新型コロナウイルスの世界的な蔓延から国民が閉塞感の中にある。松下電器産業(現・パナソニック)の創設者・松下幸之助翁は「貧乏でお金がない、病弱で健康がない、小学校中退で学歴がない」のないないづくしで成功を収めた。幸之助翁であれば今の時代にどう声を挙げるのだろう? 松下政経塾の元塾頭で志ネットワーク「青年塾」を主宰し、幸之助翁の志を継ぐ上甲晃氏は「国家百年の計の会」のメンバー100万人を目指している。上甲氏は「自分のことはいいから将来のために備えを考えようという日本人を増やしていかないといけない。その運動が国家百年の計の会だ」と述べた。
■ゲスト
志ネットワーク「青年塾」代表・松下政経塾元塾頭 上甲晃氏
■インタビュアー
旅するライター 山ノ堀正道
松下幸之助の人生訓
「人生の経営者たれ」
――上甲さんには前職で講演セミナーの講師をおつとめいただきありがとうございます。「魂の講演」「松下幸之助さんの生き写しだった」という声が非常に多かったです。
上甲 その節はお世話になりました。
――『松下幸之助に学んだ人生で大事なこと』(致知出版社)を拝読しました。
上甲 これまでは講演録を基に出版社が本にしてくれていました。今回、書き下ろしてみたいと思い初めて挑戦しました。そういう意味では集大成の一代記です。
――京都大学教育学部卒業後、松下電器産業(現・パナソニック)へ入社し、新入社員研修で創業者の幸之助さんの話に衝撃を受けたとか?
上甲 大学時代は高度な専門知識を修得することが学問であり勉強だと思ってきたのを、松下幸之助がガッと私の思い込みを崩しました。松下幸之助は難しい言葉や横文字を使わない。だけど真理を捉えて人の心をつかんでしゃべる。その時、目から鱗というか、人間の生き方やものの見方、考え方など最も基本的で大事なことを極めてわかりやすい言葉で話してくれたのですごい衝撃で感銘を受けました。
――大事なこととは「立場は新入社員でも、社長の意識であれ」などですか?
上甲 それを含めて「人生の経営者たれ」「君らは人生を経営している」「上司を使え」といった言葉の数々です。難しい言い回しや特別な言い方はしませんが、大事なことを非常にわかりやすく説明してくれました。今でも松下幸之助ならどう言うだろうといつも考えています。この前、ある経済団体のトップの講演を聞きました。プロジェクターで映し出される言葉が殆ど横文字で何の話かさっぱりわからなかったですよ。何となくグローバル化、最先端をもって高度と言うのかなと思いながらも松下幸之助とは全然違いました。大事なことは松下幸之助のようにわかりやすく伝えないと理解されないと思います。私は冗談に「松下幸之助は人生で3つしか英語を使っていないのではないか?」と言います。「PHP」「National」「Panasonic」です。
――PHP研究所と松下電器のブランド名ですね。
上甲 こういうエピソードがあります。「マーケティング」という用語がすごく流行っていた時代に松下幸之助は社内でマーケティングに一番詳しいアメリカの大学帰りの社員に東京駅から新大阪駅までの新幹線の中で説明を受けました。新大阪駅へ着く時に「要するに『上手に売れ』ということやな」とズバリ言ったということです。そういう本質を見抜いてわかりやすいから、みんなの心にすっと入って魅力的なのだと思います。
――熱海会談はナショナルショップのオーナーの心をつかんだ事例として有名ですね。
上甲 あれは全国販売会社社長懇談会と言いまして電気屋さんでなく代理店、卸屋さんとの会合です。当時、非常に景気が悪くて多くの会社が赤字に苦しんでいた中、1割ぐらいが黒字でした。松下幸之助は「こういう時にもちゃんと黒字の会社がある。赤字なのは経営が悪い」ということを縷々2日間に亘って責めるわけです。当然言われた側も反発して、「松下さん、あんたが悪いんや」とやり合いました。松下幸之助も非常に困り抜いて会議が2日間で終わるところを急遽もう1日延ばしました。そのとき松下幸之助は立ち上がって「考えてみたら今日まで一所懸命支えていただいた皆さんに申し訳ない。すべては松下電器が悪うございました」と言って深々と頭を下げて涙声で謝るのです。そうすると代理店の社長さん達も「松下さん、あんただけが悪いのではない。わしらも悪かった」と言って壇に駆け上がるのです。
その後、松下幸之助は病気の営業本部長に代わって販売の大改革を断行します。代理店のナショナル同士が価格競争をしていたのをテリトリー制にして各社は立ち直っていくのです。その時以降、松下幸之助は「物事が上手くいっている時は皆さんのおかげ。上手くいかない時の原因はすべて自分にある。自分が変わらない限り物事は解決しない」という言い方をしました。「自分が悪うございました」と頭を下げた瞬間から空気がガラッと変わる。「あんたが悪い」と言っている間は「お前も悪い」と言われるのです。
取材中に草稿し
直後に記事完成
――上甲さんは熱海会談の翌年入社で不況の煽りを受け配属先が決まらなかったとか?
