新居は仲人と妻の会話で埼玉県川口市の奧山ビル4階となった。
「南向きの陽当たりと見晴らし抜群のVIPルームが空いたから入らないかい? 敷金と礼金はタダでいい。ただし、ベランダの柵に布団を干すのは勘弁だな。オフィスビルなのに布団や洗濯物が見えると価値が半減するからねー。それと奥さん、1階の会計事務所を手伝いなよ」
「わたしは銀行で窓口業務でしたが、簿記も算盤も経験がありません」
「会計事務所の窓口にいてくれるだけで大丈夫。美人がいると顧問先が喜ぶからねー。ワッハッハ」
「お客さんを減らさないように頑張ります」
妻は東京や埼玉に知り合いがほとんどいないので話し相手ができれば好都合だ。しかもなにより奧山常務のウィットに富んだ性格を気に入り即OKする。
あるときわたしが帰宅すると照明が真っ暗で事件に巻き込まれたのかと心配し急いで鍵を開けたことがあった。
「どうしたんだ?」
「いじめられた~」
「誰に?」
「・・・・・・」
会話にならなくて、妻は目を真っ赤に腫らしている。
「勘違いだよ。可愛くて素直なきみを誰もいじめるわけないじゃないか?」
翌日、妻が心配で仕事を早めに切り上げて帰宅すると、照明はパッと明るく光彩を放っていた。
「えっ、きょうは大丈夫だったのか?」
「あー、あれだけど、わたしの勘違いだったみたい」
妻は昨晩と打って変わって明るく、とても饒舌だった。
当時はバブル絶頂期で会計事務所も好況。妻は「入所早々なのに香港旅行へ誘ってもらった」と言って喜ぶが、つわりで妊娠が判明し断念する。
「一姫二太郎って言うし、最初は女の子がいいな」
「わかった。頑張るわ」
妻は会計事務所の繁忙期2、3月の確定申告業務の手伝いを終えると4月末に退職し、出産準備のため5月のゴールデンウィークに岡山の実家へ戻った。
予定日は7月7日だが、なかなか産まれる気配がない。
「おれの誕生日の10日後、7月12日に産んでくれるとうれしいな。もちろん別の日でもいいけど」
わたしは妻の出産に立ち会いたくて、12日から3日間有給休暇を申請し、11日夜の新幹線に飛び乗った。
深夜、妻に陣痛が起こり、タクシーで産婦人科の国富病院へ。
最初は「あー、あー」と苦っているが、そのうち「おぎゃー、おぎゃー」と赤児の声。
妻に頼んだ12日早朝、待望の長女が誕生し、看護婦から声をかけられる。
「可愛い女のお子さんですよ」
毛髪が少ないが、小鳥のようでとても愛くるしい。
わたしは妻の出産休暇を含む5日間の休暇を消化し、名残惜しくも帰京する。
ひと月後のお盆に、妻と長女を迎えに帰省し川口へ連れ帰ると、3人の新生活となる。
わたしは寄り道をしないでまっすぐ帰宅し、長女と入浴、抱っこ・・・・・・と子煩悩ぶりを発揮した。
しかし長女は夜泣きが激しく、わたしは翌日の仕事に支障が出るので布団をかぶって寝る日々が続く。
その点、妻には感心だ。長女が泣く度に深夜でも起きて授乳を繰り返した。
(つづく)※リブログ、リツイート歓迎