は交通局勤務がスタートでしたが管理職試験に受かって、昭和46年に美濃部都政の2期目の4年間に副知事秘書を務めました。ここでは局長や部長とご縁ができてものすごい財産でした。この時期が公務員生活の中で最も大きな転機でした。その後、総務局中心に管理職を務めて、最後の6年間を古巣の交通局で終えました。

 ――はとバスを再建するために交通局へ戻ったような感じですね。

 宮端 宿命ですね。地下鉄建設での大江戸線建設の得がたい経験ができました。貧乏くじだと思ったはとバスでは社員が頑張ってV字回復をしてくれ、その経験を基に15年以上も全国各地を講演で回らせてもらいました。

 ――人生を振り返って一言お願いします。

 宮端 仕事に恵まれ、家族に恵まれ、健康に恵まれたというのは計り知れない最高の人生でした。ただ、これから静かに余生というか老後を過ごすのにおいて神の恩寵とも言うべき家内が認知症になったということは授けられた運命だと思います。夫として最後まで看取っていきたいと思います。

 ――尊厳死協会にも入っておられるとか?

 宮端 元々、年会費2,000円で入会しています。要は人間らしく生きて死のうということです。日本は安楽死を認めていませんが、尊厳死というのはいたずらに延命措置は講じない、運命だから胃瘻や人工呼吸をしないで自然死で幕を閉じるということです。

 ――いい人生だと言い切れるために心懸けてきたことは何ですか?

 宮端 自分の人生訓は「人とともに」ということです。人間は一人では生きていけません。仕事では協力が不可欠です。身近では家族が核ですから大事にしなければいけません。僕は息子が2人です。家内は「娘がいてくれたら」とよく言うので、僕は「それは無いものねだりなので、息子の嫁さんを娘と思えばいい」と応えています。今は嫁も月に1回来て身辺整理を手伝ってくれ本当に助かっています。

プロフィール

宮端清次(みやばた・きよつぐ)氏

1935年、大阪市生まれ。中央大学大学院法学研究科修了後、東京都庁に入庁。総務局災害対策部長、交通局長を経て、94年、東京都地下鉄建設株式会社の代表取締役専務に。98年、株式会社はとバス代表取締役社長に就任。意識改革と組織の改革を行ない、倒産の危機にあった同社を再建。2002年に退任後は、同社特別顧問や東京都交通局経営アドバイザリー委員を歴任。

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