「ずーっと、ずっと大好きだよ」
長女は妻に似て人気者だ。小4の授業で教科書を指さし、「これ、わたしのおじいちゃんよ」と口走った。
わたしの父は長年ある研究をしていて、書いた本の一部が教科書に採用されていたのだ。
それを聞いた担任の川原知子教諭は、内田玲子校長へ伝えた。
校長は「ぜひ、わが校で話をしてほしい」と教科書会社と交渉。
父親は小学校の体育館で全校児童を前に講演した。
わたしも有給休暇を申請し、うしろの席で聴いた。
その翌年、三男が幼稚園の年少から入園が決まると、錦旗好恵園長(当時)から電話がかかってきた。
「PTAの役員をつとめていただけませんか?」
「えっ、わたしがですか? これまでそんな目立つことをしてきませんでしたが……」
「次男さんのときの倉板江美子担任が『奥さんが退院後も、代わりによく迎えにきておられました。適任だと思います』と推薦してくれました」
「少し待っていただけませんか? 妻や会社に相談しないといけませんから」
わたしは妻のサポートだけでなく、42歳で部長に昇進して仕事も徐々に忙しくなっていた。
地元のひとの力が強いムラ社会で自分のようなよそ者につとまるはずがないという思いもあった。
そんな情況で妻に話しかけた。
「幼稚園からPTA副会長の話がきた。どうしよう?」
「やりたければ引き受ければいいし、いやなら断ればいいんじゃないの?」
「どっちでもいいという話だな。わかった」
会社ではまず加藤佳寿夫専務(当時)へ相談した。
「三男が通う予定の幼稚園からPTA副会長の打診がありました。断ろうと思うのですが……」
「断るのであれば、ぼくのところに話を持ち込まないだろう。PTA副会長や会長なんてお金をだしたってなれるものではない。幹部社員のきみが人前に立って話をしたり、リーダーシップが発揮できるのであれば、会社にとっても有益な話だ。トレーニングの場と思って引き受けたらどうか?」
「わかりました」
加藤専務に相談したこと自体、この世界へ足を踏み入れたらどうなるのだろうという不安と期待が交錯していたのかもしれない。
次に直の上司である岩野清志取締役(当時)の席におそるおそる近づき加藤専務に話したように切りだした。
岩野取締役は、上げた顔をすぐに降ろしたまま明らかに不機嫌そうに「仕事は大丈夫なのか?」とだけ言った。
本当は直の上司へ先に話をするのがサラリーマンの鉄則だが、そうしなかった。
岩野取締役は「ミスターニエット(No)」だからだ。
加藤専務よりも先に話を持ち込んでいたら「PTAなんてやる必要ないじゃないか?」と一蹴されていたかもしない。
正式に幼稚園のPTA副会長を受諾すると、幼稚園にはなんと教科書会社の営業で父親をアテンドしてくれた大山力氏がPTA会長(当時)として座っていた。
「お父上にはお世話になりました」
「大山さんとは、あなただったのですか? この土地のこともPTAのことも全く門外漢ですがよろしくお願いします」
「こちらこそ1年間、よろしくたのみますよ」
大山会長のリーダーシップのもと5月から園庭周りの草刈り等の奉仕作業や運動会、餅つき大会、豆まきなどの行事を、幼稚園とともに盛り上げていき、夜のPTA役員の飲み会も頻繁だった。
この町へ越して十年ほどたつが、地域のひとたちとの初めての交流と言えるかもしれない。
大山会長は教科書会社勤務でそれまで懇意にしていた童話作家の森山京さんに「子どもたちや保護者に本物の読み聞かせを見せてあげたいのですが」と相談した。
その結果、女優の中井貴惠さんが代表をつとめる「大人と子供のための読みきかせの会」を紹介されたのだ。
中井代表による読みきかせの最初の公演は「ずっーと、ずっとだいすきだよ」。男の子と愛犬のエルフィー(エルフ)の物語だ。
エルフィーはドッグイヤーのため成長と老衰が早く、太って亡くなってしまった。
家族のみんなが悲嘆にくれるなか、男の子だけはエルフィーに毎晩「ずーっと、ずっと大好きだよ」と言っていたため悲しいけど悔いがなかったという内容だ。
妻の病は医師から「悪性黒色腫(メラノーマ)だ。5年以内に死ぬ確率が80%のステージⅣ、50%のステージⅢ」と言われてきた。
本当はいつまでも生きていてほしいが、もし悲しい現実を突きつけられるときがきた場合、妻に日ごろから優しいことばをかけておかなければと気づかされた。
その夜、妻に「大好きだよ!」と声をかけると、読みきかせの公演を見た彼女もはにかんだ顔で「わたしも」と言った。
中井さんには「大人と子供のための読みきかせの会700回公演の軌跡」についてK誌でもインタビューさせていただき大きな反響があった。