上甲 どこの事業所も経営再建に必死で新人を教育する余裕がなくて、私達は1年間研修でした。半年間は工場で作業し、もう半年は街のナショナルショップで働きました。
――ショップで研修中にカラーテレビを20台販売しながら配属先は報道部で社内新聞を編集することになったのですね。
上甲 自分は引き続きカラーテレビ事業部の営業に配属して欲しいと思っていたのに、なんだこれは……。
――ショップ研修でどんなことを学びましたか?
上甲 講演でもよく言うのですが、ショップで実習してみて学歴で商品は売れないことが骨身に浸みてわかりました。実社会で一番必要なのは学歴ではない。人間力なのです。松下電器は学閥がありません。京都大学卒の人間が集まって一杯飲むのも憚られるという会社です。それまで学歴さえあれば、実社会で大手を振るって渡れると思っていたことの間違いに、入社早々気付きました。松下幸之助自身が小学校中退ですから。
――社内新聞の編集長時代、取材後すぐに原稿を完成させたそうですね。
上甲 報道部に配属されて社内新聞の編集を担当して、先輩に「どうやって書くのですか?」と尋ねたら「電話で取材している」「記事をもらっている」「資料を基に作成している」と。でも、それではいい記事が書けません、現場へ行って実際の様子を見ないといけないというのが僕の考え方です。それで取材中に頭の中で組み立ててその場で記事を完成させていたから仕事が非常に面白かったですよ。沖縄が日本へ復帰される時も新入社員に近かったけど足を運んで原稿を書き上げました。もっとも有給休暇を取って、その後1週間ほど遊びました。僕の特長は上司に言われて仕事をしたことがない。新入社員の頃から「私にこれをやらせてください」というやり方です。それが松下幸之助が言った「主人公意識」です。仕事というのは言われてやると苦しみがあるが、自分から行なうと楽しい。
――幸之助さんも「社長のつもりで働きなさい」と言いました。
上甲 それが引き金になっています。もともとそういう気質なので水を得た魚のような感じです。「社内新聞の編集の仕事は企画や海外、宣伝とかに比べれば地味な仕事だ」と言った上司にムカッときて、「あなたはこの仕事の評価を上げるために何をしているのですか? 役員会へ出て訴えてください」と言いました。僕が編集長の時代は随分そういうことをやりました。全国営業所長会議へ乗り込んでいって、「みなさん方、商品を売って回収したら商売が終わりと思っているかもしれませんが、それでは足りません。広報を通じて他の社員に知らしめて仕事は終わります」ということも発言しました。
――武勇伝ですね。ずいぶん社内に人脈ができたのでは?
上甲 もうあちこち首を突っ込みますから。(笑い)
――「25人抜き」山下俊彦氏の「新社長の職場訪問」が大成功だったとか?
上甲 それは僕が広報時代に一番やりがいを感じて取り組んだ事柄です。新社長の山下さんに「新しい社長のイメージを僕に作らせてください。社員から遠い存在でなく身近な存在の社長として現場に行って膝を突き合わせて話をするような場面を大々的に設ければ『社長は話がわかる』となるはずです」と申し上げました。
――一族経営から切り替えの最中でしたが、山下さんも了解してくれましたか?
