「手記 天女となった妻(下)」
思い出の家族旅行
奇跡もそう長続きしませんでした。脳転移のむくみが5、6センチに拡大し、万策尽きたとの思いから、妻が家族旅行を言い出しました。
わたしが六本木にあるザ・リッツカールトン東京での宿泊、長女が千葉県市原市の東京ドイツ村へ花巡りを提案しました。長男が静岡から、次男が北海道から駆けつけ、久々に家族6人がそろいました。
リッツカールトンのフレンチは美味ながら2時間半の食事時間は妻の体力を奪い、部屋に戻るとぐったりでした。翌日のドイツ村も最初こそ「花が綺麗」と言って喜んでいたものの、途中から「疲れた」と言って、花の香りをかぎながら居眠りを始めました。
このころからです。食べても食べても痩せていったのは。左脳のガン細胞が右眼の視覚を奪い、言語や数字を司る神経を圧迫し、柱の角で頭を打ったり、「きょうは何日? 何曜日?」を繰り返し、愛用の携帯電話を持たなくなりました。キーや操作がわからなくなったからです。
そんなとき緩和科の病室が空いたと言われ転科しました。緩和科とは、ターミナルケア、終末医療です。
妻の早すぎる死
6月5日の夜、長女・長男と遅くまで話し込み、6日には郷里から旧友たちが訪ねてきてくれ安心したのでしょう。
7日2時には、付き添いの次男に苦痛を訴え、5時過ぎに自らナースコールを押したそうです。
わたしは病院からの電話で水戸のホテルから駆けつけました。長女と長男には何度も電話とメールを繰り返し、「起きろ、起きて一刻も早くおかあさんの病院へ行け」と叫びました。
わたしが病院へ着くと、妻は人工呼吸器をつけて、心臓だけがかすかに動いている状態でした。長男は「おかあさん、おかあさん、逝かないで!」と泣き叫んでいました。わたしが到着したのを確認すると、「おかあさん、こんなに苦しんで目にいっぱい涙を溜めていたんだよ。こんなに涙の痕がある」と訴えました。
医師が「9時36分、ご臨終です」と語りかけると、義父は「逝くなよ~!」、長男と次男は「おかあさん!」といって泣きじゃくりました。妻享年48(満47歳)、最期の瞬間です。
遺された家族
2月に再発が確認されてからは、やんちゃで高校を中退した次男が北海道の高校に入学するまで洗濯干しや皿洗いに励んでくれました。
静岡市内の大学に通う長男も春休みが終わると土日のたびに自宅へ戻って買い物などを手伝ってくれました。
三男はいつも冗談を言って母親を笑わせました。
長女は大阪の会社に就職するまでは「おかあさんは大丈夫」と言いながら、母親の容態悪化・苦闘を知ると休職を願い出、これまで本当によく付き添ってくれました。妻も「娘がいるから安心」といって長女を秘書代わりに頼りました。
妻の最後の生きる目標、夢は三男が所属する野球チームの全国大会、世界大会への出場です。
6月7日9時半、銚子リトルとの決勝戦でプレーボールが宣誓されると、しばらくして妻は天女のように空を駆け友部グラウンドへ舞い降り、声援を送ったのだと思います。
三男がデッドボールで同点のホームを踏むと、チームメートの逆転ツーランホームランを呼びました。そのときアゲンストの風が吹いていたのが、急に横風に変わったそうです。
全国大会は7月4日、11日の2日間、東京・江戸川区球場で行われます。