嵐の母・義母の交代と妻の退院
義父母を迎えに行くため、子どもたちに昼食をとらそうとしてもグズグズしてなかなか終わらない。
わたしは昨晩の「ガミガミ言わない」の決意もどこへやら「早くしろ、早く食べないとママのところへ連れていかないぞ!」と声をあげる。
子どもたちはいちおう悪そうな顔をするが、最終的には連れて行ってもらえると確信しているのだろう。きょうだいが多いと知恵がつく。
途中、北海道拓殖銀行(現・北洋銀行)大網支店で入院費用20万円を引き出し千葉へ向かう。
千葉東金道路を走ったため、特急しおさい号が千葉駅に到着する14時には余裕があるので千葉大病院へ寄って入院費用を支払う。代金は14万円と予想よりも廉価で助かる。
妻には「おとうさん、おかあさんを連れてあとでまたくるよ」と伝える。
千葉駅には14時10分に到着し、改札口で義父母を迎える。長女はすぐに義母、次男は義父の手を握ったので、わたしは長男と手をつなぐ。
再び千葉大病院へ行くと、妻は歓喜する。
「わー、いっぱいだ!」
みんなで食堂へ行き、千葉三越で買ったショートケーキを頬ばる。このケーキは時間限定の商品で、前に買おうと思ったときは売り切れだった。みんなが「おいしい!」「おいしい!」と言って食べてくれるのがうれしい。
長居すると、妻も義父母も疲れるだろうから、2時間ほど経ったところで切りだす。
「じゃあ、そろそろ引き揚げよう」
みんなも一斉に立つので、絶妙のタイミングと思う。別れ際、妻に声をかける。
「あすはようやく退院だね」
「そう、ようやく」
「よかったな」
「うれしい」
1か月余だが、長く長く感じられた。
翌朝、帰岡する母を車に乗せて家を出ようとすると、長女が「おばあちゃん、帰らないで!」とワンワン泣く。
わたしは、いつも子どもたちに厳しくしているので、きょうぐらいは要求をいれてやろうと車へ手招くと、長女はうれしさのあまり泣きやむ。
わたしは長男・次男も行きたかっただろうと考え、長女に話しかける。
「おばあちゃんを玄関まで見送ったのはひとりだけ。もしあとのふたりが『自分も行きたかった』と言ったら、『ちゃんと見送った、おねえちゃんだけを連れていったんだ』と返答しよう」
千葉大病院へ10時30分に着く。台風17号の影響で大雨が降っていて、例によって地下1階の停車場に車を停め、警備員に「退院で、病人の妻を濡らせられないので」と頼むと、きょうも「どうぞ」と了解してくれる。
妻の退院に伴い、田川一真医師から注意を受ける予定だったが、この雨だ。看護婦の松岡千佳さんから「田川先生は来られないことになりました」と伝えられる。
先般来、注意事項を聞いていて、それを妻に徹底させればいいので不安はない。
ナースセンター前で、看護婦の松岡さんの笑顔に見送られる。
エレベーター前で妻がわたしに話しかける。
「あこがれの松岡さんに会えてよかったね!」
「うん、よかった」
妻に心の中を見透かされているようで照れる。
台風は房総半島へ近づいており、雨は次第に強烈になっていく。
当初、母を妻と一緒に会食して見送る予定だったが、電車がストップする可能性もあるので、一刻も早く東京駅へ着いたほうがいいだろうと判断して、千葉駅の緑の窓口でさざなみ号の特急指定券を払い戻し、母を千葉駅11時15分発の快速電車に乗せる。
「雑誌とウーロン茶缶を買ったから」
「ありがとう」
「こちらこそありがとう。本当に助かった!」
車中で待っている妻へ連絡する。
「母を乗せて電車が無事に発車した。途中で食事しないで直接帰ろうか?」
「そのほうがいい」
家に帰ってうどんを食べ、本を読んでいると眠たくなってきたので、妻と一緒に寝室のWベッドで横になる。15時ごろテレビを見ている義父が声を挙げる。
「午前中から新幹線がストップしている!」
その午前中とはいったいいつを指すのか? 母は果たしてのぞみに乗られたのか? 不安が募るばかりだ。16時に渦中の母から電話がある。