上甲 山下さんは権威主義的でなくざっくばらんな人でした。「山下跳び」と言われ脚光を浴びた時代にあって、あのシリーズは自分で言うのもなんですが成功したと思います。
わからないことは尋ねて
素人課長が全国ベスト1
――広報で成功した後、松下住設機器で電子レンジの販売課長に異動されました。
上甲 事業部制だとできる人をなかなか他部署へ出さないので山下さんが「社内の人材交流を活発にしよう」という方針を打ち出しました。僕は「社内新聞でキャンペーンを打ちましょう」と言っている途中で「ところで君は広報を何年やっとるんや?」と尋ねられて、「12年です」と答えたら「それはいかん。すぐ転勤を」となりました。
――電子レンジの販売では当初ご苦労されるのですね。
上甲 えらい苦労しました。ベテランの営業マンの上に立ちながら全く売れなくて自信が消え失せました。事業部長から「新聞屋にものは売れんわな」、営業部長から「我慢にも限界がある」と言われ、サラリーマンで最も苦しい逆境の時代でした。
――どのように克服しましたか?
上甲 僕は営業でわからないことを隠してバレないようにしていましたが、幸之助の『道をひらく』(PHP研究所)という本を読み返し「わからないことは聞くことである」という言葉に改めて触れて、全て部下に教えてもらうことにしました。まともに聞くとバカにされるので、営業マンと一緒に出張して、食事や泊まりの際に同部屋で寝てもらって、枕許で書類を並べ「これどういう意味や?」と一つひとつ尋ねたところ「しかし本当に知りませんね」「知らんのや。苦労しとるのよ」という会話になり情が繋がってきます。
僕は4人いた部下を研究しました。同じように事業部を出て得意先を回ってくるのに実績が全然違う。彼らは「市場が異なります」と言うけど、一人ひとりの部下と同行したら売れる人の理由、売れない人の理由がわかってきました。例えば、「明朝は得意先へ何時に行ったらええ?」と尋ねると、営業マンによって「7時に行きましょう」「朝会に間に合うように8時半でどうですか?」「朝はバタバタして商売の話ができないから9時半にしましょう」と答えが違う。7時に行く営業マンはお得意先の社員と一緒に掃除や挨拶で打ち解けている中で商売の話をするのでやっぱりよく売るということに気がつきました。そのようなことを部下からいっぱい教わりました。部下を比較しながら売れる営業マンの特徴をつかんで段々営業のコツがわかってくると、自分の広報の時代の癖が出てきます。「こんなんやったらどうか?」「あんなんやったらどうか?」と言うと最初はバカにしていた部下達も「珍しいやり方ですね」「ユニークですね」と言って考え出す。それが非常に当たりました。
――販売方法もかなり研究したのですね。
上甲 研究しました。会議も奈良の工場で行なうと過去の数字にとらわれて売れる気がしなかったので、担当地域にある東京タワーの上で実施し、「市場はこんなに広いじゃないか? 売れないはずがない!」と鼓舞したら営業マンも「そうですね」ということになって意識改革できました。その結果、全国ワースト1が、3年半で全国ベスト1になるわけです。
細川日本新党から
塾出身者4人当選
――再び異分野への転勤になりました。
上甲 その時、僕は本当は海外営業を希望していました。事業部長に「国内営業の次は海外営業を夢見ています。世界を相手に電子レンジを売りたいです」と言って内諾を得ていたのです。ところがある日突然、「松下政経塾へ行け」という辞令が下りました。
――当時の松下政経塾は松下電器から出向の運営側と塾生側で対立があったのですか?
上甲 松下政経塾の最初は大変でした。是が非でも政治家になりたいという塾生と、松下幸之助の意を体してきちんと秩序だって物事を進めようとする職員とで大きなギャップがあり、ことごとくぶつかっていたそうです。
――無料で学べて手当まで出してもらえる塾生にも不満があるのですか?
上甲 彼ら塾生は「この塾をどのように形成していくか? 塾長になったつもりで考えなさい」と松下幸之助から言われていたので職員の管理が気に食わなくて「俺達はこれから日本を動かしていくので、そんな細かいことを言われたくない」と言うわけです。「制服を決めようか?」となったら「なんで制服がいるんだ」といった調子です。塾生には「電器メーカーのサラリーマンに政治家を育てることなどできないのではないか?」という思い込みがあったようです。若さも気負いも我が儘もあって職員と対立し、1期生の4人に辞めてもらいました。職員も最初から手がけた幹部を本社へ帰して、その入れ替えで僕が行ったわけです。その時は両方に不信感があって、火事場の跡のような感じでした。
――塾頭になってからは神奈川県茅ヶ崎市の塾内に居住されたとか?
上甲 横浜市内で2年ほど暮らした後で塾頭になると、松下幸之助に「塾生と寝食を共にします」と申し出て塾へ住み込むことにしました。
――徒手空拳の塾生を政治家に育てるためにいろいろ仕掛けをされました。
上甲 塾生の大きな不安の一つはこの塾でこんなことをしていて政治家になれるのかということでした。まず実績がない。それから政治家は普通の職業と違って選挙を戦うことで焦りがあったのも事実です。まず僕はかつて社内新聞を担当していた経験を生かして新聞作りを始めました。また、営業で取った杵柄で「電子レンジを売るのも、君達を売り出すのも同じや。どっちも売りにくい商品や」と言いながら地方の新聞社と提携し「地域フォーラム」を全国各地で展開しました。塾生と一緒に苦労したことは事実です。
――選挙には地盤・看板・鞄の三バンが重要ですが。
上甲 当時、松下幸之助の最重要課題は塾生を政治家にすることです。三バンがない人達をどうしたら政治家にできるかが僕の仕事で、最初のうちは松下グループにお願いして企業ぐるみで取り組んだりしましたが、「果たして松下政経塾から政治家になれるのだろうか?」という根強い不安があった。ある時、新党を立ち上げて全国区に塾出身者を10人立候補させて一人でも二人でも国会議員を出そうと進めていたら、熊本県知事だった細川護熙さんから私のところへ電話があり「新党構想があります。一緒にやりませんか?」と言われ日本新党と組んだのが大きかった。
――日本新党で奏功したということですね。
上甲 細川さんの人気もあった。私も塾出身者も勝負を賭けた。その結果、1期生の野田佳彦君、2期生の山田宏君、8期生の前原誠司君、10期生の中田宏君らが日本新党からどっと当選して一気に可能性が広がりました。それまで1期生の小野晋也君や平浩介君、吉田謙治君あたりは地方議員からにしようということで県議や市議を務めていたのに後輩連中がいきなり国会議員になったのでねじれもあります。
――幸之助さんの代わりに考え方を伝える人探しでも動かれました。
上甲 幸之助が齢を重ね志を教えるのに誰か適当な人はいないかといった時に『夕刊フジ』の報道部長だった島谷泰彦さんから「伝記作家の小島直記さんがいいと思います」といって紹介されました。その他にも曾野綾子さんや三浦綾子さん、鍵山秀三郞さん、山中隆雄さんなどのところへ講師の依頼に出掛けました。塾生が選挙でなく見識を養うためです。
それにしても今にして思えば、選挙を勝つよりももっと力を入れるべきは日本人の心をしっかりと学ぶことでした。土佐出身の自由民権運動家、植木枝盛は24歳で憲法草案『東洋大日本國國憲按』を書きました。日本国憲法は枝盛の草案を基にした憲法研究会案がGHQ(連合国最高司令官総司令部)案に大きな影響を与えたと言われています。政治を行なう限りは選挙を戦う前に枝盛のように「こういう日本を創造したい」という想いを一人ひとりが描くことが大事だと気づいたからです。そうすると国家百年の計も見えてくるのではないかと思いました。
――なるほど。幸之助さんの言葉「指導者は人間通でなければいけない」の意味を教えてください。
上甲 松下幸之助は松下政経塾の塾生を指導するに当たって「一番最初に訴えるのは人間把握です。人間社会では、人間とは何か、人間の本質は何かを理解していないと上手く付き合えない」「人情の機微がわかれば天下が取れる」と言い放ちました。現に松下幸之助は「人間に精通している」ことで、人はどのようにすれば喜び、張り切り、落胆し、力を合わせるのかを、現実社会の中で知り尽くしていたから経営学を学んでいなくても事業に成功することができました。塾生には「知識を詰め込むことも大事だが、それよりも人間通になれ」と言いました。