「日本橋の待合所で待機している。パンも食べたし、大丈夫よ!」
「そうは言っても、のぞみが動く確証がない以上、18時30分以降の発車であれば、当日中に帰られない。迎えに行くから千葉へ戻ろう!」
「滅多にない出来事に遭遇したので、おもしろいからこなくていい!」
電話を切ったわたしは、妻や義父母に「東京駅まで行くから」と伝えて、ひとり車に乗り込む。
大雨のため、心なしかハンドルを握る手がふるえる。家の前の私道からして一面、水浸しだ。
土気駅前を走っていると、樹木が倒れて片側一車線を遮断している。救急車が人を乗せて発車する。
下水から逆流した水が溢れて道路を覆う。消防自動車がポンプで道からあふれた水を吸い上げている。
京葉道路は時速50キロの速度制限だ。首都高速銀座出口で降りて東京駅に到着。
駅員に「日本橋の待合場所はどこですか?」と尋ねてたどり着くと、朝の10時ごろから新幹線の運転再開を待つ人たちでごった返している。
わたしは係員に、「昼ごろからのぞみを待っている一団はどこですか?」と訊いて、列の先頭あたりからくまなく探す。母は見つからない。
その場に呆然と立ちつくしていると、列を整理する係員に向かって怒声が飛びかう。
「いつまで待たせるつもりだ! いいかげんにしろ!」
「そのうち暴動が起きるぞ!」
係員はビデオ再生のように釈明を繰り返す。
「しばらくお待ちください」
「もう少しで出発します」
わたしは、のぞみが東京駅を18~19時までに発車しないと母が家までたどり着けないとの思いから、その場でたったひとり背広を着たいちばん偉そうな人に質す。
「もう少しというのは具体的に何分後のことを指すのですか?」
そのときだ、母が駆け寄ってくる。
「どうしたん?」
「心配じゃけえ、来たんじゃ。帰られんかったら、千葉へもう1泊すりゃあええ」
そのときだ。「のぞみの客だけ中へ乗せろ!」という号令がかけられ、改札口が一斉に開く。
この一声で、それまで紳士淑女然としていた人たちもわれ先にドドドッと階段を駆け上がって行く。うしろを振り返りながら何度もこちらへ手を振る母に声をかける。
「気いつけて帰るんで!」
母の姿が消えると、わたしは自宅へ電話をかける。
「たったいま、おふくろと別れた。無事にのぞみへ乗られたので実家には23時ごろ着くだろう。父に連絡しておいてほしい」
停めていた車に乗り込むと、倒れた樹木、道路からあふれでる洪水の場面を思い出し身震いする。
帰路は篠崎インターチェンジから京葉道路に上り、千葉東金道路の山田インターで降りた。
大網方面へ出るために山越えをして田園地帯へ入ると、あたり一面が湖沼のように水に浸っている。
前の車のあとを低速で走るが、右は川、左は田で唯一の目印はガードレール。
車のボディーの腹部がピチャピチャという音がして、まるで船舶で走行しているようだ。
家へたどり着くと、今度はわたしから実家の父へ報告とともに伝言をする。
「おふくろが無事、のぞみへ乗った。齢を重ねると翌日よりも2~3日後がしんどくなるので、仕事もほどほどに休養するよう伝えてほしい」と。
22時に再び実家へ電話して、母から連絡があったかどうかを確認したがまだとのこと。23時30分、ようやく母から電話がある。
「なかなか遭遇できないいい経験をさせてもらった。のぞみから電話をしようと思ったが、テレホンカードの残が少ないのでやめた。岡山駅へ着いても、駅員は単に遅れたくらいの認識しかなく、のんびりしたもんよ」
「乗降客も少ないし電車の間隔も開いとるけえかな?」
「東京とは明らかに違う」
「関東から岡山へ婿養子に行ったひとが言うとった。『最初しゃべり方が遅くて付いていけないので東京へ戻ろうかと思ったが、食べ物がおいしいし地震がないから、そのままとどまっている』と。それにしてもお疲れさん。いろいろとありがとう」
「そっちこそ雨の中を来てくれてすまんかった」
いつもは無口な母が興奮しているにせよ、珍しく饒舌だったと、電話を切って思った。