――『デイリーメッセージ』を書き続けておりますね。
上甲 松下政経塾にいた50歳の頃から始めて、四百字詰め原稿用紙3枚半を毎日書き続け、一昨年に1万号を迎えました。心懸けているのは「人を批判しない」「自らを誇らない」「書けないことはしない」――の3点です。今後も自らの「成長・進化」を見届けようと思います。
日本の若者に「志」の
木を植え付けたい
――松下電器へ戻らないで早期退職されました。
上甲 松下政経塾で無我夢中で仕事をしていた時、元社長の山下相談役(当時)から「君、本社へ戻るか?」と言われました。本社で役員を目指す道もありましたが、「二十一世紀の日本はいかにあるべきか?」を考えていた私が、「松下電器をどうするか?」と考える自分に戻ることはできないし、あってはならないのではないかと思い、「復職を辞退し退職します」と伝えました。松下政経塾の『塾生心得』の柱の一つが「自主自立」「他を頼り、人をあてにしては事は進まない」です。私も徒手空拳の塾生と同じように自分の足で立ち、自分の足で歩くことにしました。それまで松下政経塾で志のある政治家等を育成していたので、今度は「志」のある経営者や後継者、幹部社員を育てよう、日本の若者に「志」の木を植え付けたいとの思いから、志ネットワーク「青年塾」を立ち上げました。全国を北海道、東、東海、関西、西の5クラスに分けて、研修期間は大体1年3カ月。1期生から23期生まで塾生の数は約1,800人です。
――ところで上甲さんは、今の政治に何が欠けていると思われますか?
上甲 国家百年の計を持つ国会議員がいない。国会でこれから50年先、100年先の日本をどうしようという話が全くありません。
――有権者や業界団体の陳情を受け付ける御用聞き政治に陥っていますね。
上甲 自己保身です。ポストを欲しがるのは国家を動かすためでなく選挙に有利だからです。今の政治家はみんな学校の優等生で、自らの立場を守るために汲々としている。国家百年の計を唱える政治家は殆どいません。「桜を見る会」を追及することはあっても、日本の国家の50年後、100年後をどうするかという議論が全くない。松下幸之助が「この政治が続いたらやがて日本は行き詰まる」と心配した状況になっています。
僕は人生最後の仕事として国会議員全員とはいかんけど、心ある政治家の何人かと国のあり方を基本に据えた大きな政治を進めていきたいと思います。ある国会議員と話したら「おっしゃることはわかるのですが、政治家には選挙がありまして」と言って帰りました。国家百年の計を掲げていたのでは選挙に勝てないと思っているわけです。だから国民におもねるというか迎合する政治になっている。
「国家百年の計の会」
賛同者100万人にする
――「松下政経塾から30人も国会議員を輩出しているのに政治が一向に良くならない」という声を聞いて忸怩たる思いから「国家百年の計の会」を立ち上げられました。
上甲 笑われるかもしれないけど「国家百年の計の会の賛同者を100万人にする」と言っているのです。100万人になったら政治家も放っとかないと思います。
――どのように100万人にしていきますか?
上甲 国家百年の計の会の第1回会合(昨年6月1日)に355人、第2回会合(本年2月11日)に655人が駆けつけてくれました。参加者が毎回1人ずつ連れてきてくれたら年2回開催するとして7年で100万人になる計算です。次回は令和2年11月23日を予定しています。
――100万人の会場はありませんね。
上甲 集まるということが徐々に困難になってきます。今の時代ですから趣旨に賛同する方に会員登録してもらってスマホで情報を配信する方法もある。それで100万人になってこれまで選挙に行かなかった人が投票所へ足を運ぶようになればと考えています。
――現在、国政選挙の投票率も30%台です。ということは全有権者の15~20%の信任で当選できるというレベルの低さです。この現実を是正しないとまともな政治になりません。投票率をどう上げるかという課題に向き合う必要がありますが。
上甲 ただ組織化している政治家ほど高い投票率を望んでいなくて低い方がいいのです。浮動票なんか当てにしていないからです。投票率を上げるにしても候補者がよくわからんということであれば投票所へ足を運びません。投票の意欲を上げるためのインセンティブがないといけないわけで、それを誰がもってやるか?
――国家百年の計で言うと次代の若者の教育があると思います。世界一の教育のフィンランドは知識・人格ともに最も優秀なマスターコースの学生を小中学校、高校の先生にして、国家公務員よりも厚遇するのだそうです。
上甲 松下幸之助は「国家に方針がないから人が育たない」と述べています。会社でも方針がなければ人を育てようがないです。こんな会社になりたいという目標があってこそ、そのためにこんな価値観を持った人を育てようとなります。日本の教育が混迷する最大の原因は国家百年の計がないということです。「日本が真に世界から尊敬される国になろう、尊敬される日本人になろう」という方針が定まればそれにふさわしい日本人を育てようとなります。目標がないから人を育てようがない。多くの親が自分の子供を進学校へ入れようという教育熱しかない。その点、戦前は『教育勅語』で、こういう国にしようという方針がありました。
――『教育勅語』は「国体の維持のために戦争に行きなさい」という下りにのみ違和感を覚えるのですが、全体を通して「父母を敬い、兄弟仲良く、夫婦は喧嘩をしないこと」といった当たり前のことを説いていると思います。
上甲 戦後はそれが完全に崩れてしまった。それを立て直そうと思ったら「こういう国にしよう」という方針があって、そのために人を育てなければいけないとなっていきます。国の方針がなければ正しようがない。
財政再建には
国民も努力を
――このまま1,000兆円を超える赤字国債を発行し続けて、それを孫子の代へ押しつけていいという了見はなく、せめて単年度のプライマリーバランス(財政の基礎的収支)を黒字化していく必要があると思うのですが。
上甲 年寄りは「老人福祉をもっと充実させよ」、若い人達は「子育てをしやすくしろ」と、それぞれの世代がそれぞれの要求をしています。それらを満たさないと政治家は選挙に通らないので、財政は限りなく膨らんでいく。それが今日の姿です。国民の側から「私達のことはもういい。自分達で何とかするから」という声が出てこないと国がもちません。
――政治家に対してだけでなく、国民にも教育が必要ですね。
上甲 国民のレベル以上の政治は生まれません。業界代表や世代代表など個別利益の要求ばかりに政治家が乗っかっているから財政がどんどん膨らんでいく。次の選挙のために予算を取ってきて、将来のことまで考えておれないという構造になっています。
――宗教法人だけがなぜ課税されないのかという問題もあります。このままでは「宗教栄えて国滅ぶ」になりかねません。宗教団体の多くは「愛国」だと思いますので、今こそ喜んで税金を払うという姿勢に転じてほしいものです。
上甲 残念ながら宗教団体が重要な集票マシンになっているので政治家も触れない。
――財政を破綻させないために宗教法人には自ら役割を果たしてもらいたいです。
上甲 国の財政が破綻するかもしれないけど、政治家は「これから宗教団体にも税金を払ってください」とは言えない。だから消費税とか課税しやすいところになっていく。
――OECD(経済協力開発機構)が「日本はプライマリーバランスを黒字化するために消費税率を26%に引き上げる必要がある」と勧告しています。
上甲 そうなっていくでしょう。ただし松下幸之助は「無税国家」論です。企業が経営努力によって剰余金を積み立て企業体質を強めていくように、国家予算の単年度制を排して経営努力により予算の何パーセントかの余剰を生み出し積み立てていく。その積み立てた資金を運用し、金利収入によって国家を運営する。そのような国家のダム式経営によって無税国家、収益分配国家を目指そうという考え方です。『Voice』1978年7月号「二十一世紀をめざして」で発表しています。松下幸之助は「日本は100年後に税金のいらない国を創造する。思わない限り永遠にならない」「松下政経塾は国家百年の計を持った政治家を育てる」と述べました。
――松下政経塾2期生の山田さんが杉並区長時代に区の財政再建を果たしました。
上甲 山田君が杉並区の財政を再建し、税金を安くすると金持ちが全国から集まってきた。ただ山田君が区長を降りたらまた元に戻ってしまった。
――山田さんは相当な努力をしたわけですね。
上甲 財政再建には痛みを伴う努力が必要です。予算を1割カットしようと思えば区民に我慢してもらわなければいけない。その時に「我々は節約ばかりで得が取れない。100年後に良くなるよりも今の俺達をなんとかしてくれ」というのが国民の意識の実態です。「自分のことはいいから将来のために備えを考えよう」という日本人を増やしていかないといけない。そういう運動が国家百年の計の会です。
――それまで自民党が上げられなかった消費税率を5%から8%にした野田前総理にも頭が下がります。
上甲 そういう政治家と繋がっていく。それと同時に我々の運動への共鳴者を増やしていく。それがごく少数派であれば政治家は殆ど耳を傾けない。
国家百年の計の
道を究めていく
――日本は(国内総生産)が20年間上がっていません。額でかろうじて世界第3位ながら国民一人あたりに換算すると世界26位に後退しました。
上甲 日本は経済も長く低迷しています。
――日本国の実体は2等国か3等国であるにもかかわらず政治家も官僚も外国で1等国のような顔と振る舞いをしています。そこを正してもう一度「2等国から1等国をめざそう」という気概がいると思うのですが。
上甲 そう。すでに2等国、3等国になってしまった。国家百年の計の会の一番の目的がそこなのです。我々は高度経済成長までは世界第2位だったのが、今や国民一人ひとりの額だと先進国中ほぼ最下位で、下り坂をずるずる降りている。それなのに国民にも自覚がない。それが一番危ない。「これはまずい」と思ったら救われるけど、そうでないから谷底まで墜ちないと気がつかない。「坂の上の雲」ならぬ「坂の下の雲」です。そういう意味での危機感が国家百年の計の会の基本にあるわけです。
日本の置かれた位置は高度経済成長の時代とは全く違って、マラソンランナーがあっと言う間に追い抜かれていくようなものです。第一、国民に挑戦欲がない。2017年の「国別の留学生数」によると世界で一番留学生が多いのは中国人で約90万人です。インド人が約30万人。韓国人でも約10万人。日本人は約3万人と少なく若い人が海外へ行きたがらない。挑戦したいと思っていない。現状に満足している比率が8割。若い人が現状に満足するのは明日がないということです。このままでいいと思っているわけですから。そういう意味では日本は下り坂を転げ落ちていると思います。これからよほど奮起しなければ世界から取り残される。
――その下り坂を回避するために国家百年の計の会の賛同者が100万人になることを願っています。
上甲 そうなったら政治や政治家が放っておかない。「彼らの主張に耳を傾けないと選挙に勝てない」というのが一番です。だから僕は数にこだわっています。
――政治家を真に動かすためには数が必要ということですね。
上甲 政治家は票を無視できない。国家百年の計の会の言うことを聴かないと次の選挙が危ないとなると真剣になります。「地位を極めたい人は地位を極めた後ガクッと老いる。財を極めたい人はお金儲けができたところで老いていく。しかし道を究めたいという人は永遠に老いない」というのがあります。ぜひ多くの方々と国家百年の計の道を究めていきたいと思います。
プロフィール
上甲晃(じょうこう・あきら)氏
昭和16年、大阪市に生まれる。昭和40年、京都大学教育学部卒業後、松下電器産業株式会社(現・パナソニック株式会社)に入社。広報、電子レンジ販売などを担当。昭和56年、財団法人松下政経塾に出向。理事・塾頭、常務理事・副塾長を歴任。平成8年、松下電器産業株式会社を退職。平成8年、有限会社志ネットワーク社を設立。平成9年、青年塾を創設。著書に『松下幸之助に学んだ人生で一番大切なこと』(致知出版社)等がある。